kenroのミニコミ

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「トリックスター」としてのフジタ、日本人画家では納まらないフジタ  「藤田嗣治展」

2016-07-30 | 美術

エコール・ド・パリの面々は日本で人気が高い。モジリアニ、ローランサン、キスリング、カシニョール…。フジタもその一員と目される。日本で評価されずパリへ、乳白色の裸体画がパリ画壇で評価され、日本に凱旋。戦争画をすすんで描き、戦後それゆえ戦争責任を追及され、日本を「捨て」パリへ、そして晩年フランス国籍を取り、カトリックに入信。カトリック教会の建築に晩年を捧げる。

分かりやすいといえば分かりやすいが、今回本展で明らかになったのは、フランスから日本へ帰国した間にメキシコなど中南米に旅したことで、フジタがメキシコ美術などに大きな感化を受けたこと。メキシコ美術といえばその時代、ディエゴ・リベラらメキシコ革命時に壁画運動を支えた3巨匠の時代。フジタはそれら壁画運動のエッセンスを最大限に吸収し、後に、大日本帝国がすすめた「大東亜戦争」の戦争絵画を並外れた技術をもって世間に知らしめた糧となった時代であった。

フジタ美術の真骨頂は戦争絵画であると言われる。(フジタワールドで薄められたものhttp://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/7a00b0a590690264fdfd431e3fa53780#comment-list)しかし、フジタは本来すぐれた技量で、フランス近代画壇の実力派画家たち、先にあげたエコール・ド・パリの面々やピカソなどすでに人気を博していた画家たちのエッセンスを巧みに取り入れていた。本展に合わせて企画された浅田彰氏の講演会が開かれた(「フジタを追って ―世界史を横断したトリックスターの足跡」)が、浅田氏も指摘するとおり、フジタは自己の位置、環境に合わせて巧みに自己を変幻させてきたのだ。トリックスターとしてのフジタの活躍はまず、最初パリで発揮される。社交界で変な日本人を演じているのは絵が売れたからと売れるため。派手な女性関係、おかっぱにイアリング、大げさ、時に下品な行動は、日本ではひんしゅくものだったが、それもいわば計算済み。何が受けるかを綿密かつ本質的に理解していたのだろう。しかし、余命いくばくもない父に会うため、パリでの成功をひっさげて帰国した日本では散々で、ときは日中全面戦争へ向かう頃。その間メキシコなど南米で2年間壁画芸術などを吸収したのは前述の通りだが、奇しくもその吸収が、日本帝国主義の戦争絵画で結実する。

決して戦意高揚、勇ましいとは言えない「アッツ島玉砕」は見る者を感涙させたというが、フジタが細部まで描ききった兵士の姿ゆえ、その現実感に感動したのではないか。もちろん、戦争の実相は感動するようなものではない。しかしフジタは、本人の思惑を超えて、その技量を持って、日本では酷評されていた自身の名声を回復したのだ。

戦後、従軍画家として戦争画をいくつも描いたフジタは一転して戦争責任を問われる。そして、それが嫌になってフランスに戻り、フランス国籍を取得したのは周知のとおり。戦後フジタが繰り返し描いたのは子どもたち。戦前は乳白色の裸婦、猫、壁画、戦争画と変転した画家は、罪のない子どもの絵にシフト、没頭したとも言える。しかし、フジタの描く子どもらはいわゆる可愛さがない。誰も笑っていないし、あどけなさもない。子どもらの目線には、国家に道程に翻弄され、また、自己の道がその技量故、器用に渡りとおせたと見えて実は満足のいくものではなかったことを示しているように思える。

晩年カトリックに入信、教会建築(装飾)に専念したフジタには「トリックスター」でもなんでもない、器用さとは無縁な一画家の「境地」が垣間見える。フジタを日本人画家として再評価する試みは、実は一番フジタの実像から遠いのかもしれない。(「校庭」1956年)

 

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情感豊かな舞に堪能   ロイヤル・バレエ団 ジゼル

2016-07-10 | 舞台

無垢な村娘であったジゼルが、身分を偽りジゼルに近づいた貴族のアルブレヒトに恋したときは、なんの、けれんみのない明るいダンスであったのが、アルブレヒトの本心を知り、自死したあとの死霊となったあとは重く舞う。アルブレヒトは死ぬまで踊り続ける魔術にかけられる。バレエ「ジゼル」のあらすじはこんなに簡単だが、天真爛漫な村娘から、死女を演じる落差に演者の技量が問われるとても難しい役どころと言われる。

イギリス、ロイヤル・バレエ団のジゼル、西宮(県立芸術文化センター)公演。ジゼルを演じたマリアネラ・ヌニェスの笑顔はとてもかわいらしく、無垢な村娘のよう。しかし第2幕のそれは一変する。貞子に変身する。アルブレヒトに死ぬまで舞う呪術をかけた死の精の女王ミルタに対峙し、アルブレヒトを死の淵から救おうとするジゼルには死した者にしか持ちえない狂気を感じられる。情感豊かなのだ。アルブレヒト役のワディム・ムンギンタロフにしてもそう。全編をとおして情感豊かな演出とダンサーの表情。ヨーロッパやアメリカのカンパニーは群舞が(日本のカンパニーに比べて)そろわないと言われるが、ロイヤルもそう。しかし、少しの(見方によるが)そろわなさは問題ではない。コールドバレエは、そろっていないイコール美しくないのではない。美しいと感じたとき、それはそろっているかそろっていないかというチマチマしたことはどうでもよくなるということだ。

さきほど情感豊かと記したが、ジゼルだけではない、ジゼルに恋し、アルブレヒトが王子である秘密を暴き、最後にはミルタら死の精霊に命を落とす村の森番ヒラリオン。アルブレヒトに比べて野卑なヒラリオンも死ぬ前の舞がすばらしい。群舞も含めて総じてどのダンサーも力量が高く、それゆえ高い安心を得られる。

クラシックバレエの物語は多くの場合他愛ない。ジゼルもそう。しかし、その他愛なさを豊かに、ときに複雑に表現することができるかがダンサーの実力だ。今回のプリンシパルであるマリアネラ・ヌニェスはその複雑さを演じ分けて見せた。そして脇を固めるファースト・ソリストたち。ロイヤルがロイヤル足り得るのは、この層の厚さにある。クラッシックをクラッシックのまま演じられるのは、そもそもマリウス・プティパの振り付けであるからだそうだが、ピーター・ライトの演出は、その古典的作法に忠実であり、それはあらゆる場面で活かされている。その演出を一人ひとりのダンサーが理解し、獲得し、そして組織となっているところがすごい。さきほど他愛ないと書いたが、説得力をもって他愛ないといえばよいだろうか。

いずれにしても演目的に3大バレエの次に人気があり、親しみやすいジゼルは、古典の王道たるロイヤルのそれが見飽きないのは確かだ。

 

 

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