kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

賢いバカとバカな賢さ  「理想の女(ひと)」

2005-12-11 | 映画
映画を見る前にオスカー・ワイルドの原作を読んでいたので筋は知っていたし、結末も。だからといって映画を見て興ざめするかと言うと決してそんなことはない。原作「ウィンダミア卿夫人の扇」では19世紀末の貴族社会が舞台。そして元々舞台劇として書かれたためにウィンダミア卿邸とダーリントン卿邸という二つの室内で演じられるだけであるが、映画は1930年のイタリアの保養地アマルフィ、街中、ホテルやクラブハウス。そこにやってきた裕福なアメリカ人ウィンダミア夫妻として描かれている。
何と言っても原作の持つ言葉の威力。当意即妙にして賢しい会話が魅力。さすが19世紀末の大ストーリーテラーたるワイルドの世界が開化しているのだが、貴族の持つ階級意識、排他性を背景に男女の恋の駆け引き、当時視されていたジェンダー、皮肉と諧謔、知性と痴性(?)など短い中に舞台台詞だけでこれだけの表現ができるものかと驚かされるばかりだ。
しかし舞台設定をがらりと変えたから「理想の女」の魅力が半減したかというとそうではない。主役のアーリン夫人を演ずるヘレン・ハントの華やかにして妖艶、賢い悪女にして、ずるく時に誠実な顔。アーリン夫人が嫌われているのは自分のとおりに生きているから。結婚がもたらす幸せと同時に結婚がもたらす不幸を自覚することが大事かつ、流されてはいけないと屹立しているアーリン夫人。財にだけ目がくらんだかのように男性遍歴を重ねたアーリン夫人の生き方は、よき夫と財を得たご夫人方の不自由故のやっかみの対象である。そして、アーリン夫人を取り巻く裕福な者たち(独り身の者も夫婦も)の言葉の端々に人生への希望と諦観が見て取れ、にやりとさせられる場面はいくつもある。
最愛の夫を選択し、幸福の絶頂にいるミス・ウィンダミアは自分はアーリン夫人のようなバカは犯さない、愚かではないと思っているのに、女たらしだけが生き甲斐のダーリントンに落ちそうになるし、お酒とカード、女性の値踏みばかりしているかに見えるバカなダンビーは実は賢いいい人であるという人生の逆転。
一筋縄でいかないのが人生であり、人間であり、男女の中であり、日々の生活。それらの機微を巧みに描くワイルドの筆には高い教養が裏打ちされているからと思える。すなわち、シェークスピアの台詞がすっと出てきたり、宗教の違いによる傾向の違いの指摘であるとか。日本でも教養主義が没落し、市場万能主義あるいは大衆迎合主義的な傾向が蔓延して久しい。人間社会は市場やポピュリズムだけで成り立っているわけではないし、そうであっては知性が衰退していくと感じる。ワイルドをはじめ、イギリス文学の細かな人間観察は(ワイルドはアイルランド出身だが)ときにじれったくもあるが、余裕と即断の排除も感じられる。
話は少しずれるがベストセラーのハリー・ポッター・シリーズは宗教や神話を下敷きに、古典の二番煎じのオンパレードであるという。しかし、それができるためには古典に通暁しておかなくてはならないし、それらをどう組み合わせていくかは作者の技量である。考え抜かれたシロモノなのだ。
「魅力的な人には2種類ある。全てを知り尽くした人と、何も知らない人だ」。ワイルドの言葉であり、映画のキャッチフレーズだ。たいていの人がその中間に位置し、今日も賢きバカとバカな賢さの間を揺れ動くのだろう。
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熊哲はカッコイイ!「くるみ割り人形」

2005-12-11 | 舞台
熊川哲也のダンスを初めて見た。彼が主催するKバレエカンパニーの公演だ。英国ロイヤル・バレエ団にいた熊哲は、押しも押されもせぬ日本のトップダンサーだが、西洋人に比べて小柄な彼のダンスがこれほど大胆かつ大きく見えるとは。高い跳躍力、指先まで美しい伸びきったラインにうっとりする追っかけ女性たちの気持ちもわかろうというもの(もちろんイケメンだからだが)。ダンサーとして超一流なら、主催するカンパニーの振り付けも見物。
チャイコフスキーの3大作品の最後、作家が亡くなる前年1892年にマリンスキー劇場で初演された「くるみ割り人形」は、もちろんホフマンの怪奇小説『くるみ割り人形とねずみの王様』を原作とする。少女クララがドロッセルマイヤーおじさんからくるみ割り人形をもらい、人形に加勢してねずみに打ち勝つお話だが、バレエの台本としては数々の演出が用意されたそうだ。怪奇性、神秘性を強調したもの(マリンスキー劇場、1929年、ロプホーフ版)、人形王子よりドロッセルマイヤーに重きをおいた作品であるとか(バーミンガム・ロイヤル・バレエ、1990年、ライト版)であるとか。熊哲の演出は、ホフマンの原作に忠実に従いつつ、舞踊とそれをささえる舞台仕掛け(美術)に大きな力を注いだ(お金も)ことであるという(「バレエ「くるみ割り人形」の誕生と新演出の歴史」村山久美子)。そう、多彩な舞台仕掛けに目を奪われるとともに、それに合わせた複雑かつ豪奢なダンスにため息が出た。まあ、クララが見る諸国漫遊の踊りの数々(東洋趣味(インドと中国)、ロシアコサック、英国のソーシャルダンス)はお決まりだが、それぞれが高い技量と表現力を兼ね備えている。パ・ド・ドゥも、パ・ド・カトレもコール・ド・バレエも。
そして熊哲のソロとパ・ド・ドゥ。次の演技が始まるときの一瞬の溜め、そして一気に舞う呼吸の妙が熊哲の魅力なら、冒頭にも記したが日本人であることを忘れさせさる大きさ。そしてまるで精密機械で測ったかのようにすくりと伸びる腕と手のひら。
ダンサーとしても芸術監督としても油が乗り切っている熊哲が関西に来た時はまた見に行こう(でもいい席が取りにくいのが難題)。
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「生きる」という問いかけ  亀も空を飛ぶ

2005-12-05 | 映画
バフマン・ゴバディはクルド人の視点から、クルド人の日常から映像をくみ出す。そこは一応戦争のない(もうアメリカの「イラク戦争」参戦という意味では戦中であるが)、平穏で豊かな日本から見れば想像もできない過酷さにあふれている。村の子どもも難民の子どもも孤児であったり、傷ついていたり。才覚に長け、村の長老らも頼りにするサテライトは孤児らを統率するリーダーなら、彼の一の子分であるパショーは地雷で失ったであろう片足で松葉杖を器用に操る。サテライトの村にたどりついた難民の兄弟。兄ヘンゴウはこれも地雷で両手がない。妹アグリンは小さな目の見えない「弟」を背追っているが、実はイラク兵が村を襲ったときレイプされ産み落とした子どもであるという設定。ヘンゴウもアグリンも一度も笑わない。いや、笑わないどころかアグリンの射抜くような眼差しは、この世に信じられるものな何もない、希望などなにもないという事実をわずか10代半ばにして悟ってしまった人間の諦観かつ疑念の証なのだ。
結局、自分が産んだのだけれども愛せないし、自分が生きていく上で邪魔でしかない子どもを殺してしまうアグリンは、自分も生きるのを止めてしまう。アグリンにほのかな思いを抱いていたサテライトとヘンゴウは、アメリカ軍がフセイン政権を倒したとは言え、すぐには何も改善されないキャンプ生活を続けていくことになるのだ。
戦争で一番傷つくのは子どもたちであると言われる。それは戦争を引き起こした為政者を選んだり、反対したりすることについて何の責任もないからだ。そして子どもらは時には兵士として育てられ、あるいは、兵士の性のはけ口の対象とされる。
クルド人を説明するのに「世界最大の少数民族」というのがある。国家を持たないのにトルコ、イラン、イラク国境に生きる人たちはおよそ3000万。そのいずれの国からも迫害されてきた歴史はディアスポラそのものかもしれない。しかし、革命以前のイランはパーレヴィー政権、イランと戦争をしていた時のイラクはフセイン政権、そしてアルメニアをはじめキプロス、クルディスタンなど周辺地域の民族を常に迫害してきたトルコのどれをとってもクルド人を苛んだ政権に肩入れしてきたのはアメリカだったのだ。そのアメリカが来れば悪魔のフセイン政権が倒れると喜ぶクルド人の現実と皮肉。
サテライトの逞しさ、ヘンゴウやアグリンらの痛さだけがこの映画のテーマなのではない。戦争が起こったとき、子どもたちはいつも置き去りにされるのだ、遺しておかれるのだ。そういう一人一人、一つ一つの小さな命から見えてくるものがある。被迫害の歴史を背負ったクルディスタンの視点からとらえるゴバディのカメラは、過酷であるにもかかわらず何か突き抜けていてカラッとしている。もともとは遊牧民が助けあって生きてきたクルディスタンの心根が表れているからかもしれない。
なお、イラク戦争を描いた映画Little birds(http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/85fb450efc01cd577db48bc8bb005b41)もとてもお勧めである。お伽草子
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