2020年の年賀状にあいちトリエンナーレの「表現の不自由・その後」展の中止騒動について「あの事件が民主主義が瓦解していった時代の重要なトピックだったと言わなくて済むように、美術を中心に表現の問題に関心を寄せ続けて行きたいと思います。」と書いた。それほどまでに、あの事件はいろいろ深い意味と緊張関係をはらんでいるように思う。「表現の不自由」展については、開幕2日目に視察した河村たかし名古屋市長の「日本人の、国民の心を踏みにじるものだ。即刻中止していただきたい」発言があり、その発言のとおり3日で中止になり、再開が決まると河村市長は、主催者側の一員である公人たる市長が座り込みまでして再開絶対反対のパフォーマンスまでなした。菅官房長官の補助金精査発言、そして文化庁による補助金不交付決定と「公金」や芸術祭への「公」の関わり方それ自体が問題となった。そこでまず「公」とは何かということと、その「公」が市民とどう関係・対応するかということが問われなければならない。
『公の時代』はあいちトリエンナーレに出展し、中止の決定を受けたアーティストChim ↑ Pomの卯城竜太と松田修の対談(『美術手帖』Web版を補筆)や「表現の不自由」展中止決定前に行われた卯城及び松田とあいトレ芸術監督の津田大介との対談などにより構成される(中止後の卯城と松田の対談も含む)。『あいちトリエンナーレ「展示中止」事件』には、「表現の不自由」展の実行委員である岡本有佳の詳細な時系列報告や北原みのり、中野晃一、前川喜平の論考がある。また「公金支出」に攻撃がなされたことを踏まえての、西谷修東京外国語大学名誉教授の「日本の社会空間であるべき「公共性」は、「日本人」と同じように、「自分たち」の思いに従ったものでなければならない、という内閉と排除の意識が、この場合の前提となっている、だから税金(公金)も「自分たち日本人」のものなのだ。」との重要な指摘がある。そこには河村市長が措定した「日本人」の中身について問わない、何が「日本人」を規定するのかが問われていない、という前提がある。河村市長の言を解析すれば、天皇を侮辱(と彼はとった)することに怒る人こそが「日本人」ということになるし、そうでなければ「日本人」ではない。ここに明らかになるのは排外主義であるし、河村市長は展示を「日本人に対するヘイト」とまで言っている。川崎市で外国人(ときちんと限定しているが)に対するヘイト行動に対する罰則条例が制定されたが、罰則規定もない(ことが不十分かどうかは議論の分かれるところであるが)ヘイトスピーチ解消法をまるで逆手に取られてかのような河村市長の発言ではある。おそらく「公」=「日本人」という狭く、アプリオリ性を疑わない、誤った解釈を問うこともなく、どんどん「公」は狭まっていく。「公」の中には、意見を互いにする色々な人(納税者という観点で言えば、この国に住まうすべての人)含まれ、それにより構成されているという当たり前の事実に想像が及ばず、河村市長のようにあらかじめ狭く規定した「日本人」によって「公」が構成され、だからその「公」を逸脱した、安倍政権の思惑とは違う「慰安婦」「原発」や「天皇」像に「公」金を出すのは許せないと短絡する。前提が誤っている。限定された政権そのままの一方向だけの主張だけなら何も「公」が支える必要はないのである。その方向性に則ったどこぞの「民」がやればいいことだ。「民」で掬いきれない主張や表現の場を保証することこそ「公」の存在価値と役割がある。
民主主義は永続革命だと言ったのはトロツキーだったろうか? Chim ↑ Pomの卯城竜太と松田修は大正期新興美術運動にこそ、芸術世界でのアナーキズムの萌芽があると黒耀社や望月桂を取り上げる。一方、『あいちトリエンナーレ「展示中止」事件』では、大村秀章愛知県知事と津田大介芸術監督による実行委員会への事前の説明・承諾もない「展示中止」にいたった過程を明確に「検閲」と断罪する。「表現の自由」と「検閲」については憲法的論点が、文化庁の補助金不交付については行政手続きにおける事後遡求の問題点が、河村市長や松井一郎大阪市長ら公人の発言については、公人としての歴史認識とその発言(効果)についての問題が、そして、脅迫を含む「電凸」については、市民の民主主義「度」などと様々な課題がありすぎる。冒頭で記したように「あの事件が民主主義が瓦解していった時代の重要なトピックだったと言わなくて済むように、美術を中心に表現の問題に関心を寄せ続けて行きたい」。(『公の時代』卯城竜太(Chim ↑ Pom)・松田修 朝日出版社。『あいちトリエンナーレ「展示中止」事件 表現の不自由と日本』岡本有佳・アライヒロユキ 岩波書店)