イスラエル建国まで祖国を持たないユダヤの民は、ディアスポラとして世界を流浪した。そのイスラエルが英仏の政治的思惑で無理矢理できた後も(1917年、バルフォア宣言)「祖国」に居を持たないユダヤ人はいた。ユダヤ人以外にもそのような歴史の変転に無力な民は、トルコに住まうギリシャ人とて同じである。
イスタンブール(コンスタンチノープル)に住まい平穏な生活を送っていた主人公ファニスのギリシャ人一家は地中海の小島キプロスの領有権をめぐって争うトルコ・ギリシャの政争(ファニスのお父さんに退去を告げに来たトルコ入管職員は「あなたは悪くない」と言っていた)ゆえ、ギリシャへ送られる。が、トルコでの生活の長い一家はギリシャでは受け入れられない。父親がトルコの職員に「改宗すればいられますよ」と耳打ちしたのが後でわかるが、彼らは敬虔なギリシャ正教徒。「一家」と書いたが、一族郎党でギリシャへの移住を果たしたのに、ファニスが大好きだったおじいちゃんは移住しなかった。トルコ国籍も持っていたし、スパイスなどの食料品店として地元で地歩を築いていた祖父にとって、もはやイスタンブールの街角は離れることのできない故郷だったのだ。
映画構成としては無理があるようにも思えるし、あまりにたんたんとした表現にディアスポラの苦悩は見つけにくい。しかし、移民(文化)が前提の欧州で、自己の苦しい宿命と対峙しつつも希望を失わない「欧州人」(奇しくもトルコはEU入りを目指し、その「人権後進国」ぶりに反対の国家もある)の悲哀を描いたというには、作品は軽く、面白い。そして乾いている。
ディアスポラの苦しさ、やるせなさを前面に出すでもなく、穏やかに流れる作品の作りように他民族、異民族とのせめぎ合いそのものが歴史になっている、あるいは現実であるヨーロッパの人たちの知恵と諦観を見た思いがした。
それにしても「人権後進国」と言われるだけのことはしてきたとされるトルコを題材にした映画は、少なくとも日本に入ってくるのはキツい。「アララトの聖母」「遥かなるクルディスタン」など。
世界最大の少数民族クルド民族が弾圧に晒されているというのは、トルコの現実のまた一部に違いない、と思う。そして、そのような過去の清算に鈍感と批判されるトルコは、ヨーロッパ(かどうか?)一の親日国であるというのにもまた複雑な思いがする。
イスタンブール(コンスタンチノープル)に住まい平穏な生活を送っていた主人公ファニスのギリシャ人一家は地中海の小島キプロスの領有権をめぐって争うトルコ・ギリシャの政争(ファニスのお父さんに退去を告げに来たトルコ入管職員は「あなたは悪くない」と言っていた)ゆえ、ギリシャへ送られる。が、トルコでの生活の長い一家はギリシャでは受け入れられない。父親がトルコの職員に「改宗すればいられますよ」と耳打ちしたのが後でわかるが、彼らは敬虔なギリシャ正教徒。「一家」と書いたが、一族郎党でギリシャへの移住を果たしたのに、ファニスが大好きだったおじいちゃんは移住しなかった。トルコ国籍も持っていたし、スパイスなどの食料品店として地元で地歩を築いていた祖父にとって、もはやイスタンブールの街角は離れることのできない故郷だったのだ。
映画構成としては無理があるようにも思えるし、あまりにたんたんとした表現にディアスポラの苦悩は見つけにくい。しかし、移民(文化)が前提の欧州で、自己の苦しい宿命と対峙しつつも希望を失わない「欧州人」(奇しくもトルコはEU入りを目指し、その「人権後進国」ぶりに反対の国家もある)の悲哀を描いたというには、作品は軽く、面白い。そして乾いている。
ディアスポラの苦しさ、やるせなさを前面に出すでもなく、穏やかに流れる作品の作りように他民族、異民族とのせめぎ合いそのものが歴史になっている、あるいは現実であるヨーロッパの人たちの知恵と諦観を見た思いがした。
それにしても「人権後進国」と言われるだけのことはしてきたとされるトルコを題材にした映画は、少なくとも日本に入ってくるのはキツい。「アララトの聖母」「遥かなるクルディスタン」など。
世界最大の少数民族クルド民族が弾圧に晒されているというのは、トルコの現実のまた一部に違いない、と思う。そして、そのような過去の清算に鈍感と批判されるトルコは、ヨーロッパ(かどうか?)一の親日国であるというのにもまた複雑な思いがする。