kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

『公の時代』と『あいちトリエンナーレ「展示中止」事件』をどちらも読むことをお勧めする

2019-12-23 | 美術

2020年の年賀状にあいちトリエンナーレの「表現の不自由・その後」展の中止騒動について「あの事件が民主主義が瓦解していった時代の重要なトピックだったと言わなくて済むように、美術を中心に表現の問題に関心を寄せ続けて行きたいと思います。」と書いた。それほどまでに、あの事件はいろいろ深い意味と緊張関係をはらんでいるように思う。「表現の不自由」展については、開幕2日目に視察した河村たかし名古屋市長の「日本人の、国民の心を踏みにじるものだ。即刻中止していただきたい」発言があり、その発言のとおり3日で中止になり、再開が決まると河村市長は、主催者側の一員である公人たる市長が座り込みまでして再開絶対反対のパフォーマンスまでなした。菅官房長官の補助金精査発言、そして文化庁による補助金不交付決定と「公金」や芸術祭への「公」の関わり方それ自体が問題となった。そこでまず「公」とは何かということと、その「公」が市民とどう関係・対応するかということが問われなければならない。

『公の時代』はあいちトリエンナーレに出展し、中止の決定を受けたアーティストChim ↑ Pomの卯城竜太と松田修の対談(『美術手帖』Web版を補筆)や「表現の不自由」展中止決定前に行われた卯城及び松田とあいトレ芸術監督の津田大介との対談などにより構成される(中止後の卯城と松田の対談も含む)。『あいちトリエンナーレ「展示中止」事件』には、「表現の不自由」展の実行委員である岡本有佳の詳細な時系列報告や北原みのり、中野晃一、前川喜平の論考がある。また「公金支出」に攻撃がなされたことを踏まえての、西谷修東京外国語大学名誉教授の「日本の社会空間であるべき「公共性」は、「日本人」と同じように、「自分たち」の思いに従ったものでなければならない、という内閉と排除の意識が、この場合の前提となっている、だから税金(公金)も「自分たち日本人」のものなのだ。」との重要な指摘がある。そこには河村市長が措定した「日本人」の中身について問わない、何が「日本人」を規定するのかが問われていない、という前提がある。河村市長の言を解析すれば、天皇を侮辱(と彼はとった)することに怒る人こそが「日本人」ということになるし、そうでなければ「日本人」ではない。ここに明らかになるのは排外主義であるし、河村市長は展示を「日本人に対するヘイト」とまで言っている。川崎市で外国人(ときちんと限定しているが)に対するヘイト行動に対する罰則条例が制定されたが、罰則規定もない(ことが不十分かどうかは議論の分かれるところであるが)ヘイトスピーチ解消法をまるで逆手に取られてかのような河村市長の発言ではある。おそらく「公」=「日本人」という狭く、アプリオリ性を疑わない、誤った解釈を問うこともなく、どんどん「公」は狭まっていく。「公」の中には、意見を互いにする色々な人(納税者という観点で言えば、この国に住まうすべての人)含まれ、それにより構成されているという当たり前の事実に想像が及ばず、河村市長のようにあらかじめ狭く規定した「日本人」によって「公」が構成され、だからその「公」を逸脱した、安倍政権の思惑とは違う「慰安婦」「原発」や「天皇」像に「公」金を出すのは許せないと短絡する。前提が誤っている。限定された政権そのままの一方向だけの主張だけなら何も「公」が支える必要はないのである。その方向性に則ったどこぞの「民」がやればいいことだ。「民」で掬いきれない主張や表現の場を保証することこそ「公」の存在価値と役割がある。

民主主義は永続革命だと言ったのはトロツキーだったろうか? Chim ↑ Pomの卯城竜太と松田修は大正期新興美術運動にこそ、芸術世界でのアナーキズムの萌芽があると黒耀社や望月桂を取り上げる。一方、『あいちトリエンナーレ「展示中止」事件』では、大村秀章愛知県知事と津田大介芸術監督による実行委員会への事前の説明・承諾もない「展示中止」にいたった過程を明確に「検閲」と断罪する。「表現の自由」と「検閲」については憲法的論点が、文化庁の補助金不交付については行政手続きにおける事後遡求の問題点が、河村市長や松井一郎大阪市長ら公人の発言については、公人としての歴史認識とその発言(効果)についての問題が、そして、脅迫を含む「電凸」については、市民の民主主義「度」などと様々な課題がありすぎる。冒頭で記したように「あの事件が民主主義が瓦解していった時代の重要なトピックだったと言わなくて済むように、美術を中心に表現の問題に関心を寄せ続けて行きたい」。(『公の時代』卯城竜太(Chim ↑ Pom)・松田修 朝日出版社。『あいちトリエンナーレ「展示中止」事件 表現の不自由と日本』岡本有佳・アライヒロユキ 岩波書店)

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83歳のケン・ローチが再び撮った理由  「家族を想うとき」

2019-12-18 | 映画

第3月曜日は新聞、雑誌、段ボールなどの資源回収日なので日曜日の晩から、1階に積み上がる。私も新聞などを結わえてせっせと下ろすのだが、段ボールで多いのがアマゾンの空箱だ。結構小さいものでもアマゾンは段ボール箱で配達されるのではないか。私はアマゾンのヘビーユーザーではないが(年に1、2回?)、宅配の便利さを享受しているので業界にコンシュマープレッシャーをかけているという点では同じだろう。

カンヌ映画祭でパルム・ドールを取った「私は、ダニエル・ブレイク」で引退したケン・ローチがメガホンを再び取ったのには理由がある。「ダニエル」で取材したフード・バンクに訪れていた多くの人がギグエコノミー(雇用者の呼びかけの時だけ従業員に仕事がある携帯)やエージェンシー・ワーカー(インターネット経由で単発の仕事を請け負う労働環境)といった従来の不安定雇用の一言では言い表せない新しい搾取を見たからだ。ネットやメールのなかった時代、ローチが昔撮った「リフ・ラフ」や「マイ・ネーム・イズ・ジョー」に出てくる建設労働者なども不安定雇用には違いなかったが、実働以外は一切支払わないとか、契約違反はすぐ罰金、といった終始時間も身体も管理されている現代よりましただったのではないかと思える。

宅配ドライバーとして登録したリッキーは、フランチャイズで個人事業主。雇われているわけではない。しかし、仕事量は多く、子どもの学校に呼び出されて休もうとしたら「代替を自分で探せ。さもなくば罰金だ」。妻アビーも移動時間は賃金を支払われない、細切れの時間で家庭をまわる訪問看護。いくつもの家庭をまわるのに自家用車を使用していたが、リッキーが持ち込み車両の方が得だとバンを買うため売ってしまう。アビーはバスで移動し、ますます家にいる時間がなくなる。両親が家にいる時間がずっと少なくなり、夕食はいつも子どもの携帯に入れる「レンジでチンして」との留守電。優等生だった息子セブは学校をサボり、警察沙汰に。12歳の娘ライザはおねしょうなども。家族を守るために始めた仕事で家族はバラバラに。そしてリッキーは配達中に強盗に遭い、重症を負う。しかしドライバーを束ねるボスからの電話は「宅配専用端末は賠償してくれ」。優しく穏やかだったアビーもついにキレる。汚い言葉でボスを罵るのだ。直後「介護をしているのにこんな汚い言葉を使って」と嗚咽する。休むと稼ぎはなく、罰金が増すばかりのリッキーは包帯だらけの身で出勤しようとする。家族は止めるが、ボロボロの体でハンドルを回し振り切るリッキー。映画はここで終わる。ローチでおなじみのアンチ・エンディングである。

コンビニエンスストアの店主が自殺したニュース。自殺まで至らなかったが、人手が確保できないと24時間営業をやめて本部に反旗を翻した店主。いや被用者の身でも保険業界や日本郵便、その他さまざまな営業活動で「自爆営業」は当たり前である。しかし、高い営業成績をあげた人に合わせろ、努力や工夫が足りないからだ、と攻め立てる。営業目標に限らない、持ち帰りも含めて残業が多い長時間労働になるのは、その人の働き方、能力に問題があると。営業も含めて労働に関する個人に求められるノルマが高すぎるのだ。古くはOJTもあったが、現在では即戦力ばかり求められる。筆者の友人がなるほどということを言っていた。「冷蔵庫も洗濯機も家電は取説をほとんど読まなくてもすぐに使えるのに、パソコンはなんでこんなに苦労するのか」と。そう、現代人はパソコンの内容を冷蔵庫の即適応力に求められているのだ。冷蔵庫は故障すればすむが人間は電化製品ではない。しかし、それを資本の論理が求めているだけではない。消費者がそれを求めているのだ。ホームセンターで客に罵倒された者が、コンビニでモタモタしている従業員(正規雇用では絶対ない外国人も多い)に対しクレーマーと化していることもあるのだ。

「家族を想うとき」は邦題で、原題は「Sorry We Missed You」。「ごめんなさい、あなた(たち)を愛しく思う」というそのままの意味もあるだろうが、宅配業者が投函する不在連絡票の定型文言でもある。原題のままでよかったのではないだろうか。冒頭「搾取」と書いたが、搾取には資本家が労働者から利益を搾り取るという本来の意味もあるだろうが、ここでは家族関係や人間関係の破壊、収奪も含むだろう。ローチの射程は、取り戻すべき家族(血縁はもちろん関係ない)の修復にあると思える。

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見捨ててはいられない、見ないふりはできない  「ジソウのお仕事」

2019-12-17 | 書籍

『We』誌(フェミックス http://www.femix.co.jp)で連載中の「ジソウのお仕事」は内容によっては途中涙で読み通せないほど、重く、切なく、そしてやさしい。もともと家庭科の男女共習を目指して発刊した『We』はもう30年以上購読しているし、恥ずかしいが、自身も連載をもたせてもらったこともあった。しかし、「ジソウ」は最も好きな連載である。

ジソウすなわち児童相談所。乳幼児虐待で子どもが亡くなると、児相がどう関わっていたのか、関わっていなかったのか問題にされる。「児相は何していたんだ!」とその地と直接関係のない人からの非難、抗議の電話なども多いという。しかし少なくともジソウを読んでいると、何もしていないわけでないし、むしろそこまでやっても、と絶望感に苛まられそうな事案が多い。筆者の青山さくらさんの日常はそうである。

親が覚せい剤などの薬物の常習で育児力がない、父、あるいは近親者からの女児(男児)に対する性暴力、娘に売春も含め犯罪行為をさせる親、学校にほとんど行っていないので学習や自尊感情など、憲法で規定された「個人の尊重」「教育を受ける権利」などを奪われ、劣悪な生活環境の子どもたち。もう、先進国?で世界一?安全?安心?な国と思えない現実。でも、児相に繋がっただけでもこの子ら(親も)は「よかったね」と言いたくなる。繋がらなかった例が、大阪であった幼児置き去り死事件であり、繋がっても届かなかったのが目黒虐待死事件とかなのであろう。それほどまでに繋がるのが大変で、繋がっても親も子も安心な状況にとは、早々うまくいくものではないのだろう。だから児相を責めて、その人員不足、専門性不足(児童福祉司が足りない、養成が追いつかない、など)、全体的なフォローを議論しないのでは何の解決にもならないのである。

青山さんの語りは実は淡々としているように見える。いや、そうでなければ、およそ耐えられない案件が続くからだ。小学生で妊娠や、父親の子どもを産んだ子、ゴミ屋敷住まいで臭くて教室に行けない子、しかし、父が誰か分からない子を妊娠する母親も。誰も悪くないと思う。娘に性虐待する父は悪いに決まっているが、その父に頼っている母や子、悲しみは増幅してこそ、救いを探すのも難しくなる。けれどひどい事態を一旦受け止めて、そこから、どう改善していくか。青山さんはジソウの仕事を「おせっかいな介入」と呼んでいるが、そのおせっかいが人数も権限も限りのある児相だけに負わせているのは私たち民主社会に生きる市民の責任だろう。児相の職員の多くは逃げていないし、考え、悩んでいる。現場と報道と実態のミスマッチングがもどかしい。結局繋がりきれず、音信も取れない関係もあるし、立ち直ったのかどうか、不明な親子もいる。けれど諦めない。それが児相の役割であり、ジソウの信念であるから。

単行本になる際に、青山さんの連載に加えて、児相の現場にいて、「なくそう! 子どもの貧困」全国ネットワーク世話人も務める明星大学常勤教授の川松亮さんの丁寧な児相現場、統計的解説、児相のこれから、も付け加えられた。高級官僚による引きこもりの息子殺害事件の裁判が報じられている。家族の問題は、どこにでもあるし、恵まれない子どもの問題や一握りの特殊な親の問題では絶対ない。そして、日々の鬱憤を公務員バッシングで晴らして終わる問題でないし、それでは絶対解消しない。

筆者が新刊を心待ちにしているコミックに『健康で文化的な最低限度の生活』(柏木ハルコ 小学館)がある。児相とケースワーカー。現場は微妙に違うが、重なる部分も多いと思う。どちらもこの国に住まう人、すべてが支えるべき、関わるべき仕事だと思う。(フェミックスは小さな出版社です。直接注文してあげてください。http://www.femix.co.jp)

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ジェンダーの視点から読み解く政治 『女性のいない民主主義』

2019-12-05 | 書籍

民主主義とは何かと問われると結構答えられない。「権力は人民に由来し、権力を人民が行使するという考え方とその政治形態」(広辞苑第七版)では分かったような、納得できないような。ではこの「人民」とは、封建主義社会でない国家ではすべての人を含むと考えて良いだろう。大人も子ども、性別を問わずにである。しかし、世界経済フォーラムが発表した「ジェンダー・ギャップ指数 2018」によれば、日本は149か国中110位であった。教育や健康の分野では指数は高いのに、経済と政治の分野で指数が低かったからである。政策を立案し、国の現在や未来を方向付ける政治の分野に女性があまりにも少ないのは、決定の場に女性が参画していないということである。この国は「女性のいない民主主義」なのである。だからそもそも民主主義と呼べるのか、と問う。

筆者は女性参画の実態を明らかにするとともに、それを問題視してこなかった「男性の政治学」だったからではないかと、政治学の怠慢、あるいは問題構成の貧困ゆえではないかと。今やフェミニズムの成果を抜きに学問を語ることはできないし、触れていない政治学というのもないだろう。しかし、ジェンダーの視点と言いながら、多くの場合「環境」「人権」「民族」といった項目と並列されて「ジェンダー」が語られるのではないか。ジェンダーとは女性の視点ではなく、女性と男性との関係性であるとの概念に気づけば、この並列によりどのような学問−特に本稿の主題である政治学−であってもジェンダーの視点が必要であることに気づくだろう。

本書の冒頭、あるあると思わずうなづいてしまう男性目線の場面が描かれる。それはマンスプレイニング(説明するのは男性、聞き、質問するのは女性、という役割固定。manとexplainingの造語)、マンタラプション(女性の発言を男性が遮る。manとinterruptionの造語)、ブロプロプリエイション(男性が女性の発言を自分の発言として横取り。brotherとappropriation(盗用)の造語)に現れる。マッチョと概念は違うが、トランプ大統領にはあ〜んとしてしまう。これらを支えているのは個人の属性ではない。特に政治の場、決定の場に女性が少ないことの表れであり、また、それを特におかしいと思わなかった観念である。

様々な分析を通して、本書はジェンダー視点が反映されない政治実態を明らかにしてみせるが、例えば、「日本は防衛力をもっと防衛力を強化すべきか」という質問に男性議員は賛成が多く、女性議員は少ない。そして男性有権者は多く、女性有権者は少ない。男性同士、女性同士の意見が対応しているのである。つまり、女性議員が少ないと女性有権者の意見は政治に反映されにくいのである。あるいは、日本では政党自身が女性が政治進出しにくいゲートキーパーの役割を果たしてきたと。それは55年体制下で言えば自民党は明らかに世襲議員と地盤、家父長制の残滓があるであろうし、労働組合を基盤とする社会党も女性を擁立してこなかった。だから2018年に成立した候補者男女均等法(日本版パリテ法)は強制的クオータを定めていないことから2019年の参議院選挙でも女性は増えなかった。しかし政党によっては強制的クオータを掲げつつあり、今後の展開に待つしかない。

現在巷間をにぎわす「桜を見る会」問題では、三原じゅん子参議院議員が自身の母親などが招待されていた件で、ジャーナリストの青木理氏とコメンテーターの玉川徹氏が「(お母さんらに)どんな功労があるんだろう」と疑問を呈したことに対して、「侮辱発言だ。抗議する」と大憤慨したそうな。三原議員は安倍ヨイショの筆頭格だが、くだらない。自民党だけの問題ではないが、政党も女性候補を人寄せパンダ的に扱い、それらは当選させてきた有権者も「女性のいない民主主義」をあまり疑問に思っていないのかもしれない。(前田健太郎著 岩波新書)

 

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