平野啓一郎原作にかかる本作は恐ろしいが、滑稽だ。人間の性(さが)、本質を衝いているとともに、その不可解さや無限性をも示唆しているように思える。
恐ろしさは、オーウェル『1984年』も彷彿させる個人管理。『1984年』では、国家がアナログな方法で個人の情報、行動そして思想を全て管理する様が描かれていたが、そこには隙間もある。主人公が束の間の恋を愉しむ時間はその隙間を自由となし、やがてその自由が彼を追い込んでいった。デジタル社会で個人の動き - そこには視界や聴覚も捕捉される - を全て管理される様を描く「本心」では、思考の自由は担保されているが、それゆえ「自由死」を選んだ母親の真意=本心、を探ろうとハイパーテクノロジーであるデジタル仮想空間にどんどんのめり込んでいく。ワヤレスフォンとゴーグルをつければ、そこにAIで完璧に学習した母(ヴァーチャルフィギュア、VF)が立ち現れ、普通に会話する。「自由死」とは、自分で自分の死期を決めることができる制度である。果たして「自由死」を選択したのは母の「本心」であったのか。生前の母石川秋子(田中裕子)と仲良く、朔也(池松壮亮)と同居することになる三好彩花(三吉彩花)の情報も得て、VIはどんどん進化しいく。
過日、大雨の日、危険な場所にいた母を追い、重傷を負った朔也は昏睡中に母を失い。職場もなくなっていた。リアルアバター(RA)として仕事を始める。RAとは、依頼者に成り代わって実際行動をするいわばヴァーチャル・リアリティから「ヴァーチャル」を取り除き、ウーバーイーツの行動力で実演する奴隷的労働である。臨終間近の依頼者から、かつてよく訪れていた高級レストランで食事などはまだいいが、「殺人」まで依頼する者もいる、カスタマー至上主義の「タガがはずれた」サービスだ。依頼者は成果に星をつけ、評価が低ければクビになる過酷な世界だが、社会的に這い上がれない層にはこのような仕事しかない。タイミーなどギグワークが当たり前の現在、もはや「ヴァーチャル」ではなくなるだろう。
母との会話、そこに彩花も加わり、「本心」を探るが、VFの完成度にハマるほど、「本心」は見えなくなる。そして、RAの仕事は過酷さを増してゆく。朔也が外国人ヘイトの男を「懲らしめた」動画が出回り、ヒーローとなり経済的には落ち着く。が、朔也に手を差し伸べたアバターデザイナーのイフィーは彩花に結婚を申し込み、そもそも不安定な彼らの関係はどんどん壊れていく。
本作にはいくつかの問いがある。AIを中心にテクノロジーでヴァーチャルはリアルを創作したり、超えたりすることができるのかということと、人間の「本心」は他者に、あるいは自身に解明可能なのかということ。同時にこの2つの問いに(正)解はないことも。さらに、本作では「自由死」の制度的背景は描かれていないが、「プラン75」(早川千絵監督、倍賞千恵子主演。2022)を想起すれば、容易に理解できる。「プラン75」では、財産も仕事もない主人公ミチが75歳以上は自己の死期を選べる制度を選択せざるを得ない姿を描いた。秋子もミチも貧困で「用のない、役に立たない高齢者」は超高齢社会、財政逼迫の国家のために自死に追い込まれるのは同じである。もちろん「プラン75」でも制度に疑問を持つ、より若い世代も描いていたが、制度の前に朔也も含めて抗うことなどできない。しかも、それでも精神の自由だけはあった(はず)なのに、困窮や孤立ゆえにその自由さえもない仕事しかない、それに全て縛られるとすれば。
ここまで見てくると、「本心」も「プラン75」もSFなどではなく、とても近しい「近未来」であることが分かる。紛れもなく、実現「可能」なディストピアであったのだ。
「何よりもまして自由なものは心の中のものおもい 目をひらく以外に止めるものはない」(小椋佳「思い込み」)。目をひらいたらVFのゴーグルがあった。テクノロジーは思念をも支配する。(「本心」石井裕也監督・脚本 2024)
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