kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

アメリカ西海岸美術紀行5 ロサンゼルス③

2010-01-31 | 美術
今回西海岸はロサンゼルスを訪れたのはここに行きたかったからだ。そしてここの規模、蒐集作品のすばらしさに想像力をかき立てられたのが、実は愛読マンガ「ギャラリーフェイク」であって、実はゲティ・センターの存在自体知らなかった。
ゲッティ・センターが、もともとゲッティ美術館であったこと、J・ポール・ゲッティという大金持ちがつくった美術館であること以外は恥ずかしながら何も知らなかったのだ。アメリカの美術館はだいたい富豪がその蒐集作品を見せるために建てられたものが圧倒的だ。メトロポリタンしかり、バーンズ財団美術館しかり。そしてその規模たるやMETは世界3大美術術館の一つ、バーンズ財団美術館は長い間公開されていなかったが公開されるやその規模に観衆は度肝をぬかれたという。
そしてゲッティ・センター。「圧巻」である。石油王ゲッティが建てた個人美術館は、その資産から導き出される予算はMETの4倍、東京は国立西洋術館の100倍!という。そして利子だけでも増え続ける資産を費消するために入場料も無料という太っ腹ぶり。ビバリヒルズの高級住宅街のさらに上にあるゲッティ・センターは眺望も抜群、丘の頂までトラムのような列車で移動する。登り切った終着駅の左右に拡がるビバリヒルズの邸宅群と太平洋。ここは言い過ぎれば桃源郷である。その桃源郷たる所以はゲッティ・センターの収蔵作品とその見せ方にある。
ゲッティ・センターはセンターと言うだけあって、その中に美術館はもちろん講堂、研究所など多くの施設を擁している。そして美術館の中でその研究成果を分かりやすく、かつ興味深く見せてくれる。たとえば精巧な彫刻はどのように作っていくかを、映像と実際の制作過程を、作品を分解して木を彫るところから、色付け、組み立てなど大仰な聖人像が出来上がっていく様はまさに研究の成果だ。理解できる範囲での英語の説明書きも丁寧で、グラフィックでそれぞれの行程が見られるのも楽しい。これがあくまで研究成果の一端で、企画展も19~20世紀労働者の写真集で興味深いのに常設店の規模たるや半端ではない。
美術館は4つの棟に分かれ、エントランスから時計回りに古い時代の作品から見て回れるようになっている。もちろん、どの棟から入っても構わないし、一度入った棟にもう一度入ることも可能だ。この点、大きな美術館で中には一方通行しかできないところ(例えばバチカン美術館など)に比べてとてもよく考えられている。中世美術からルネサンスの北館、バロック、ロココ、ロマン主義の東館と南館、そして19世紀以降の西館と時代区分を区切り回りやすい。ただ、回りやすいと言っても一つ回るので相当の時間を要する。筆者は行きのバスで2時間もかかったため、午後まるまる費やして回ったが、本来なら1日あっても回りきれないくらいだろう。
アメリカの美術館はやはり20世紀美術が得意だが、ここは違う。レストランも素敵、庭園を回るだけで時を忘れる。至福の美術空間とはゲッティ・センターのことである。(了)
(不思議なフォルムのゲッテイ・センター庭園)
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アメリカ西海岸美術紀行4 ロサンゼルス②

2010-01-25 | 美術
ノートン・サイモン美術館は近代美術のみならず、ルネサンスやバロック期の作品もそろえているが、数は少ないものの見るべきものがある。ベッリーニやクラナッハ、グイド・レーニなど。そして下階にはアジア美術がたんとある。アメリカの金持ちの蒐集癖はすさまじい。第2次大戦期自国内で戦闘や爆撃、占領を経験したヨーロッパ諸国では戦後間もない頃美術作品の保護どころではなかったらしい。本土は無傷だったアメリカはヨーロッパの戦後の混乱に乗じて美術作品を買いあさり、アメリカへどんどん運んだという。その資金的裏付けが石油や自動車、ノートン・サイモンのような食品などで財を築いた富豪たちである。もちろん何度も言うように近代美術が主で、それ以前の作品はどうしても少ない。
ロサンゼルスはダウンタウンとウエストウッドのちょうど真ん中、“へそ”のあたりにあるのがカウンティ美術館。Countyとは行政区画の「郡」の意味。つまり郡立美術館で、富豪が私設美術館を建てるのがほとんどのアメリカでは珍しい公立の、しかも大規模美術館。土地柄西海岸、ロスでは中国、日本、韓国系アメリカ人も多く、それらの国とのつながりも多い。カウンティ美術館には日本館や高麗(文化)館もある。しかもそれぞれが独立した建物で、訪れたときは一つは改修中、新施設は建設中で美術館をすべてみられたわけではないが、かなりの規模だ。本館にあたる建物は20世紀美術の宝庫。ポロックやジャスパー・ジョ-ンズ、アンドリュー・ワイエスなどのアメリカ美術はもちろんのことマグリットやピカソ、ブラック、デュビュッフェなどのヨーロッパ絵画、ブランクーシ、アルプ、ボッチョーニなどの彫刻も充実していてもうご機嫌である。
ヨーロッパの美術館でもそうだが、ここでも会員特典(membership)というのがあるようで、メンバーだけの企画展、ルノワールと西洋美術みたいなものをしていたが、疲れていたし、印象主義ならもういいかと思い、membershipでなくても観覧できるかも聞かずに後にした。
ロサンゼルス現代美術館は、規模はそれほどでもないがここもアメリカ20世紀美術そのもの。如何せん現代美術は時代を下れば下るほど大きくなるようで、だだっ広いところでよく分からない作品が数点。分からないが面白いものもあり、現代美術ならではの好奇心をそそるあれこれ。そして、現代美術の一カテゴリーであるビデオ作品はなぜかなく、「現代」といっても80年代以降の作品はあまりないのかもしれない。
ちょうど企画展でヨゼフ・ボイスをしていたが、作品そのものよりもボイスの書簡や彼を紹介した紙誌などが展示され、ただでさえ英語読解に問題がある筆者にはつらく、ほとんど素通りしてしまった。ただボイスのあの固いフェルトの雰囲気は楽しめた。
ロサンゼルス現代美術館のすぐ近くにウォルト・ディズニー・コンサート・ホールがあるが設計はあのスペインはビルバオのグッゲンハイム美術館をつくったフランク・O・ゲーリー。シルバーの曲線が快晴に映え、楽しいひとときだった。(ウォルト・ディズニー・コンサート・ホール)
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アメリカ西海岸美術紀行3 ロサンゼルス①

2010-01-24 | 美術
ロサンゼルスには二度とはあまり行きたくないと思うのは、公共交通のあまりの貧弱さ故である。車を持たない者は人にあらず、と感じるほど移動が不便な町だ。大都会であるものの地下鉄は路線も本数も少なく、日常遣いには適さないし、路線バスはタイムテーブルがはっきりしない上とても時間がかかる。と、一旅行者の感想だが、美術館目当てだけでロサンゼルスを訪れ、一人で公共交通で移動する輩などいないのであろう。ただ、バスに乗っても地下鉄に乗っても感じたことだが、美術館やレストランなどであれだけたくさんいた白人が、バスや地下鉄ではほとんど見かけないのだ。カラードばかりで、黒人さえ多くない。あと筆者のような東洋系。移動に車が当たり前ということとそういった車を持つ層が一定の収入のある層に限られていること(ビバリヒルズ界隈を路線バスで通り過ぎたが、なぜこのような金持ち大邸宅の地域を路線バスが走っているのかなと思ったが、乗車してきた人たちを見ても、使用人の通勤手段として必要であることがわかった)、何よりもアメリカが車社会であることを実感したのが、今回のロサンゼルス訪問だった。美術館巡りなど観光をするための公共交通という意味では、ニューヨークはとても便利だった覚えがあるからだ。
で、ロサンゼルスの美術館は。回れる範囲で回ったそのどれもがすばらしい。ゲティ・センターなどロサンゼルス中心部からバスで2時間もかかったが、行く価値おおいにありである。ゲティ・センターのことは次回以降のブログで紹介することにしてまず訪れた順番でロサンゼルス郊外のパサデナにあるノートン・サイモン美術館を。
カリフォルニアでオレンジジュース会社を買収などして食品企業で財をなしたNorton Simonが西洋近代美術作品を収集し、建てたのがノートン・サイモン美術館(Norton Simon Museum)である。
エントランスに入るとすぐにドガの彫刻に気づく。そしてすぐ隣の大きな部屋に歩を進めると至る所にドガの油彩と彫刻。絵画ではWoman Drying Herself、After The Bath、Dancing In The Wingsなど、彫刻では有名なLittle Dancer Aged FourteenからArabesqueが幾種類も。素晴らしい。よくもこれだけドガを集めたものだ。オルセーにもたしかドガの部屋があったと思うが、どちらのコレクションがすばらしいか俄には答えられない。
ドガの部屋がまだ続くうちにあふれだす西洋近代絵画の絶品たち。時代的には13世紀頃からルネサンス期、古典の時代の作品もあるが、やはり近代作品が圧倒。昨年パリに行ったときには時間がなかったこともあり、オルセーには行かなかったくらい印象主義の作品群から遠ざかっていたが、ノートン・サイモンで数々の作品、ルノワール、ピサロ、モリゾ、モネ、シスレーなどに対面し、改めて印象主義もよいと思えた。
(ドガ アラベスク)
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アメリカ西海岸美術紀行2 サンフランシスコ②

2010-01-20 | 美術
リージョン・オブ・オーナー美術館は全米でも指折りのヨーロッパ美術の殿堂と言われ、確かに美術館前の庭園にロダンがいくつも並ぶは、バロックから、ロココ、ロマン主義、印象主義、ラファエル前派そして20世紀美術と満遍なく押さえているはで、アメリカでこれほど西洋美術にまみえるのも嬉しいなら、アメリカの富豪が美術に金を惜しまなかった証として記憶される美術館である。
ところでリージョン・オブ・オーナー(Legion of Honor )とはフランス語ではレジョンドヌール(勲章)(légion d'honneur)のことである。もともとはナポレオンが制定した国家功労者に与えられる最高勲章のことであり、パリにあったたいそう美しいパレスにその名が与えられた。そしてアメリカ人アルマ・スプレッケルズがそのパレスに感動し、実業家の夫とともにサンフランシスコのこの地にレプリカを建て、それが同じ名を冠した美術館として誕生したのである。そしてリージョン・オブ・オーナー美術館は古代から近代までの美術作品を、現代アートはデ・ヤング美術館というもともとは棲み分けもあったようであるが、見たところデ・ヤング美術館には近代美術も多く、かなりの規模である。
広大なゴールデン・ゲート・パーク公園にあるデ・ヤング美術館は外観からはそうは見えなかったがとてつもない広さである。特別展が「ツタンカーメンとファラオ展」をしており、あまり興味がわかなかったし、23.5ドルの入館料は高いなと思ったが、常設展がこれほど充実しておればあながち高いとは言えないかもしれない。展望台にも上がることができるのも楽しい。
なんといっても、デ・ヤング美術館には20世紀のアメリカの作家たちの作品がたくさん楽しめる。エドワード・ホッパーにアンドリュー・ワイエスなどの具象、ジョージア・オキーフのような象徴性の高い作品から、ジャクソン・ポロックやデ・クーニング、サム・フランシスなど抽象表現主義の作品群は圧巻である。
当初それほど広いとは思わなかったが、行っても行っても終わりがない。上階のオセアニア、南米、アメリカ先住民美術などは疲れてしまいパスした。このあたりは美術館というより博物館という趣である。
N.Y.はメトロポリタン美術館がセントラルパークの中心にあるように、このデ・ヤング美術館も緑にあふれた公園と共にたくさん楽しめる空間であると思う。
(デ・ヤング美術館そばの巨大な安全ピン)

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記憶の暗殺者に抗する記憶    アンジェイ・ワイダ「カティンの森」

2010-01-17 | 映画
「処理」や「解決」という言葉は対人間に使われるとき、とてつもないその非人間性と人命無視に気づかされる。戦後「処理」における強制連行された朝鮮人・中国人らへの補償の無為さ、原爆被害者への差別、「従軍慰安婦」への本質的謝罪の欠如など日本をめぐる太平洋戦争期の負の遺産としての「処理」がおよそ被害者の納得として機能していないことからも明らかだ。そして「解決」。人間の存在とは得てして「解決」とは遠いところで生きて、迷い、行きつ戻りつつ成長したり、なんらかの自覚や獲得を意識したり、あるいは結局答えが見つからないまま何も前進がないまま終わることも多いのが本当のところではないだろうか。個人の生き方の中で「解決」が語られて終わる場合は、他者に害を及ばさないという点で宜なるかなというところだが、権力を持った者が「解決」と言った場合どうか。
ヒトラーは「ユダヤ人問題の最終的解決」と言い、ホロコーストを生みだした。そしてスターリンはそのヒトラー、ナチスのポーランド侵攻に抗してポーランドを奪回、占領下に置きたいという政治的野望の上ではポーランドが独立した力を持つことを畏れた。スターリンがポーランドの戦後「処理」を選択した結果がカティンの虐殺。
幾分手前みその前置きが長くなったが、ポーランド映画の巨匠アンジェイ・ワイダが祖国がソ連の桎梏から解き放たれて20年近くの構想の末送り出したのが本作「カティンの森」である。虐殺事件後ポーランドの民衆はそれがナチスドイツの仕業ではなくソ連の犯罪であることを認識していたという。しかし、戦中そして戦後ソ連の衛星国家となったポーランドではそれはタブーであった。そしてワイダ監督の父親はカティン虐殺の犠牲者であった。
映画は、ラストこそ凄惨かつ衝撃的虐殺シーンで終わるが、物語の本旨は連行され、行方知れずとなった夫、息子、父であるポーランド軍将校を案じる女性ら家族の姿である。帰ってくると信じ、あるいは、その死の真実を知りたいと奔走する彼女ら。兄はソ連に殺されたとはっきり言う妹は拘束され、夫の死の実相を知りたいと奔走する妻は疎んじられる。同じく大将の夫をソ連軍に殺された妻は生き残った中尉にその真実を伝えたため、中尉は自ら命を絶つ。
戦後ソ連の属国化したポーランドではカティンの事件を語ることさえタブーであった。そしてワイダ監督自身が父をソ連の一連の虐殺で失っており、その事実を知ったのも監督自身が1957年カンヌ映画祭で「地下水道」審査員特別賞を受賞した際に、フランスで文献資料を見たのが初めてということなのだ。そして数々の賞を受賞したワイダ監督でさえも映像化するのに50年の歳月を待たなければならなかった苦難。
ソ連崩壊後多くの東欧諸国が自国民の血を流して独立の道を歩んでいる。なかには一つの共和国から最終的には6つの国に分かれ(コソボ独立を承認している国から見れば7つ)、その間夥しい犠牲者が出たユーゴスラビアのような例もある。その中にあって、ポーランドは自主管理労組「連帯」の蜂起に始まり、最終的には民主化(1989年)の過程で自国民に銃を向けることはなかった。しかし、18世紀のロシアによるポーランド分割、第2次大戦期にはドイツに侵攻され、戦後ソ連の支配下とやられっぱなしの国である。であるからこそ民主化、独立を果たす過程で新たな犠牲者を出さなかったのかもしれない。
カティンの森が語られるようになってほんの20年も経っていない。しかし、その間多くの遺族が斃れ、亡くなっている。ホロコーストはなかったとする一部の人にドイツは、それらの人を「記憶の暗殺者」と名付けた。記憶を消す、思い出させないという試みはソ連がポーランドに課したように戦車や銃剣の力でしか持続しなかったし、それも最終的には成功しなかった。東欧の過去と現実、カティンの森事件を語り継ぐ役目は一人ワイダ監督だけではない。

「一九六八年の夏、小雨に濡れたプラハの街頭に相対していたのは、圧倒的で無力な戦車と、無力で圧倒的な言葉であった。」(『言葉と戦車』加藤周一)

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アメリカ西海岸美術紀行1 サンフランシスコ①

2010-01-14 | 美術
アメリカの美術館はヨーロッパのそれと違って大富豪が名画を蒐集したあげく美術館を創設、というパターンが多い。NYの現在では「国立」的私立であるメトロポリタンでさえもともとの出自はそうである。今回西海岸訪問の目的であったゲティ・センターももちろんそうで、ゲティについては後日書くことにしてまずサンフラシスコ。
基本的に近代美術の蒐集は目を見張るものがあるが、それ以前、バロックやルネサンス、中世美術となるとメトロポリタンを除いて弱いのがアメリカの美術館の一般的傾向であると思う(ボストンやフィラデルフィア、シカゴなど米の有名美術館に行っていない浅はかな思い込みであるが)。であるからと言って、アメリカの美術館が物足りないかというとそんなことはない。サンフラシスコ近代美術館(SF MOMA)はNYのMoMAのサンフラシスコ版で、NYよりかなり規模は小さいもののサム・フランシスやジャクソン・ポロック、マーク・ロスコなど20世紀戦後美術シーンを沸かせたアートシーンが百花繚乱である。そして、フランク・ステラ、ドナルド・ジャッドなどミニマル・アートの大作も楽しめるのが、概してアメリカの近代美術館の醍醐味だ。SF MOMA(なぜか、本家のMoMAはoを小文字で書くのに対し、SFではすべて大文字である)もその例に漏れず、中規模近代・現代美術作品がたくさんあるのがうれしいところ。サム・フランシスの流れるドローイングに身を任せ、ポロックのドリッピングにスーラなどとはもちろん違う点描を、ロスコの突きつめた静謐さ。抽象表現主義はこちらに「あなたはどう考えるのか?」をいろんな意味で突きつける。それは弾劾でもないし、一部知識層の高邁なご宣託でもない。考えることの共有。ロスコに囲まれた至福の空間はすぐにでも手に入る。
一転して、リージョン・オブ・オーナー美術館(Legion of Honor Museum)は、かなりブルジョア趣味というか、「いいところ」である。その証ではないが、ちょうど開催されていた特別展が「Cartier」展。残念ながら、ブランドのカルチェにはとんと縁がないが、展示されている時計、首飾り、ティアラなどため息の出る美しさ。宝石の光も、細工の細微さもあるが、総合芸術としての細密美術の粋をあんな小さな世界で見せてくれる。職人の技術とそれを要した、追い求めたハイクラスのマッチングがいま、輝きをもって甦る。
(ティエポロ「フローラの帝国」 リージョン・オブ・オーナー美術館)
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200年を越える新しさ   ジェイン・オースティン 秘められた恋

2010-01-04 | 映画
いくつかのシーンにくすりとさせられたことがあった。それは、ジェイン・オースティンの小説そのものが、本作のエッセンスとして加味されているからだ。たとえばジェインを財産だけのために早く嫁がせようとする母Mrs.オースティンは「高慢と偏見」で同じく長女ジェインや主人公エリザベスら娘を金持ちに嫁がせることだけを考えている愚かな母Mrs.ベネット。舞踏会で周囲の眼を無視してピアノを惹くのはエリザベスの妹、メアリー。ジェイン・オースティンに結婚を申し込むウイスリー氏の母で支配欲が強く高慢なグレシャム夫人は「高慢と…」のキャサリンドバーグ夫人。そしてジェインが惹かれるトム・ルフロイはもちろんミスター・ダーシー。
こう見れば、本作の脚本がBBC版の「高慢と偏見」をかなり下敷きにしていることが分かる。それもそのはずと思うのが、日本で映像から入ったオースティン・ファンは圧倒的にこのBBC版、というかダーシー役のコリン・ファースにめろめろになったためと考えられるから。後に「プライドと偏見」の名で英国若手美人女優のキーラ・ナイトリー主演でリメイクされたが、ナイトリーはよかったものの映画としてはそれほどでもなかった。ために原作が長いこともあり、映画化は成功していない(BBC版はテレビドラマで6時間くらいある)。
オースティンの小説の面白さは、もちろん映像化されただけでは分からない。登場する人間がそれぞれ丹念に描かれ、人の愚かさ、賢さ、そして曖昧さが200年たった現在も何も変わっていないことが原作によって確認できるから。そして人は変わりうるし、変わらないこともあると教えてくれる。
ジェイン・オースティンが生涯独身であったことは周知だが、その間なんのロマンスもなかったというとそうでもないらしい。いや、駆け落ちまでした相手がいたというのが本作の筋である。そして、ジェインの相手トム・ルフロイは実際にジェインに何度か会っており、ジェインが好意を寄せていたのは間違いないらしい。しかし、駆け落ちまでしたかどうかはよく分かっていないというのも事実だ。トムはアイルランド出身で貧しい中法律家を目指してロンドンの叔父に養われている。しかしアイルランドの家族を養うため、より多くのお金を叔父に出捐させるため放蕩にふけったふりをして度々お金をせびる。トムには財産を得られる機会を逃してまでジェインと駆け落ちできる環境になどなかったのだ。そしてジェインも貧乏なオースティン家から出るには金持ちと結婚するしかなく、作家として身を立てるなど愚かな母はもちろん誰も説得できるものでもなかったのも同じ。
結局駆け落ちをあきらめ、一度申し込まれた財産家からの結婚も取り下げられたジェインはむしろ腹をくくったためか作家として成功する。しかし、ジェインの文才があがったのも都会で暮らし洗練された聡明なトムのアドバイスがあったから。
結局賢い女は賢い男を選ぶということだが、それを見分けるにはお互いにいろんな人間を観察しないと分からないだろう。ジェインは家族や親類、狭い村の近所の人々らを、トムはエリート集団である法科の学生や判事の叔父、そして入り浸っていたお店の面々など。人間観察のための条件と必要性は村も都会も変わらない。ジェイン・オースティンが田舎の狭い狭い貴族社会で描いた世界は人間の基本の姿にほかならない。そこには財産はないが愛のある結婚と、愛はないが財産のある結婚の二者択一しか選択肢のない当時の姿をフィーチャーしてはいるが、現代でもそこまでひどくないにせよベースは変わらない。結局なんらかの打算がはたらくという意味では財産のない愛だけの結婚というのもありえないから。
原作の「ビカミング ジェイン・オースティン」とはジェイン・オースティンになるということ。そうか、トムに出会う前は、オースティン家のジェインはただの田舎娘で作家ジェイン・オースティンにはなっていなかったのか。生涯わずか6本の長編しか残さなかったオースティンの語り継がれる物語は、版を重ねる小説と同じくこれからも成長していくのだろう。
本作を見てあらためてその成長ぶりが楽しみになった。
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