音楽のことはとんと分からない無粋人にて音痴の筆者だが、「音楽で世界は変わらないが、人を変える力はある」と信じられるような快作だ。女性の指揮者が6%、フランスに限れば4%なんていうのも知らなかったし、作品のモデルとなったザイアとフェットゥマ姉妹が学んだ1990年代でも女性差別がひどかったことも。
アルジェリア出身でパリ郊外のパンタンに住まう二人は、パリ中心部の富裕層が学ぶ音楽院に編入。そこではあからさまに女性差別、地域(移民層が多い)差別に遭う。しかも姉のザイアはこれまで取り組んできたヴィオラではなく指揮者志望。「女性は指揮者になれない」言い放つのは、男子学生だけではない、学校の教員も、のちにザイアを鍛えることとなる世界的指揮者のセルジュ・チェビリダッケも。嫌がらせに揶揄、恣意的な評価。二人を阻む壁は「女性」「移民」「居住区」と幾十にも張りめぐらされる。しかし、負けなかった。地域で障がいのある子どもたちに音楽を教えるなど、徐々に仲間を増やしていく様は、希望が広がり、増える様そのものだ。
チェビリダッケがザイアに言う。「(指揮者が孤独だなどと)言っている間は、演奏者たちと一体化していないからだ。一体感を感じれば音は変わる」と。この辺は、音楽(家)の世界に疎く、その精神性がすぐには理解できない朴念仁には遠い世界でもある。しかし、何らかの差異をわざと言い立てて、差別に転化する言説や行動に対する有効な反撃は、その差異を無効化する実践と共感でしかないというのは分かる。「女性だから」の「だから」の前に入る様々な決めつけは、そこに自分は入らないと思う臆病者の逃げ道でしかない。
ザイアはやがて交響楽団結成を思いつく。そんな地区で、練習場所は、資金は、団員は?の幾つもの困難を乗り越えていくうちにザイアも音楽家として成長していくが、これは全て史実なのだ。
作品が終始メロディに溢れているのが心地よい。楽団名は「Divertimentoディヴェルティメント」(「娯楽」、「楽しみ」または「嬉遊曲」。本作の題でもある。)。モーツァルトの作品が有名だそうだが、このディヴェルティメントほか、作品の前後を締めるボレロがいい。単調に思える楽曲はじれったくなるほどの遅さで楽器が増えていく。本来はフルートで始まるそうだが、本作ではザイアの盟友ディランがクラリネットで参加して大団円。自信をなくしていたザイアは再び、指揮台に立つ勇気を得て、姉妹はその後楽団結成、フランス全土で活躍する。上映中次はどんな楽曲が流れるか楽しみで仕方なかった。
ところで、同時期上映されているフランス映画の「助産師たちの夜が明ける」(http://pan-dora.co.jp/josanshitachi/)も優れたアンフィクショナルなドラマ。ドキュメンタリーではなく本作と同様にドラマであっても現実や歴史を描いているものには、全くの虚構は叶わないと感じた。ブラボー!