kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

共存でジェノサイドを防ぐ   「アイダよ、何処へ」

2021-09-24 | 映画

ニースで暴走したトラックにより多数の死傷者が出たテロ事件のあった2016年7月、筆者は翌月ボスニア・ヘルツェゴビナなど旅行する予定であった。しかし、ニースの事件で不安を覚えた同行者の意向もあり、キャンセル料金が高額になる直前のタイミングで旅行を取りやめた。ちょうど前月に乗り継ぎ予定であったトルコの空港でのテロ事件の影響もあったからだ。ボスニア・ヘルツェゴビナではスレブレニツァの虐殺跡地のガイドツアーも予約していた。あれから身辺事情の変化や新型コロナウィルス感染症拡大により、残念ながら行けていない。

ヤスミラ・ジュバニッチ監督はこれまでも「サラエボの花」(2006)、「サラエボ、希望の街角」(2010)とボスニア紛争後の市民を描いてきたが、今回紛争の渦中を初めて描いた。8000人超の犠牲者を出したスレブレニツァの虐殺はどのようにして起こったのか、止められなかったのか。ドキュメンタリーではないので、フィクションと言ってしまえばそれまでであるが、映画の冒頭「本作は事実に基づく」「登場人物や会話には創作が含まれる」との断りが入る。「創作」と言っても、ジュバニッチ監督の綿密なリサーチによる迫真性で、観る者を圧倒する。それは残虐なシーンがほとんど描かれていないのに、その背後に存する恐怖が想像できるからでもある。

従来、クロアチア紛争に始まるユーゴスラヴィア内戦では、セルビア人=悪者、と単純に理解されることも多かったようだ。とくに、ボスニア紛争ではセルビア人勢力がボシニャク人(ボスニア人、ムスリム)を迫害、虐殺した構図は明らかであるからだ。そして、その理解は戦後もボスニア・ヘルツェゴビナの復興に対する西側の援助と、セルビアに対する冷淡さという構図に現れている。サラエボはある程度復興し、西側資本も入っているのに、セルビアの首都ベオグラードはそうではない現実となっている。そしてセルビアから分離独立したコソボをいち早く承認したのは日本を含む西側諸国であった。

実際の政治的構図はさておいたとしても、虐殺の実相は解明されなければならない。しかし、ジュバニッチ監督はセルビアの右派政治家が虐殺を否定している現実を、製作する上での大きな障害だったと明かしている。スレブレニツァの虐殺は全てのボシニャク人にとって大きなトラウマとしつつ、映画はセルビア人に対する責任追及や弾劾となっていない。そこで描かれるのは、アイダという一人の国連通訳が自分の家族を守るため奔走する様と、国連本部の怠慢と、少ない構成で現地の緊迫した状況に対処できない国連軍(オランダ軍)の右往左往する様だ。虐殺に関し、後にオランダ軍の責任が裁判で認定されるが、あのような小さな規模とセルビア人勢力のムラディッチ将軍の奸計に対応できたかは疑問だ。しかし、おそらく国連軍が積極的に動かなければセルビア人勢力による虐殺が起こり得ることは予想できたのではないか。

実はユーゴ紛争におけるセルビア人勢力によるボシニャク人やクロアチア人に対する迫害は、歴史的にはその逆の構図があったことも見逃せない(例えば、ナチスドイツと同盟を結んだクロアチア民族主義勢力ウスタシャによるセルビア人迫害)。ジュバニッチ監督の前作「サラエボ、希望の街角」や本作のラスト、夫と息子らを失ったアイダが教職に戻り、ボシニャク人、セルビア人などさまざまな民族の子どもが一緒に過ごす姿に、憎しみではなく融和に希望を持つ監督の想いが伝わる。

共存でしかジェノサイドは防止できないのである。

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どんどん先に進む台湾 それ故の悩みと希望と  「親愛なる君へ」

2021-09-10 | 映画

コロナ禍の台湾で名を馳せたのはオードリー・タン デジタル担当大臣。住民追跡システムを構築し、早期に封じ込めたと賞賛されている。もともとはIT企業の成功者で、その能力を買われて特任省大臣に任じられ、時の人となった。タン氏がもう一つ有名な理由は、トランス・ジェンダーであるということだ。LGBTQの当事者がそれを明らかにして、閣僚になるというのが日本よりかなり先に行っているよう見える。そもそも台湾では2019年に同性結婚が法律で認められている。そのような社会環境であるからこそ出てくる課題が、同棲パートナー亡き後の子どもとの関係だ。それは周囲の視線や意識とどう関係しているのか。

亡くなったゲイのパートナーの息子ヨウユーと糖尿病を患う母シウユーの面倒を見るピアノ講師のジエンイー。シウユーが亡くなった後、不動産がジエンイーとヨウユーとの養子縁組前にシウユーからヨウユー名義になっていることが分かる。亡きパートナーの弟は、借金まみれで不動産が欲しいばかりにジエンイーを疑い、警察もシウユー殺害とそのための違法薬物入手の疑いで彼を逮捕する。ヨウユーを守りたいジエンイーは、罪を認める。

法律で認められていても、人々の意識は簡単には変わらない。ヨウユーをジエンイーから引き離そうとする弟(ヨウユーの叔父にあたる)は、「甥に普通の生活をさせたい」と言い、ジエンイーのピアノ教室にはジエンイーを講師として忌避する訴えが殺到する。初めは息子の同性愛志向が受け入れられず、シウユーにきつくあたるシウユーも自分と孫に献身的に尽くしてくれるシウユーを受け入れ、彼と孫の養子縁組に賛成するのだが、一番大事な当事者の気持ちという点では、9歳のヨウユーから話を聞こうとしない大人たち。

ここで描かれているのは、姿勢の人々を縛る固定観念とその呪縛、そしてヨウユーの叔父のように目先の金銭的欲望に弱い人間や、ハナからジエンイーを疑ってかかる警察の姿などだ。しかし、そもそもパートナーがヨウユーとの父子家庭になったのには、清廉で優しさに溢れたジエンイーに理由があった。

同性結婚が認められる社会ではステップファミリーの類型にも多様性が生まれるだろう。それは異種を排除して成り立つ非民主主義的な社会から、よりマイノリティに目配りするインクルーシブな民主主義、成熟した社会へのステップでおこる必然的な問題だ。ある意味、問題を可視化し、それを解決し続けるのが民主主義社会の宿痾でもある。台湾は、既にその実験場となっていて、コロナ追跡システムで見られたように、一人ひとりの国民管理が貫徹しているからこそ成立した「国家からの自由」を放棄した現実もある。それは、いつ中国という超大国に飲み込まれるかもしれないという危惧を抱いている隣国・小国の証でもある。

興味深かったのは、ジエンイーを完全に犯人扱いする警察の取り調べでもきちんと録画されていたし、警察の取り調べに不足を感じた検察官が独自に動く様だ。台湾の刑事司法がどのようなものか知らないが、その点では明らかに日本は遅れている。

日本では菅義偉首相が突然、自民党総裁選に出馬しないとし、複数の候補者が立候補を表明している。安倍晋三前首相が支持し、その安倍の歴史修正主義、国家主義的な価値観を引き継ぐ高市早苗は、教育勅語を信奉し、夫婦別姓選択制に絶対反対という。この国はまた台湾から遅れていくのだろうか。

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「中立」「両論併記」で差別は追及できないと知るべき 『ヘイトスピーチと対抗報道』

2021-09-03 | 書籍

常々思っていたことだが、マスメディアの「あなたは中国に親近感を持っていますか?」という世論調査はヘイトではないか、ということだ。こういった調査の問題点は二つある。一つは、ここでいう「中国」が何を指しているのか不明確なこと。現在の習近平政権のことであるのか、中国共産党のことであるのか、歴史的連続性としての中国であるのか。あるいは、仮に習近平政権であるとしても、その領土や軍事などの覇権主義的姿勢なのか、香港やチベットなどに対する人権蹂躙の姿勢であるのか、さらには知的財産権や産業構造の独占などその国家独占欲資本主義的な政策であるのか。反対にIT産業やコロナ対策で成果を上げていることであるのか。そして、政権のことではなく、多数の民族からなる中国人民のことなのか、世界遺産を多く有する豊かな土地のことであるのか、タブーが少ないとされる多様な食文化のことであるのか。これら質問の言う「中国」が何を指すかめ明確にせず訊く姿勢は、結果発表の際、調査者の意図に合うように操作される危険性が高い。

次にこのような質問は、普通中国か韓国に対して訊く場合がほとんどで、たまにアメリカもあるが、フランスに親近感を持っているかとか、エジプトに、あるいはインドにとかの質問はありえない。

このように中国や韓国にだけ「親近感」について訊き、答えの選択肢には「ある」「ない」「どちらとも言えない」しかない。朝日新聞は、読売新聞のように、どちらとも言えないと答えた人に対して「どちらかというとありますか、ないですか」と更に質問(更問い)を重ねて無理くり答えさせているかのようにはしていないことを強調するが、質問自体に疑問がある。

長々と自説を開陳してしまったが、本書はまさにヘイトスピーチとはそのようなものか、それにどう対抗するか、報道の現場を超えて問うている。著者の立ち位置は明らかだ。報道は差別に対しては中立を装う、両論併記で逃げるべきではないと。両論併記について言えば、筆者もずっと疑問に思ってきた。例えば、選択的夫婦別姓法制化について、賛成派はアイデンティティの喪失や、働く上での旧姓使用の限界、生活の上での不便さなど実利的、実際的な不合理を訴えるのに対し、反対派は「家族の一体感が失われる」とか「夫婦はそもそもそういうもの」などといった論理的、合理的に説明できない論を展開してきた。しかし、メディアはこれを両論併記として報道するのである。両論とは、一方の論が他方に対する反対論になっているべきと思うが、そうはなっていない。論争などそもそも成り立たないのである。が、マスメディアは必ず両論併記として紹介する。

著者は、韓国での記者経験も踏まえてこの中立、両論併記の悪弊は、従軍慰安婦のことなど日本と韓国との関係での関係改善の壁となっている、むしろそこから解放されて報道すべきと、拓かれたのである。

考えて欲しい。「ゴキブリ、朝鮮人!」とのデモを前にして、「鶴橋(の朝鮮人)大殲滅です」と言われて、報道に中立などあるのか。言われた人間の側に尊厳を保てと平静さを求めるのか。

報道の現場にたち、世間に広く実態を知らせるジャーナリストの役割とは、「“中立”を掲げた無難な報道に逃げ込まず、ヘイトクライム・レイシズムに本気で抗う」(安田奈菜津起氏評)こととの明確な姿勢であり、それは差別を表現の自由の範疇に逃げ込ませない報道記者の指針となり得るだろう。(『ヘイトスピーチと対抗報道』角南圭祐 2021 集英社新書)

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