映画を見る前にオスカー・ワイルドの原作を読んでいたので筋は知っていたし、結末も。だからといって映画を見て興ざめするかと言うと決してそんなことはない。原作「ウィンダミア卿夫人の扇」では19世紀末の貴族社会が舞台。そして元々舞台劇として書かれたためにウィンダミア卿邸とダーリントン卿邸という二つの室内で演じられるだけであるが、映画は1930年のイタリアの保養地アマルフィ、街中、ホテルやクラブハウス。そこにやってきた裕福なアメリカ人ウィンダミア夫妻として描かれている。
何と言っても原作の持つ言葉の威力。当意即妙にして賢しい会話が魅力。さすが19世紀末の大ストーリーテラーたるワイルドの世界が開化しているのだが、貴族の持つ階級意識、排他性を背景に男女の恋の駆け引き、当時視されていたジェンダー、皮肉と諧謔、知性と痴性(?)など短い中に舞台台詞だけでこれだけの表現ができるものかと驚かされるばかりだ。
しかし舞台設定をがらりと変えたから「理想の女」の魅力が半減したかというとそうではない。主役のアーリン夫人を演ずるヘレン・ハントの華やかにして妖艶、賢い悪女にして、ずるく時に誠実な顔。アーリン夫人が嫌われているのは自分のとおりに生きているから。結婚がもたらす幸せと同時に結婚がもたらす不幸を自覚することが大事かつ、流されてはいけないと屹立しているアーリン夫人。財にだけ目がくらんだかのように男性遍歴を重ねたアーリン夫人の生き方は、よき夫と財を得たご夫人方の不自由故のやっかみの対象である。そして、アーリン夫人を取り巻く裕福な者たち(独り身の者も夫婦も)の言葉の端々に人生への希望と諦観が見て取れ、にやりとさせられる場面はいくつもある。
最愛の夫を選択し、幸福の絶頂にいるミス・ウィンダミアは自分はアーリン夫人のようなバカは犯さない、愚かではないと思っているのに、女たらしだけが生き甲斐のダーリントンに落ちそうになるし、お酒とカード、女性の値踏みばかりしているかに見えるバカなダンビーは実は賢いいい人であるという人生の逆転。
一筋縄でいかないのが人生であり、人間であり、男女の中であり、日々の生活。それらの機微を巧みに描くワイルドの筆には高い教養が裏打ちされているからと思える。すなわち、シェークスピアの台詞がすっと出てきたり、宗教の違いによる傾向の違いの指摘であるとか。日本でも教養主義が没落し、市場万能主義あるいは大衆迎合主義的な傾向が蔓延して久しい。人間社会は市場やポピュリズムだけで成り立っているわけではないし、そうであっては知性が衰退していくと感じる。ワイルドをはじめ、イギリス文学の細かな人間観察は(ワイルドはアイルランド出身だが)ときにじれったくもあるが、余裕と即断の排除も感じられる。
話は少しずれるがベストセラーのハリー・ポッター・シリーズは宗教や神話を下敷きに、古典の二番煎じのオンパレードであるという。しかし、それができるためには古典に通暁しておかなくてはならないし、それらをどう組み合わせていくかは作者の技量である。考え抜かれたシロモノなのだ。
「魅力的な人には2種類ある。全てを知り尽くした人と、何も知らない人だ」。ワイルドの言葉であり、映画のキャッチフレーズだ。たいていの人がその中間に位置し、今日も賢きバカとバカな賢さの間を揺れ動くのだろう。
何と言っても原作の持つ言葉の威力。当意即妙にして賢しい会話が魅力。さすが19世紀末の大ストーリーテラーたるワイルドの世界が開化しているのだが、貴族の持つ階級意識、排他性を背景に男女の恋の駆け引き、当時視されていたジェンダー、皮肉と諧謔、知性と痴性(?)など短い中に舞台台詞だけでこれだけの表現ができるものかと驚かされるばかりだ。
しかし舞台設定をがらりと変えたから「理想の女」の魅力が半減したかというとそうではない。主役のアーリン夫人を演ずるヘレン・ハントの華やかにして妖艶、賢い悪女にして、ずるく時に誠実な顔。アーリン夫人が嫌われているのは自分のとおりに生きているから。結婚がもたらす幸せと同時に結婚がもたらす不幸を自覚することが大事かつ、流されてはいけないと屹立しているアーリン夫人。財にだけ目がくらんだかのように男性遍歴を重ねたアーリン夫人の生き方は、よき夫と財を得たご夫人方の不自由故のやっかみの対象である。そして、アーリン夫人を取り巻く裕福な者たち(独り身の者も夫婦も)の言葉の端々に人生への希望と諦観が見て取れ、にやりとさせられる場面はいくつもある。
最愛の夫を選択し、幸福の絶頂にいるミス・ウィンダミアは自分はアーリン夫人のようなバカは犯さない、愚かではないと思っているのに、女たらしだけが生き甲斐のダーリントンに落ちそうになるし、お酒とカード、女性の値踏みばかりしているかに見えるバカなダンビーは実は賢いいい人であるという人生の逆転。
一筋縄でいかないのが人生であり、人間であり、男女の中であり、日々の生活。それらの機微を巧みに描くワイルドの筆には高い教養が裏打ちされているからと思える。すなわち、シェークスピアの台詞がすっと出てきたり、宗教の違いによる傾向の違いの指摘であるとか。日本でも教養主義が没落し、市場万能主義あるいは大衆迎合主義的な傾向が蔓延して久しい。人間社会は市場やポピュリズムだけで成り立っているわけではないし、そうであっては知性が衰退していくと感じる。ワイルドをはじめ、イギリス文学の細かな人間観察は(ワイルドはアイルランド出身だが)ときにじれったくもあるが、余裕と即断の排除も感じられる。
話は少しずれるがベストセラーのハリー・ポッター・シリーズは宗教や神話を下敷きに、古典の二番煎じのオンパレードであるという。しかし、それができるためには古典に通暁しておかなくてはならないし、それらをどう組み合わせていくかは作者の技量である。考え抜かれたシロモノなのだ。
「魅力的な人には2種類ある。全てを知り尽くした人と、何も知らない人だ」。ワイルドの言葉であり、映画のキャッチフレーズだ。たいていの人がその中間に位置し、今日も賢きバカとバカな賢さの間を揺れ動くのだろう。