近年の作品からケン・ローチも好々爺となったかなど揶揄してしまったが、80歳になったローチがいったん映画から身を引くと言ったのに「怒り」故に本作を制作したということに、ケン・ローチが帰ってきた!と快哉を叫びたい作品となった。
そして「マイ・ネーム・イズ・ジョー」以来の労働者・貧困層ものの傑作と言いたい。傑作と言ったが、ストーリーはきつくエンディングは悲しい。
59歳の大工ダニエルは、医者に仕事を止められ、働くことができない。雇用支援手当を受けようと政府が民間委託した就労支援機関で「働ける」と認定され、手当てを打ち切られそうになる。その機関担当者たるや医師でも看護師でもない「医療専門家」。手当てを継続して受給しようとするためには、就労の意欲と活動を示さなければならない。しかし継続申し込み受付はネットのみ、担当者からの電話を待たなければならない。ネットが、グローバルにつながれる(という幻想の)分、個々のつながりや「お世話様」的、隣人的つながりを破壊したことは言うまでもないが、何十年も現場で大工をしてきたダニエルにネットは使えない。一方、機関で時間を護らなかったと追い返されるシングルマザーのケイティとその子どもと親しくなるダニエルは、生活に潤いを感じる。
しかし、貧困にあえぐケイティはフードバンクで極度の空腹で配給中に缶詰を貪り食い、スーパーで万引きをしてしまう。スーパーの警備員からの「困っているなら、連絡を」との誘いに乗ったら、案の定、体を売る仕事を紹介される。ケイティを助けたい、しかし自身も手当てが入らず困窮していくダニエル。就労活動をしないといけないので、自身の経験を話して採用されそうになるが「病気で働けないんだ」「ふざけるな!」。
「就労支援」機関でさんざんな目に遭ったダニエルは行動に出る。「I, Daniel Brake」などと建物にスプレーで大書するのだ。そう、就労希望者番号でも、ネットで区分けされ排除され、生活保護収容者予備軍(=国家の厄介者)でもなく、「私は、ダニエル・ブレイク」だと。ダニエルの抵抗はささやかすぎて、国家政策を動かすこともないし、ダニエルに手をさしのべる者もいない。しかし、もともと通信制大学に行っていたケイティが紹介した弁護士の手で不支給不服審査が通りそうになるが。
ケン・ローチがずっと描いてきたのは労働者だ。それは、ホワイトカラーのように種々のセイフティネットがあるわけでもない、将来が不安、しかししっかり働いて、それゆえ自己の尊厳を保ってきた労働者だ。
尊厳とは何か。筆者は「自分が自分であることのできる権利と自由」と定義したい。ダニエルやケイティを追い込んだのはもちろん経済的理由であるが、その前提として、ダニエルらの尊厳を奪う制度ややり方を告発しているのだ。大工としての腕はまっとうなのに、ネットが使えない、煩瑣な書類をことごとく要求して、それらができないとダメ人間のレッテルを張る仕組み。いかにして国の福祉・恩恵を与えないと、民間委託した「機関」にあの手この手で求職者、受給者を排除する国家。
イギリスは労働者の国ではなかったか?「ゆりかごから墓場まで」の国ではなかったか。もちろんサッチャー政権で福祉国家でなくなっていた。そして、今や、ブレグジットで主要な労働力である移民を排斥しようとまでしている。
しかし、湯浅誠さんは厳しく指摘する。「ダニエルはEU離脱を支持しただろうか。たぶんイエスだ。ダニエルはトランプを支持しただろうか。たぶんそれもイエスだ。」それは、私たち一人ひとりがダニエル、ケイティのような存在を忘れ去っていたのに、それに気づかないまま、トランプが「あなたを忘れていないよ」との声かけをして、それが効いたからとする。そう、ダニエルの尊厳を奪ったのは、国家政策、その末端機関、職員であったとしても、ダニエルに声をかけなかった、ケイティに手を差しのべなかった、新自由主義か高度資本主義か呼び方はどうでもよく、その流れを欲した私たちでもあったのだ。
人の尊厳が奪われることに無関心であるのは、自己の尊厳にも無関心であること。と思う。
ケン・ローチの復活に溜飲を下げている時ではない。