2021年9月に53歳で早逝した法哲学者那須耕介さんの遺稿ともなった対談を収めた本書は、混沌、複雑化とのありきたりな言葉で現代を表象、説明して終わりとしたがる風潮に鋭く切り込み、そして大きな示唆に富んでいる。
キーワードは「自由のしんどさ」「移行期正義」「遵法責務」。
「自由のしんどさ」は比較的分かりやすい、というか日々感じている。自由の範囲が拡大し、個人の選択を個人の責任でと言われると、何でもかんでも自分では決められない、もう国で決めてくれ、というのはあるだろう。そして、個々人の自由は必ず衝突する。だから民主主義が機能して話し合ったり、落とし所を見つけるというプロセスにつながる。また、自由同士の衝突でいえば、表現の自由がその典型的な場面だ。あいちトリエンナーレから続く「表現の不自由展・その後」をめぐる一連の戦争責任追及や政権批判と歴史修正主義的価値観との対峙や、ヘイトスピーチ抑制のための「表現の自由」と「差別」との切り分けが想起されるだろう。歴史的に表現の自由の擁護者が、その枠外を規定していくことでその擁護を強固にしてきたという事実は興味深い。「「表現の自由」を制限する方向に働きかける動きは、僕たちの中にも絶えず働いている。そこをわかっていないと、「表現の自由」に大事さは、むしろ見失われてしまう。つまり、それがなぜ大事かという理屈自体が、もともとそんな盤石なものじゃないということ、それをちゃんとわかることの方が必要」(40頁)。
「民主化への過渡期のある社会において、先行する戦争・内戦・圧政期に行われた大規模・集団的悪行(人権抑圧・虐殺等)に対する適切な処理、もしくは処理の方針」これが「移行期正義」の定義である。つまり、人権抑圧や虐殺の張本人を裁判にかけるにしても遡及法で処罰してはならないけれど、そうすると全く責任追及しないという方法も取れないので、何らかの手立てが必要であるということ。同時に、結局そういった戦後処理に正義を貫徹する際の「正義」とはその社会の中で権力をにぎった人間が定義するものだということもある。これは、クーデターや民主的選挙であっても政権転覆後のどのような政権が誕生したかによって、先の権力者への対応が違うということを見るとわかりやすいのではないか。そして「負けた人間は、強い人間に従え」(86頁)ということ。しかし、そうはいっても近代社会、特に西洋思想が反映している中で、「そうはいっても」という対応がされる。黒の次は白ではないのである。「そうはいっても」の落とし所にまさに民主主義の深度や成熟度、あるいは不完全性や混沌にかかっているというのは言うまでもないだろう。
筆者が支援している「君が代」不起立で処分された教員らによく浴びせられる言葉が「ルールに従え」というものだ。思想信条は措いておいて面従腹背せよとも取れる。そしてそもそもルールが間違っていても従わないといけないものか。「遵法責務」のアポリアによく引用されるのが、戦後間もない頃、闇米を取らずに餓死した裁判官の話。本書でも繰り返し言及される。その裁判官は闇米で食糧管理法違反で法廷に引っ張り出された被告人らを次々有罪にしてきた、そんな自分は闇米を食べるわけにはいかないと。一方、公務員たる者職務を全うすることは当然で、私生活は別との安易な切り分けも可能だ。対談では「公民」と「市民」の違いも議論される。国は無くなっても社会は存在するので、法を守るべき「公民」の時と、それさえも前提ではない「市民」の立場はありうるとする。しかし、社会にはルソーの言う一般意志が既に貫徹しているのが通常なので、そこから外れる不服従は絶対に軋轢を生む。そう「自律と同調圧は裏表の関係」(241頁)なのだ。
法哲学という理屈をやっぱり理屈で説明づける学問は、哲学や論理学など、もちろん法学の識見が披瀝され、はっきり言って評しようとする筆者の手に負えるものではない。けれど、知識も学問もわかったふりをせず、同時に簡単にはわかった気にならない大切さを本書は教えてくれる。何よりも面白い。早逝した那須さんのお話が聞けず、もう執筆されない事実が何とも残念だ。(『社会と自分のあいだの難問』はSURE刊。3080円。一般書店では手に入りません。図書館に希望するか直接編集グループSUREにお問い合わせください。)