舟越桂の彫像はこちらを見ない。たとえば、アイドルや女優のポスター、ピンナップはどの方向から見てもこちらを見ているような錯覚に囚われる。その反対だ。舟越は、全身木彫のなかに眼球だけ大理石を用いる独特の手法でかつ、その大理石の眼は、わざと外側を向き、決して鑑賞者とは正対しないという。作品そのものの不可思議さ、超現実性と相まって、それら作品群は、見るものを置いてきぼりにする。そう、見られているのではなく、見ている者が見ているかどうか。
彫刻は、見られる角度が一方向ではない。横から、背面から、ときには斜め下から、上方から。多分、彫られているときにどの方向から見られるかを想定しているのではなくて、どの方向から見ても、その作品の本質にはなんら影響を及ぼさないからであろう。それは、作家があらゆる方向から彫りすすみ、その彫りすすみと同じように鑑賞者も見てすすむからである。そういう意味で彫刻は元来多面的で、見据える方向は、見る側に委ねられているようにも思える。しかし、舟越の作品はそうではない。こちらを見ていない眼球がこちらをとらえて放さないのだ。
作家の小川洋子さんが、「舟越さんの作品はどれも、待たれる人々だ。打算も理屈も超えた、証明さえも必要としない約束のもと、待つ人々の願いを心で受け止めている。ただ単に不在を補っているのではなく、不在そのものとして、そこに存在する。」と述べている。「待たれる人々」。そう、こちらを見ていないけれど見据えている、見ないでおこうとすれば、それに気づく、不思議で、ある意味怖い存在。それが舟越作品の「待たれる人々」の本質かもしれない。
小川さんがいつ、どの作品群を指さして語ったのかは詳らかではないが、舟越作品は、近年両性具有やおどろおどろしい迫力をもってして対面していく。「私の中のスフィンクス」シリーズである。なぜ「私の中」であるのか。スフィンクスは人に対して「4本、2本、3本の脚を持つ生き物」の謎かけをしたが、人はそれを自分のことと認識した。しかし、人は、人間はスフィンクスの言うような変化を生きるのであろうか。あくまで「私の中」という完結しない自己完結ではないのか。
舟越の描くスフィンクスは雌雄同体である。人間を超えている。しかし、彫られたそれはどう見ても人間である。そのスフィンクスが私たちに問いかける。私はどう見えるのか、と。いやはや、舟越彫像はすべて、見ている者が見られている、その見方が試されていると冒頭に述べたことが、現実離れしたスフィンクス像でも貫徹されているのだ。描かれている、彫られている私がどのような異形になっても、あなたは、ちゃんと、私を見ているのかと。
彫刻作品は、ときに平面画業以上に抽象性が増すことによって、好き嫌いが分かれるという。舟越の作品に抽象性はみじんもないように見える。しかし、近代彫刻以降を見ても、ロダンの、ヴィーゲランの、あるいは高村光雲の作品に抽象性はなかったか。そんなことはあり得ない。作者の観念どおりに彫られていったにすぎない。
こちらを見ていないのに見ている。とは怖い。彫刻の側から見ているこちらを見られている。そのような怖く、深い体験を船越作品は、あちらこちらから試してくれる。(もう一人のスフィンクス)