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kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

ドレスデン国立美術館展と「オランダの光」

2005-03-27 | 美術
フェルメールの作品は世界で30数点しかないと言われとても貴重だ。しかし、その3分の一くらいは見たと思う。今回も「窓辺で手紙を読む若い女」が目玉で、1点だけ別室にしつらえてあった。けれどいくら目玉であってもあの扱いはどうか。昨年の神戸市立博物館での「栄光のオランダ・フランドル絵画展」に「画家のアトリエ(絵画芸術)」が来たときも大げさな展示だった。たしかに珠玉の作品であるけれど、一品だけことさら別室にものものしく展示するのはフェルメールの風俗画を楽しむのにもふさわしくないように思える。まあ、どうしても人だかりがするから他の作品と等間隔で展示するわけにはいかないだろうけれど。ベルリンの文化フォーラムでも、NYのフリックコレクションでもフェルメールが普通に飾ってあって、むしろ他の作品より抜きん出ていて眼を引いた覚えがある。そんな「普通の」展示の方が好もしい。
ドレスデンは「世界の鏡」(本展覧会サブタイトル)として隣国のフランスやイタリアはもちろん東洋までその「美の収集」に奔走した姿は圧巻だ。マイセンで伊万里を表現するなど面白い。絶対王制こそ芸術の発展と保持にふさわかしかったのは古今東西の常識だが、共和制以降の現代人がその圧政の罪と歴史的保存にいかに自覚的であり得るか。ドイツバロックは、ナチスという史上最悪の犯罪をくぐり抜けた地の単なる古典であってもその魅力が減じることはない。第2次大戦で徹底的に破壊された古都ドレスデンは、修復もすすみ、ドレスデン城は2010年には壮大に完成するという。行ってみたいものだ。
同会場で記念上映された「オランダの光」は、フェルメールやレンブラント、「光の画家」たちを生み出した地域の独特の「光」にスポットをあてたアナログ作品。モンドリアンのコンポジションにもこの光が確実に影響しているとする解説はなんとなくわかるような気がした。そういえば、モンドリアンの作品を多く持つ市立美術館、フェルメールを展示するマウリッツハイス美術館を擁するデン・ハーグの陽光はやさしかった。
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隠された風景 死の現場を歩く 福岡賢正(南方新社)

2005-03-19 | 書籍
犬や猫を「かわいい」と育てはじめ、大きくなったり、老いると捨てる人たち。夏場の海水浴場に大型犬を連れてきてそのまま残して去る観光客。これらペットが野犬化などすると危険なため「殺処分」の「悪役」を引き受ける保健センターの職員。そういった保健センターの仕事を「むごい、かわいそう」と非難する人たちもまた犬猫を「かわいい」と言った最初の人たちと重なる。
あるいは食べきれないほどの肉をあさりながら、平気で残し捨てる私たちの食生活。その私たちは屠畜の現場にいる人を差別し、また屠畜場の建設等に反対する。鶏の頚をさっさと切り、鶏肉へと解体する作業を見て「なんてかわいそうな」と言いながら、フライドチキンを食べ散らかす。
またあるいは、家族や会社などへの「すみません」を書き連ねながら自ら命を絶つ人たち。自殺するのはその人が弱いからだと言い放つ人もいて、自殺者の家族はますます肩身が狭くなる。日本の自殺者およそ3万5千人。「世間体」を気にして「病死」で済ませる家族も多く、実態はこれより多いとも言われる。「死」を考え、その内奥に迫ることは「生」を考えることでもある。しかし、現代の私たちの日常にはあまりにも「死」が隠されてはいないか。だから「生」への想像力を欠いてはいないか。
「人を殺してみたかった」少年。ウサギを何十匹も埋め殺した者。最近ではうるさいから殴ったら動かなくなったと我が子の命を虫のように奪う親さえよく報道される。「死」があるから「生」があるのであって、日々の「死」体験は、今ある「生」を大事にしようとすることにつながらないか。
著者の福岡さんはそこまで書いてはいないが、私が代弁しよう。ペットを保健所に引き取ってとやってくる人たちに「はい、殺す道具や薬は無料でお貸ししますから、自分でしてください」と。
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帝国を壊すために 戦争と正義をめぐるエッセイ アルンダティ・ロイ (岩波新書)

2005-03-16 | 書籍
インドの作家アルンダティ・ロイは、歯に衣を着せぬ舌鋒でブッシュ政権を批判してきた。それは根拠のない批判ではなく、ネットや世界中のニュース、研究成果を採取・分析した結果であり、マスメディアが伝えなかった、あるいは伝えたとしてもほんの小さな記事をもないがしろにせずとらまえた真摯な姿勢の証である。イラク戦争に米石油資本の権益  チェイニーがハリバートン出身であることなど明らか  でもあるにもかかわらず、イラク戦争は石油争奪戦との見方は安易にすぎるとしたどこぞの国の知ったかぶりを一刀両断する言説は胸のすく思いだ。しかし、インドの貧しく、開発独裁(でないにしてもそれに近い)の犠牲となっている住民の声に耳を傾けつつ、それらを紹介するロイの本質的立場はグローバリズム批判はもちろんだが、郷土愛とも言うべき身近な者らへの不合理な差別、排除に対する怒りである。
「社会学」という新しい学問が跋扈する日本において良心的な学者はもちろんいるのだが、誰が虐げられし近き者への寄り添いを表現し得たか。サイードもデリダも亡くなった。世界には身近な虐げられし者へ眼差しを向け、想像力/反想像力、富めるもの/そうでない者、持てる者/持てない者といった本源的な差別の構造の解釈・理解によって追及してきた知識人がいた。
ロイがそのうちの一人であることは間違いないが、日本では私の浅薄さゆえ思い浮かべることができない。
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フィレンツェ 芸術都市の誕生 展

2005-03-13 | 美術
本展覧会は、日本経済新聞社が中心となっている「フィレンツェ/トスカーナプロジェクト」の一環である。東京で開催され、京都に巡回したのはフィレンツェと姉妹都市であるからだそうだ。同じ古都でも街全体が美術館と言われるのとは大分違うような…。それでも大文化都市フィレンツェがなぜそうなっていったのか絵画、彫刻、金工、医学・科学、織物、建築と居住文化とセクションを分け、多角的に迫ろうとする意気込みはわからないでもない。しかし、14~16世紀に焦点を当てるのであればメディチ家の庇護のもとに活躍した芸術家、工業・商業主も多いのであるから、コジモやロレンツォらのどのような関わりの中で文化都市として発展していったのかもっとわかりやすい展示もあり得たのではないか。図録に詳しく出ていたのかもしれないが、狭さでは関西有数の(?)公立美術館では難しかったのかも。その狭さを余計に感じさせたのが人出の多さ。これではどの作品もゆっくり見られない。会場規模と展覧会のコンセプト、それに入場の方法など考えてほしいものだ。向かいの京都国立近代美術館では「河合寛次郎」展をしていたのだが、残念時間がなく寄れず。夜の酒肴の器は河井寛次郎作と思い込み痛飲することにしよう。
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久々のミュージカル オペラ座の怪人

2005-03-13 | 映画
ウィーン国立劇場で「胡桃割り人形」を観たときは大枚をはたいてボックス席を取ったのに隣のボックスの男性が身を乗り出してよく見えないのが少し難儀だった。しかし演目はすばらしく、多いに拍手を送ったものだった。パリのオペラ座は訪れたとき丁度改修中で、何も上演していなかったようだが今もボックス席の5番は誰も陣取ってはならないのだろうか。
ガストン・ルルー原作のの本作は幾度も舞台化、映画化されているお馴染みだが、これまではミステリー(原作がそうだ)、ホラー化されやすかったのが、本作はラブストーリーが前面に出ているそうな。確かに美しい容姿と声を持つヒロインを顔に傷を持つファントム(怪人)と清廉で正義感あふれる若い貴族が取り合う構図は単純な三角関係。本作の魅力は、舞台裏の描き方にある。表で華やかな演目がなされている間、裏手では次の準備や罠、陰謀が渦巻く。そしてずっと響く歌声。ミュージカルの本旨である台詞がすべて歌というのは少し苦手だが、舞台の表と裏の対比は「ゴスフォードパーク」を思い起こさせるようで興味深かった。舞台はオペラ座なのにハリウッド映画のため英語。カトリーヌ・ドヌーブの古い作品「シェルブールの雨傘」が見たくなった。
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生命(いのち) 希望の贈り物

2005-03-13 | 映画
1999年9月の台湾大地震での犠牲者はおよそ2500人。南部の山岳地帯で特に被害は大きく、行方不明の肉親は未だ見つからない。幼い子どもらを両親に預けて日本に出稼ぎに来ている夫婦は両親、子どもを失う。街に出ていたため両親と弟を失った姉妹。仲の悪かった兄以外は全て失った女子大生。授かったばかりの小さな子どもを失った夫婦。それぞれの悲しみをカメラは静かに追う。精神的に不安定になった女子大生は兄夫婦を頼るが自殺未遂。毎日山を掘り起こす作業を見守る姉妹はついに両親らの亡がらにも出会えないまま、山を去る。よくトラウマの解決には時間が必要だと言うが、それはその通りであるとともに、時間は新たな希望を運んでくることもあるからだろう。小さな子を失った夫婦と、残された姉妹の妹には新たな生命が。兄のところで悶々と過ごしていた女子大生はNYに飛び立つ。ドキュメンタリーフィルムとしてのカメラはここでは、被災者らに寄り添い、耳を傾けるセラピーの役割を果たしている。
阪神大震災から10年。さまざまなイベントが行われたが、一人ひとりの被災者に寄り添う映像を日本のメディアは作り得たか? 本作が2003年山形国際ドキュメンタリー映画祭で優秀賞を受賞したのは皮肉である。映画祭は開催できるけれど、力のある作品が供給できない日本の現状があるからだ。
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スペイン美術館巡り アントニ・ガウディの仕事

2005-03-05 | 美術
バルセロナオリンピックがもう13年も前の92年に開催されたことは知らなかったが、その頃からかガウディが日本でよく紹介され人気がでてきたのだろうか。言うまでもなく現在も建築中のサグラダ・ファミリア大聖堂は工事中でもあるにも関わらずかなり高いところまで登って見学できる。その高さに怖くなったが、現在ある8本の鐘楼に加え完成後は18本になるという勇壮さに触れてみたいものだ。ガウディ建築の面白さが実体験できるのはやはりグエル公園とカサ・ミラだろう。カサ・ミラの中はガウディ博物館、屋上に出ることができここがまた変な形の突起物がいっぱいあって楽しい。ほかにもバスや地下鉄ですぐ行けるところにガウディの仕事にいくつも出会え、バルセロナはさながら、シュールレアリズムの巨匠たちとともに変な形態、奇抜な色使い、そして奇想天外な構造物を一度に味わえるゴキゲンな街といったところ。
グエル公園はかなり高台の住宅街の上にあって、小さなバスでよじ登っていくという感じだが、私が降りる停留所を間違えると教えてくれるなどとても親切にしてもらった。そしてグエルの空はとても青くてまぶしかった。スペイン美術館巡りもこれでおしまい。
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パッチギ! 河の流れもいつか落ち着く

2005-03-03 | 映画
「岸和田少年愚連隊」や「ゲロッパ」などベタなエンターテイメントを描かせたら随一の井筒和幸監督の最新作は68年頃の京都を舞台に在日朝鮮人高校生の日常とその番長の妹に恋する優しい日本人少年の物語。GS、全共闘、毛沢東語録、ヒッピーと60年代の時代臭がぷんぷんして楽しい。そして、フォークルの伝説の名曲「イムジン河」が全編を包み込む。
可憐な在日朝鮮人女子高生キョンジャが親しくなりつつある日本人康介に「結婚したら、朝鮮人になれる?」と訊く台詞は象徴的だ。日本に60万人もの在日韓国・朝鮮人が済むようになった理由(=強制連行)と戦後日本の排他的排外的政策ゆえに在日同胞のコミュニティーを確固なものとして生きるしかない在日にとって日本人への同化はありえなかったのだ。もちろん康介の両親ら、日本人社会が朝鮮人が日本人になることもまた絶対許さなかっただろう。
映画を見ていて住井すゑの「橋のない川」をずっと思い出していた。時代はもっと古く、被差別の解放運動組織である全国が結成される頃までを描いた同作品は、差別するあちら側と差別されるこちら側には「橋」がないことが交流や共生、そして対等、平等を阻害していることの象徴として描かれていた。一方「パッチギ」では橋はあるが、あちら側とこちら側で行き来がなく、抜き難い断絶を示している。乱闘シーンも康介がキョンジャに思いを告げるときも、橋を使わず河を泳ぎ、またいで行く。橋の存在そのもより橋の架け方、使い方の方が大事だと。
韓流ブームに見る空前の韓国人気、雪解けの一方で「拉致問題」は「解決」の糸口さえ見えず、「経済制裁」の声が高まるばかりだが、ワールドカップサッカーが橋の架け方、使い方のとば口になるだろうか。
康介が河を渡るシーンは前日の大雨で大洪水だったそうだが、河の流れもいつか落ち着く。そして橋には入り口が必ずあるなら、出口もきっとある。
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スペイン美術館巡り カタルーニャ美術館

2005-03-01 | 映画
中世キリスト教美術の殿堂は、一般の日本人観光客には退屈かもしれないが本当に素晴らしい。ロマネスク様式の壁画がそのままいくつも持ってこられて展示されている様は驚嘆に値する。よく見るとファンキーにも思えるキリストを始めとする聖人たち。見疲れ、歩き疲れを許さない作品の数々が、もっと中世美術に詳しくなりたいという思いに駆り立てさせられるのだ。ゲルニカ、そしてスペイン内戦は別にして比較的戦災や、カソリックのずっと強かったお国柄ゆえ宗教改革などによる破壊などを免れた故の遺産かもしれないが、600年以上も壁にかかっていた木製の磔刑像などぞくっと来る。演奏会などに利用されるという円形のホールを中心に拡がった分かりやすい展示=作品展開も心地よい。
堪能した余韻を記憶したく、ショップで図録を求めたが英語版さえない。仕方がないのでスペイン語版を取り購入しようとすると、「カスティリャーノ語かカタルーニャ語か?」と聞く。そんな違いが分かるわけないので「Spanish」と叫んでいたら、なんか渡された。多分カスティリャーノ語版なのだろうが、図版だけで楽しんでいる。
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