kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

ナチス映画を止めない国との違いは… さよなら、アドルフ

2014-02-24 | 映画
ナチスの時代を描いた映画はホロコーストそのものから、次第にその周辺事象やヒトラーやナチス側を描いた作品に広がっていった。「ソハの地下水道」でそのことに少し触れたが(http://blog.goo.ne.jp/kenro5/s/%A5%BD%A5%CF)、「アドルフの画集」や「ヒトラー ~最後の12日間~」などヒトラーそのものを描いた作品は多いが、ナチス高官あるいはその家族のその後を描いた本作は珍しい。しかも、わずか14歳の少女に幼い兄弟らの命運を任された過酷な物語である。
「さよなら、アドルフ」は、ナチスの高官家庭として何不自由なく暮らし、またヒトラー=ナチスの教え、反ユダヤ主義を内面化していた少女ローレが、両親を囚われ、ドイツ北部ハンブルク近郊の祖母の家を目指す過程で、隠されていた事実と両親や崇拝するヒトラーやナチスの本当の姿や、ナチス敗退後の混乱した国で大人の邪悪な所業を経験することで成長する物語である。そして、その成長にはローレが唾棄していたユダヤ人(と少なくともローレは思っている)青年の援助がかかわっている。
ローレの知ったナチスの蛮行は、まずホロコーストの写真を見ることからはじまる。そこに写っていた軍人は父と同じ軍服を来ていたため、自分の父親が長い間家を空けているあいだ何をしていたかを知ることになる。道すがら大人たちはあの写真はでっち上げだとか、ユダヤ人の大量殺戮を否定しようとするが、写真の衝撃にローレは苛まされる。そして、強姦の上無残に殺された女性や、ナチス敗北を知って拳銃自殺した蛆のわく男性…。ローレの目に映るものはすべて醜く、そして物乞いするローレに冷たい。現実を知ったローレに手を差し伸べたのは収容所から出てきたと思しい寡黙な青年トーマス。そして大きな川を渡るため漁師に体で払おうとするまでになったローレ。しかしローレに覆いかぶさろうとした漁師を撲殺したのはトーマスだった。「今は悪い奴ばかり」と言い放つトーマスに頼らざるを得ない現実。
トーマスも去り、幼い弟を失いながらやっとの思いで祖母の家にたどり着くが、ナチスの思想=規律や統制を貴び、厳格な振る舞いを強要する祖母についにローレは爆発する。
自分が信じてきたこと、当たり前と思い過ごしてきた前提が覆されるのは辛いし、窮地に陥っている自分らを助けてくれたのが忌み嫌っていた対象=ユダヤ人、であることを受け入れるにはとてつもない葛藤があるであろうし、ローレはまだ14歳。いや、14歳といえば大人直前の年でもある。彼女が戦後どのように価値観の転換を受け入れたか想像するしかないが、真実は知らないより知ったほうがいい。ましてや自国・自民族の負の歴史ならなおさらだ。命は助かったが、これからは頑迷な祖母の姿勢=ナチスの思想そのまま、と闘っていかなければならないローレは、自分らをこのような目に合わせた両親を含むナチスの大人たちを見限るとともに、それまで盲目的に信奉してきたヒトラーに告げることができたのだろう。「さよなら、アドルフ」と。
ところで、逃避行の最中、ローレの幼い双子の弟らがナチス軍隊を称揚する歌を歌って、助けてくれたドイツ人老婆を喜ばせるシーンがある。ナチスドイツでは「ヒトラー・ユーゲント(ヒトラーの青年団)」という組織において、徹底的なナチス式教育が行われたが、全体主義国家では共通に見られる政策で、日本では子どもたちが皇民化教育として天皇絶対の軍国主義を叩きこまれた。
ドイツでは「さよなら、アドルフ」のようにナチス教育を相対的に描き、その罪をいつまでも告発し続けているが、翻って日本はどうか。教科書検定を制限し、再び国定化をも狙う安倍自民党政権では、戦前の天皇制軍国主義と同一ではないにしても国家主義教育の危険性は大きく増している。安倍首相のトモダチのNHK経営委員は特攻隊をある意味美化する小説を書き、南京事件はなかったとか言っているそうな。まともな戦時中映画もつくれないこの国ならではの現状を象徴しているようだ。
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永遠の追悼を捧ぐ テオ・アンゲロプロス「エレニの帰郷」

2014-02-15 | 映画
「エレニの旅」から10年。同じエレニでありながら、物語は続いていない。けれど、エレニの生きてきた長さは同じく深い。
これまでの台詞の極端に少ないロングシーン、ワンショットのアンゲロプロス作品とはかなり違う趣の「エレニの帰郷」。若い頃と老いた時代が交錯するオムニバス形式の本作は、エレニが主役であるが、その息子映画監督のAの視点で進行する。Aの母親エレニは学生の頃共産主義者として囚われ、脱走する。しかし亡命先のソ連シベリアで収容され、恋人スピロスが苦難の道を歩み救いに来る。時はちょうどスターリンの死去を伝える1953年。スターリンの死にむせび泣く民衆も帰り、路面電車にひそんで逃げる時を待っていた二人は情交の声のために見つかり捕えられてしまう。再び離れ離れになった二人が再開するためには、56年のスターリン批判を経て74年のオーストリア越境まで待たなければならなかった。しかしスピロスを追ってニューヨークに渡ったエレニ、彼女を愛するシオニストのヤコブも寄り添うなか、エレニが見たのはほかの女性と暮らすスピロスの姿だった。
ベルリンの壁が崩れ、久しぶりに息子Aに会いにくるエレニには夫スピロスが寄り添い、彼らのベルリン訪問を聞きつけたヤコブも会いにくる。「恋敵」のスピロスとヤコブも今や仲のいい好々爺。しかし、何かわだかまりがあるし、体調を崩していたエレニは息絶え、ヤコブも自ら命を絶つ。離婚後娘の情緒不安定に翻弄されていたAは娘の無事は確認するが、母を失う。
ギリシアを舞台に壮大な抒情詩を描き続けてきたアンゲロプロスの本作にはギリシアが前面には出てこない。しかし、「エレニの旅」がディアスポラ(離散民)を描いた傑作であったように「帰郷」もはやりディアスポラという主題からは逃れられない。ヤコブは解放されたときユダヤ人として約束の土地イスラエルに還ることもできたのに、愛するエレニのそばにいたかったため、そうはしなかった。そうしてユダヤ人としてのアイデンティティを持ちながら「祖国」の土を踏まなかったヤコブ。一方エレニは女子大生の時テサロニキに囚われていたことからギリシア人のようにも見える。そうするとスピロスもギリシア人だが、二人を描くギリシアの影はない。
Aは冒頭ローマの映画撮影所を走り回っている。そしてAと3人が再会し、Aの娘が保護されるのはベルリンである。Aの自宅もベルリンのようで、Aの元妻も出てくるからドイツ人か。この映画がアンゲロプロスの描くディアスポラの系図に連なると考えたのは、誰もが祖国におらず、あるいははっきりしないことである。しかもエレニらは一時ニューヨークに滞在しているし、Aが母エレニに成人して初めて会うのはアメリカ=カナダ国境である。
ヨーロッパは地続きであるため、容易に異動し、また分離する柵を設ける。そこを越え、また越えられないディアスポラは、地理的にディアスポラであることはもちろん時に意志的に、意識的にディアスポラでもある。あるいは余儀なくされる。今回ヨーロッパの枠組みを超えユーラシア大陸という巨大な地勢で物語を描きつつ、1950年代から20世紀の終わりまでエレニという一人の女性と彼女を取り巻く人たちの「戦後」も描いた本作は、社会主義を弾圧したギリシア、シオニズムによりパレスチナアラブの民に「分離壁」を強いたイスラエルをも想起させ、あるいはニューヨークというアメリカの象徴が多くの亡命ユダヤ人を受け入れ、許容しあるいは差別してきた歴史さえも地続きであると示してくれる。
世紀が変わるお祭り騒ぎの中で、「戦後」を生き抜いたエレニとヤコブは静かに生を終える。しかし、エレニの抱擁により生き続ける望みを見出したかのように見えたAの娘ら若い世代にディアスポラの歴史が伝えられることを、そして何故のディアスポラかが伝えられることを想起させる本作に、古くはギリシア叙事詩からの題材までも描いたアンゲロプロスの遺言と思えてならない。そして、差別、分離、離別、抵抗…。民主主義の構築を経験し続けるヨーロッパの強靭な挑戦さえも本作は内包している。
翻って、政治の世界から戦争を知る人たちが去り、「戦後も終わった」「日本を(戦前に?)取り戻す」と威勢のいい人たちが政権の中枢に座り、歴史修正主義的発言を繰り返す日本。沖縄問題は世界標準からみれば民族問題と喝破した佐藤優氏の言に倣い、そのような歴史修正主義者らに本作を突きつけたい。この国でもディアスポラはあり、しかし一切直視してこなかったのではないかと。
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