kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

95%の富を1%が所有するオカシサ  キャピタリズム マネーは踊る

2011-10-24 | 映画
マイケル・ムーアの作品には賛否、毀誉褒貶がある。「ボウリング・フォー・コロンバイン」や「華氏911」、「シッコ」とアメリカのアメリカたる病に鋭く切り込んできた姿勢は、自由の国が、その自由を理由に命も、民主主義も、正義もすべて犠牲にしたと告発してきた。過激なパフォーマンスに見ている者は喝采を送るが、取材される側、それももちろん銃で、戦争で、医療で儲ける側、搾取する側にとっては迷惑この上ない存在である。そして今回、ムーアは格差社会の象徴、一握りの「勝ち組」たる金融業界に切り込んだ。
2008年米第4位の証券会社リーマン・ブラザーズが破綻した。ものすごく単純化した理解で申し訳ないが、サブプライムローン(住宅ローンを本来組めない低所得層が組むローン)で焦げ付いた証券化した債権をたくさん所有していたリーマン・ブラザーズがその回収に追い付かなくなり、破綻。リ社のみならず連鎖倒産、世界的な金融危機がおこったのがいわゆるリーマン・ショックであるが、返せるわけもない人に「(資産価値がとても上がるから)儲かりますよ」と言って無理な住宅ローンを組ませ、一部の売り抜けた層だけがとてつもなく儲かり、他の多くの人は多大な借金を抱え、そして、儲かったはずの会社や人間も転落ってどこか既視感がないか。そう、日本では88年頃に株価が3万円となったあの、バブルとその崩壊である。
そのリ社に救済策として、米政府は7000億ドル(63兆円)の「公的資金」を投入することに決め、世論は猛反発。その法案を下院は否決したが、修正法案にして米民主党を切り崩し、結局成立させてしまった。そして連鎖倒産を免れ、立ち直った金融業界でホントに儲けたのはだれか? そうメリルリンチや、ゴールドマンサックスなど本来、バブルを煽り、そのしっぺ返しを受けて当然のウォール街の大手とその経営者たちである。(現在、広がっている若者らによるウォール街デモをムーアは予想したであろうか?)
アメリカの格差はとにかくすさまじい。社長の給料が従業員平均の400倍!であったりする。(日本では2008年当時17倍だったそうだが、それでも大きい(伊藤千尋朝日新聞記者による。「シネ・フロント」372号)。)。ムーアは、その格差と、バブルの責任を取らずに儲けまくる金融業界に「マネーは踊る」な!と突撃取材をくり返す。結局、金融業界側、それもトップの取材はままならず、差し押さえで家を追い出される現場、さきの法案に抵抗した米民主党議員にインタビューをすることで実態をあぶり出しているが、本丸には討ち入りできなかった?感がある。しかし、米のその病んだ構造、金持ちは本当に金持ちであると、その理由が分かったのは、やはりムーアならではの構成力ではあると思う。
ムーアはルーズベルト大統領の演説、それは善きアメリカのために何をすべきか、何ができるかを真剣に考え、後世に過ちを残さないようにと告げた名演説であり、その理念を体現化したいと考えているようだ。そして疲弊したアメリカに福音をもたらすものとしとして大歓迎の中で登場したオバマ大統領に対し、戦費という壮大な無駄な出費を諌めるため、アフガン派兵を止めよとの書簡も出した。しかし、返事はないという。
興味深いのは、映画で描かれていたオバマ人気の際、米共和党の保守勢力はオバマに社会主義者のレッテルを張ることにより、その人気を削ごうとしたが、見事失敗に終わっていること。オバマはもちろん社会主義者ではないし、沖縄は普天間の名護移設は既定通りとの圧力を再三かけてくるあたり、十分覇権主義であり、パレスチナ自治政府の国連加盟を常任理事国として否決に持ち込もうとしていことからも分かるように、民主主義者ではない。
ムーアが描くように、金融業界のお偉方は政権に入ったり、政府の役職から離れたら、どこぞの大企業の役員になっているそうな。えっと、これは東京電力その他と原子力委員会などとの話ではないので。と言いながら、バブルは日本が先んじていたが、金融その他業界と政府の癒着、役員が儲けすぎても、年収200万に満たない層が増えているこの国とアメリカの驚くほどの相似形。ムーアの攻撃は日本に向かっても無理もないほど、この国の現状である。
話は変わるが、大阪ではポピュリスト橋下徹が知事を辞め、市長選に出るという。橋下は「大阪都」構想をぶち上げるが、都構想なんて所詮、東京以外の地方交付金などオカネを全部大阪にぶち込め、府・市の公務員はすべてクビで、そもそも公務員は制作企画立案部門以外いらんということ。オバマは社会主義者ではないが、社会民主主義の利点は分かっていると思う。北欧の国々は、国、自治体、地域の単位が小さいことによって、常に自分たちが政治を担うのだという意識が高い。だから、投票率も高いと聞くにつけ、大きな政府論の誤り、ポピュリストの出現を許さない民主主義の鍛錬を幾分うらやましいと思ってしまうのである。
ムーアとムーアの攻撃を一人ひとりがなせる社会。それこそが、ムーアが幾度も質問した「(あなたのしていることは)民主主義か?」の問に答える私たちの姿勢を示す試金石であるのであろう。
(「キャピタリズム  マネーは踊る」の映画評は、Kenroのミニコミよりこちらを参照してください。→ 超映画批評 http://movie.maeda-y.com/movie/01406.htm)
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現代アートの「社会性」とは何か  神戸ビエンナーレの成長を望む

2011-10-16 | 美術
神戸ビエンナーレは今年で3回目。前2回はボランティアとして参加したが、今年は時間も取れず一見学者として。結果的にボランティアとして参加するまでもなかった。というのは今年の展示は従来の屋外会場ではなく、屋内にコンテナ仕様のスペースを設けてのそれであったこと、その展示されている作品自体が期待外れであったことによる。
期待外れというのは言い過ぎかもしれない。それは、もともと神戸ビエンナーレという新参イクシビション(exhibitionの正確な発音は苦手)の持つ限界かもしれないし、神戸ビエンナーレの主催者や出品者が、そもそも横浜トリエンナーレはもちろん、ヴェネチア・ビエンナーレに見られるような現代アートにおける「社会性」に鈍感か、あるいは、禁忌しているからかもしれない。ありていに述べる。
先輩格である横浜トリエンナーレは、海外の出品者の割合が神戸ビより多い。そして、中にはヨーロッパをはじめ世界各国のアーティストもいて、ホロコーストの記憶やパレスチナで現在何が起こっているのか、あるいは旧ユーゴスラビアの地で、あるいは、軍事独裁政権の続いてきたチリなど南米の国でどう生きたか、そして中国でどう表現の自由が侵されているかを描いている作品も多い。現代アートが必ず政治的課題を取り上げなければいけないということではない。しかし、日本が内向きと批判される要素は十分にあって、世界で今、過去何が起こっているのか、未来に何が起こり得るのかにつき、あまりに言及がないというのは事実である。
2005年の横浜トリエンナーレであったか、海外のビデオ作品でいきなりシャワーを浴びるものがあった、狭い空間で。単にシャワーを浴びている映像ではない。これは、アウシュビッツに送り込まれたユダヤ人が、シャワーを浴び、それが生きるか死ぬかの別れ目であることを自覚する分岐点であることを描いたものであった。シャワーを浴びるって普通でしょ? いや、狭い空間で、いきなり、有無を言わせず、シャワーを浴びさせられるシチュエーションはアウシュビッツそのものなのである。
あるいは、ウサギが飛び越えられないフェンスがある。ウサギはフェンスの左右を行き来するがあちら側へは行けない。急に人が超えられないフェンスが現れる。そう、イスラエルがパレスチナの民に自由に交通させないために設置した分離壁である。フェンスの映像だけではそこがヨルダン川西岸地区であるとか、イスラエル人に入植された(すなわち侵略された)パレスチナの地であることは容易には分からない。しかし、描かれていることは明らかである。
かように横浜トリエンナーレをはじめ、ヴエンチア・ビエンナーレなどは持に、政治的メッセージに溢れている。それは、政治的である以前にアートも社会性を持つべきだとする出品者の矜持をも見て取れる。翻ってみれば今回の神戸ビエンナーレはどうか。従来より室内という解放感に欠ける制限はあったにしても、人工的な光の表現と、メカニカルなプレゼンテーションはどうだ。どれも同じように見えるし、どれも、コンピューター技術と、鏡やその他デバイスに頼った作品群が多い。社会的メッセージは一体どこにあるのか。
3.11以降、日本でも反原発のうねりはとどまるところを知らず、日比谷公園では6万人集会、ウォール街に端を発した反格差デモは日本にも波及した。現代アートは、「アート」だけをしていていいのではない。社会性なきところに現代アートの魅力はない、とは言い過ぎだろうか。
同時期に開催されているヴェネチア・ビエンナ-レの日本館出品となった束芋の諸作品は、国際情勢を撃つものではないが、「日本の台所」や「日本の快速電車」を見ても分かるように、現代日本の言いようもない無力感と希望のなさをあからさまに描いているように見える。神戸ビエンナーレはそこまでさえも届いていない出品、とは偏見であろうか。
ただ、別会場である野外彫刻(インスタレーション)作品群(ポートアイランドあじさい公園)は、その作品意図が明確な分だけ面白かった。また、兵庫県立美術館で招待作品として展示されている「具体」の作品群(元永定正さんはついこのあいだ亡くなった)は50年前にして、これほどの新しさと思わせたので、神戸ビエンナーレのすべてが否定すべきと言っているのではないので、念のため。(元永定正「へらん へらん」)

コメント (2)
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