kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

近代美術史の結節点 「キュビスム展 美の革命」を愉しむ

2024-03-29 | 美術

美術作品を分かりやすさのためにとても大雑把に分類すると、具象か抽象か、写実的かそうではないか(表現主義的か)と分けることができるだろう。もちろん作者の意図として、作者にはそう見えたから描いたが、鑑賞するものにはどう見てもその通りには見えないということもあるだろう。

西洋絵画中心の話にはなるが、印象派が生まれたのは19世紀前半に登場した写真技術に対し、画家が対象の再現性という点では写真に敵わないと感じ、新たな表現方法を模索し始めたからというのも理由の一つだろう。後期印象派の代表格とされるセザンヌは客体の解体を推し進め、キュビスムへの道を開いた。有名な言葉「球と円筒、円錐で描く」はその表現主義的精神を余すことなく伝えている。セザンヌに傾倒したピカソがブラックとともに試みたのがキュビスムであり、3次元の対象を如何に2次元で表現するかの格闘の末、多視点にたどり着いた。

「パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展 美の革命」は、50年ぶりの大キュビスム展とうつ。これは、1976年に東京と京都で開催された「キュービズム展」以来だからだ。そしてポンピドゥー・センターが来年末から5年間改修休館することから徐々にその準備として、収蔵品を世界中に貸し出していることで実現した大企画である。50点を超える初来日作品等もある。

展示の章立てが粋だ。セザンヌがキュビスムへの嚆矢とわかる「キュビスム以前」、ピカソがアフリカ美術に傾倒していた「プリミティヴィスム」、ブラックがセザンヌへのオマージュとして描いたレスタックの地で始まる「キュビスムの誕生」、ピカソとブラックの邂逅による「ザイルで結ばれた二人」、キュビスムを新様式として評価、ピカソを後押しした画商のカーンヴァイラーが認めたキュビスト「フェルナン・レジェとファン・グリス」。憎いのはキュビスム好き?には、たまらないセレクトであるドローネー(ロベール、ソフィア)やデュシャン兄弟(ピュトー・グループ)、リプシッツの彫刻、あまり知られていない東欧のキュビストや立体未来主義にも触れられていて圧巻の14章だった。

東京展ではブランクーシの彫刻作品もあったようで京都展にはなかったのが残念だ。しかし、ピカソとブラックがはじめてわずか数年で他の展開へとつながっていったキュビスムの役割がいかに大きく、歴史的画期であったかがよく分かる流れとなっていることは否定できない。第1次世界大戦前夜にパリに集ったピカソはじめ異邦人ら、グリスも、ブランクーシも、シャガール、モディリアーニ、アーキペンコ、リプシッツらが切磋琢磨した技と試みはやがて大戦中に生まれたダダ、その後の抽象、シュルレアリスムへ、さらにアンフォルメルまでにつながっていく表現主義の門戸を開いたのだ。

ところで、キュビスムは作者にそう見えたこととそう表したいことの結節点としての表現であり、作品名は「座る女」など具体的であって、抽象画のような「作品」や「無題」はあり得ない。具象そのものだったのだ。しかし、たとえば東京展のチラシに採用されているロベール・ドローネーの《パリ市》(1910-1912)は、割れた鏡に映った像のようで一見「具象」には見えないかもしれない。しかし、中央の裸体像は明らかにギリシア神話の「三美神」である。キュビストも前近代の画題に敬意を表し、かつ逃れられない部分もあったのだ。だからキュビスムは面白い。(「パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展 美の革命」7月7日まで 京都市京セラ美術館)

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現代アートの最前線と現在地 香港 M+

2024-01-21 | 美術

5年半ぶりの海外、初めて香港に行った。2021年、コロナ禍に開館した現代アートの美術館M +(エムプラス)がお目当てだ。ここ数年新たに開館したものも含め行きたい美術館はまだまだあるがあれだけ訪れたヨーロッパは円安、原油高(燃料サーチャージ)でとても行けない。香港ならそれより安価、4時間ほどで行ける。しかし行ってみるとその物価高に驚いた。それも飲食代金がとても高い。日本が低賃金・非正規労働者を背景に安すぎるのかもしれないが。

さて、M +。新営の美術館は常設展を持たないケースも多いが、コレクションが半端ない。現代アートに特化しているため、コレクションもドローイングや立体、インスタレーションのほか、「現在」を想起させるアーキテクチャ、プロダクツ、ファッションといったデザインをキーワードに世界を縦横無尽に横断する。それは、アジア的混沌の象徴でもある香港であるからこそふさわしいプレゼンテーションであるかもしれない。人類の歴史とともに始まったアートが、一部の限られた層のためのアートか、そうではなく全体、全人類のためのアートか、あるいは、アートが奉仕するのかアートに奉仕するのかといった答えのないアートそのものの歴史をまざまざと見せつけられるようだ。そう、デザインという観点で見ると現代の私たちの周囲はアートで埋め尽くされている。都市空間から交通、電気製品、通信、デジタル環境に至るまで考え尽くされているのだ。だがその考えは尽きない。だから、全体の規模の割に映像作品が少ないのは意外であり、また観覧しやすい。というのは、ドクメンタなどの世界規模のアートフェスティバルでは時に長尺の映像作品が多く、とても1日で回れるものではないからだ。

都市や建築、工業製品などは馴染み深く、親しみも感じられる。それは、成長過程にあった日本で生み出されたものも多いからだろう。丹下健三の建築、ダイハツミゼット、ソニーのウオークマンなどどれもモノづくりで日本を誇った証言者であり、遺言者でもある。しかし、デザインはいずれ陳腐化し、機能はどんどん高性能に上書きされる。と同時に、人が好むデザインとは時に普遍的であり、地球の歴史から考えるとほんのミリ単位に過ぎない人類の歴史では変化とはさほどのことでもないのかもしれない。そのような「悠久」から遠い位置に存するように思える「モノ」で人類史、アート史を語ることが許され、面白いのが現代の美術館の存在意義でもあるだろう。だからここではモノに魅せられ、囚われた現代人たる自身を振り返りつつ楽しむことが、このM +の廻り方である。

映像作品が少なく観覧しやすいと述べたが、展示数はとんでもないのでじっくり回ればとても時間は足らない。そして企画展は中国出身のファッションデザイナーのマダム・ソングで、もともとモードには無知の自分はそれほど時間をかけなかったのが幸い?した。マダム・ソングは中国共産党とも良好な関係を築いていたのでこのような展示に至ったが、現在の中国・習政権に批判的とされる艾未未(アイ・ウェイウェイ)は、北京オリンピックの功労者であるのにいくつかの作品が外された事実は、中国という体制下でのアート空間の限界と厳しさも感じられるだろう。

ロッカーが有料なのは不満だが、シニア入場料は半額というのは嬉しい。ぜひまた訪れたい空間である。ただし香港に再び行くことがあればだが。(ちょうど日本人「虹のアーティスト」)靉嘔(Ay-O)のミニ企画もしていた。)

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そう、関西最大の美術運動なのに「未知」であったのだ。「すべて未知の世界へ GUTAI  分化と統合」

2022-12-06 | 美術

ちょうどゲルハルト・リヒター展(豊田市美術館2022.10.15~2023.1.29)で見たリヒターの〈アブストラクト・ペインティング〉(「抽象画」というとそのままだが、作品名(シリーズ)である。)でスキージ(squeegee:平ヘラ)が使用され始めたのが1980年代だと知ったことから、名坂有子が具体美術協会で活動しだした1960年代にスキージを使用した同心円状の作品を多く制作していたことに驚いた。ただ、両者の間には制作手段(道具)がたまたま似ていただけでその意味合いは大きく異なるだろう。リヒターの「かたちを成してはまた別様に転じる」手法は「20世紀後半のモダニズム絵画が志向したような絵画の自律性とは異なり、メディウムとしての絵具が自律へと解放されている」からだ(「「絵画は役に立つのです」−リヒター作品における「もの」と「ビルト」、「複数性」と「真実性」をめぐって」鈴木俊晴『ゲルハルト・リヒター展図録』2022)。

「絵画の自律性」とは何か。筆者の拙い理解で言うと、絵画はそれ自体で完成形であり、他の要素に左右されない、という考え方と言っていいだろう。ここでいう「他の要素」は、典型的には明確な政治的主張や美術界にとどまらない既存の体制に対する反抗といったものが考えつくだろう。それは、戦争中自由な表現が圧殺され、体制が認める表現しか選択しえなかった世代が、戦後、民主主義の世の中となり、圧殺の反動として開花させた表現でもあった。大正期に花開いた近代日本美術の中の前衛は、徐々に体制側に組み込まれ、ある者は従軍画家のように戦意高揚の片棒を担ぎ、ある者は積極的に美術界の国家主義化、天皇制軍国主義発意の頭目となった。そして、1941年にシュルレアリストの福沢一郎と瀧口修造が治安維持法違反で検挙されるに及んで、日本の前衛美術は終焉した。

 戦後、前衛をはじめ画家らは活動を再開し、戦争下の鬱屈を表現したり、明るい希望を画布に託そうとした。そういった中で共産党など左翼陣営の復興に合わせて、労働運動・農民運動をサポートする絵画(ルポルタージュ絵画)や、より自由な表現を求めてアンデパンダン展への「過激な」出品なども相まった。これらはいずれも「他の要素」を背景とした、美術作品で自己の主張を背景にした表現活動と言えるだろう。

そういった時代背景の中で、占領下も終わり、戦後10年近く経った時、「(絵画の)自律性」を高らかに宣言した美術運動が始まった。1954年発足の、政治も美術もあらゆる近代的価値の中心地である東京ではなく、関西、それも大阪ではない地芦屋と言う街で勃興した「具体美術協会」(「具体」)である。指導者・吉原治良の宣言は言う。「具体美術は物質を変貌しない。具体美術は物質に生命を与えるものだ。具体美術は物質を偽らない。具体美術に於ては人間精神と物質が対立したまま、握手している。」(「具体美術宣言」『芸術新潮』1956年12月号)。折りからのアメリカ抽象表現主義の理論的バックボーンともなった、絵画における歴史的文脈を拭い去ろうとしたフォーマリズムを、さらに戦後・解放後の日本の美術事情を加えたメディウムの力、表現そのものの力を強調する物言いと言えるであろう。

本展では、大阪中之島美術館で具体の個々のメンバーの表現の独立した挑戦を「分化」で、国立国際美術館では、その個々のメンバーが団体として「統合」する様を読み解く。具体の作品がそれぞれに散らばっていたものを集合、系統立てて知ることができるのも2館を跨いだ本展の特徴だ。戦後、関西が産んだ最大の美術運動であるのに、美術界以外の一般鑑賞者にはとっつきにくい感もあった具体の総合展。心して見ていきたい。(すべて未知の世界へ  -GUTAI 分化と統合 展は、1月9日まで)

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視る者のワクワク感を刺激する   「化学反応実験」松井桂三展

2022-04-27 | 美術

百貨店の催し物も、コンサートや舞台の案内、美術展覧会のお知らせまで、頼みもしないのに(登録しているからだが)どんどんメールやSNSで送られてくる時代に紙の宣伝媒体は不要か?いや、意味がないものだろうか?そんなことは決してないと思う。

百貨店の催し物は、大呉服市だろうが北海道物産展だろうが自分に全く関係なさそうなものであっても、電車の吊り広告はしげしげと読んでしまうし、美術展はいまだに館のチラシコーナーを漁っている。それくらいポスターやチラシに描かれたデザインが自分にとって大きな訴求力を持っていると感じる。

松井桂三は、米アップルのMacintoshのパッケージデザインやヒロココシノのアートディレクションで知られる。松井の仕事は、ポスターはもちろん、プロダクトデザインや大阪芸術大学での後進の育成など多岐にわたる。しかし、広島に原爆が投下された翌年に生を受けた松井はその点については深くこだわっていたようだ。ニューヨーク近代美術館に永久保存となった「惨劇への発令」(1980)は、アメリカ国立公文書館所蔵の「原爆投下指令書」がモチーフとなっている。松井の反核(兵器)の姿勢は、他の作品にもうかがわれる。しかし、膨大な量の仕事の中でそれはほんの一部で、見るものを圧倒する多彩さに驚く方が優ってしまう。同時に、松井が手がけた政府広報ロゴは有名、定着しているし、また、高松宮が関わる行事のポスターも手がけるなど、政治的には「色なし」と言っていいだろう。

商業デザインを志す者が、(たとえ後に「ブラック企業」などと批判されることも含めて)無節操であることは重要かつ必然で、政府が決めた意匠しか許されなかったり、広告主がデザイナーの発想に大きく介入するような社会では自由なデザインといったものは成り立たないだろう。また、デザインに限らないが、視覚表現の多くは、現状への皮肉や問いかけ、違った角度からの追求によって、視る者に新たな観点や論争を生み出す効用もある。そしてそのオルターナティブな姿勢を担保するのが、さまざまなデザイン、ポスター、プロダクト、WEB広告などを問わず、より斬新な切り口を提示する力量だろう。

松井は、大学を中退後、フリーの仕事をしながら独立するまで高島屋宣伝部に席を置いた。関西の優れたデザイナーの先達には百貨店に勤めた者も多い。住友銀行のポスターやメンソレータムのデザインで知られる今武七郎は、戦前の神戸大丸、画家としての知名度の方がおそらく高い菅井汲は阪急電鉄、泉茂は大阪大丸にいた。百貨店業界が厳しい現在、各店舗ごとにデザイナーを雇っているとは思えないが、百貨店広告はもちろんのこと、見てすぐわかるポスターやパッケージデザインといった類のものは、購買意欲を高めさせ、たとえ買わなくても中身についてもっと知りたいと思わせるワクワク感に溢れている。

ずいぶん昔、職場の労働組合新聞の編集をしていた頃、アメリカがイラク戦争を始めた際には、通常記事を全部ぶっ飛ばして、一面を「NO WAR」だけとしたことがある。組合の新聞なんてほとんどの人が読まないという冷めと編集権がいい加減なためにできたごくごく個人的な「驕り」ではあった。あのデザインが優れていたとは決して思わない。けれど、政治性ももちろん含めて、描いた先を想像、期待させるデザインはやっぱり大切だと考える。

松井桂三展の題は「化学反応実験」。実験は時に素晴らしい新構成物を生み出すかもしれないし、爆発して周りを雲散霧消させるかもしれない。だがデザイン提供におけるワクワク感もそういった反応を楽しみにしているのだろう。(松井桂三展は宝塚市文化芸術センター 5月14日まで)

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ジェンダー規範の問題点は? 「三岸好太郎・節子展」

2021-12-01 | 美術

若くして亡くなった三岸好太郎は天才と呼ばれ、妻の三岸節子より圧倒的に知名度が高い。しかし、好太郎がわずか10数年稼働したのに比べて、94歳で逝去した節子の画業はとてつもなく長い。しかし、好太郎が戦前のシュルレアリスム絵画の一端をになったとの評価も含めて、好太郎の画業の変転に光を当たられることが多く、節子は「好太郎の妻にして画家」と紹介されることが多かったのではないか。しかし節子は「好太郎の妻にして画家」には収まらないし、少なくとも本展ではそうではない。しかし、ではなぜ「三岸好太郎・節子展」であるのか。

展覧会は少なくとも好太郎の画業に比して、節子のそれを軽んじているようにも見えないし、そして好太郎死後の節子の画業にもスポットを当てているのでバランスを取っているようにも見える。そうであるなら展覧会名の夫と、妻が付属物との表記がますます安易であったとしか思えない。「三岸好太郎・三岸節子展」であるならまだしも、画業の長さと没年齢を考えるならむしろ、「三岸節子・三岸好太郎展」ではなかったのかと。

しかし、好太郎が「天才」と呼ばれたほど時代の先端を切り取るほどの作品を発表したのは事実であるし、節子は戦前、それほどの業績を残していないのも確かである。では、節子の画業を好太郎のそれと比較して、正当に評価することは可能なのであろうか。

好太郎の画業は短かったが、大正期新興美術運動と並走し、西洋由来のさまざまな表現主義の息吹を捉え、取り入れ、作品に昇華した。有名な好太郎の「蝶と貝」をモチーフにしたシュルレアリスム作品は晩年の短い時期であって、それまでの変転こそが好太郎の真骨頂であることに見開かさせられることだろう。それほどまでに1920年代、西欧の「前衛」美術を取り入れようと格闘した三岸好太郎らの世代は、フォービズムもキュビスムも、挑戦できるものであればなんでも取り入れようとしたのである。日本で最も早い段階で抽象画に挑戦し、フォービズムもキュビスムをも体現したとされる萬鐵五郎は、その後南画に傾倒しているし、20年代にシュルレアリスムなど前衛的な作品を発表した画家たちは、戦時の国家体制という時代状況もあり、そのスタイルを変えていった。そういう意味では、美術の世界にまで国家主義が完徹する時代の前に亡くなった好太郎は、むしろ幸せであったのかもしれない。しかし、その後衛には同じ画家でありながら家事、育児に追われ、画家としての業績を重ねることもできずに奔放な好太郎の尻拭いに追われた節子の存在があった。同展では触れられていなかったが、同展の表題「貝殻旅行」、好太郎と節子が好太郎の死の直前、珍しく「睦まじく」旅行した際に、好太郎だけ名古屋に留まり、節子だけ先に東京に帰したのは、好太郎が名古屋の愛人の元に寄るためであった。その事実こそが、好太郎と節子の関係性を物語るし、好太郎がその愛人の元で客死したことを知るにつけ、節子の感情はいかばかりであったろうか、と考えずにいられない。

画家同士、夫婦である例は珍しくもないし、まさに「同志」であったからこそ紡がれた豊かな関係性もあるだろう。体調不全に悩まされた具体美術協会にも籍を置いた田中敦子は、同士で夫の金山明の支えがあったが、おそらく、金山より田中の画業の方が有名である。美術の中身の話ではなく、ジェンダーの話になってしまったが、美術の世界のジェンダー規範は、問うても問いきれていない問題でもあると思う。(「貝殻旅行 三岸好太郎・節子展」は神戸市立小磯記念美術館 2022年2月13日まで)

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大阪で開催   やっと見られた「表現の不自由・その後」展

2021-07-17 | 美術

やっと見られた。「表現の不自由・その後」展。2019年のあいち・トリエンナーレでは行こうと予定した日を待たずに中止。あい・トリは閉展間際になり再開されたので、急ぎ出かけたが不自由展はすごい倍率の抽選でもちろんハズレ。もともと他の用事が入りそうだったので日を合わせてこの7月最初に入れた名古屋行き。名古屋展に足を伸ばそうとしていたら爆竹騒ぎで会場が閉鎖。どこまで右翼、レイシストは私に不自由展を見せたくないのか、と恨んだが同じように感じた人も少なくないだろう。大阪展も会場が街宣車や抗議電話などでビビってしまい「入館者の安全を確保できない」と会場利用を止めてきたが、開催側が裁判所に開催できる会場使用の仮処分を申し立て、最高裁まで行って「利用中止は(具体的危険性がないのに)まかりならん」と使用を勝ち取ったのは既報のとおり。

確かに会場のエル・おおさかの前には街宣車がノロノロ行き来し、街宣車や路上でがなり立てている人が数名。右翼も人材不足か、迫力不足? 時間帯によるが、エル・おおさかの周辺に一番人数が多かったのが警察官で、次に主催者の支援者、そして右翼。ここに「明白かつ現在の危険」(大阪地裁決定)があるとは思えないし、実際ないとして裁判所は利用中止を認めなかった。そもそも表現の自由に対する制約は憲法上想定されていないし、その範囲を確定することを考えるとするなら、すなわち表現の自由を脅かすことになるのは明らかだ。どのような表現さえあっていい。美術家の会田誠の作品が物議を醸したが、それも「見たくない自由」を保障するソーニングの問題で解決すべきだろう。

作品は、あい・トリよりかなり絞られていて、「従軍慰安婦」を象徴するとされる「平和の少女像」(キム・ウンソン、キム・ソギョン作)と昭和天皇の写真を含む支持体が燃やされる動画の「遠近を抱えてpartⅡ」(大浦信行作)はあったが、Chim↑Pomや、中垣克久の作品がなかった。この「少女像」と動画の2作品を、右翼が公開することを主に攻撃しているのだろうが、なぜ攻撃するのか分からないくらい穏当な表現と思える。「少女像」は従軍慰安婦を象徴していることから、歴史修正主義者としては絶対認められない背景があり、大浦動画については天皇の写真が燃やされることを我慢ならないとしているのだろう。しかし、「少女像」が従軍慰安婦を象徴しているとの理由は、従軍慰安婦とはどう定義できるかという歴史学的蓄積があり(吉見義明さんらの功績をあげるまでもなく、「従軍」だったのは明らか)、また、大浦動画については「天皇の写真が映り込んでいる紙」は「御真影」ではなく(右翼も「御真影」が下賜されるものだけを指すことを勉強してほしい)、いずれの批判、攻撃も当を得ていない。主催者側が「まず見てから言ってほしい」というのは、見る前から批判、攻撃ありきの人には届かないことが明白になっただけである。

ただ、街宣車の人たちが不自由展を盛んに「反日」呼ばわりするが、この国ではオリンピック開催に反対した人は反日だと、8年近く在籍した前首相が放言する。本当の「反日」が規定できるか、存在するのか分からない。しかし、国家転覆者ではない不自由展支持者や政策に反対する人に向ける言葉としてしては、あまりにも真正「反日」に失礼だと思うのだが、レッテル貼りというのはかくも安易で、実態とは関係ないという点では自戒したい。

(「梅雨空に「九条守れ」の女性デモ」の俳句)

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現代アートを殺さないために ソフトな恐怖政治と表現の自由

2021-04-04 | 美術

2019年の「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展・その後」が開幕後3日で展示中止に追い込まれた事件は衝撃だった。開催を求める署名や、中止の間閉ざされた扉にメッセージを貼り付けるなど本当にささやかだが運動にも参加した。そして大村知事の姿勢と関係者の尽力で再開された展示にも赴いたが残念ながら抽選に漏れ、見ることができなかった。この中止展示=展示を許さない意図、の構図はとても単純だった。従軍慰安婦を象徴するとされる「平和の少女像」や昭和天皇の写真を燃やす場面があるビデオ映像を快く思わない層が実行委員会や主催者の愛知県に大量の電話を寄せ、中には脅迫もあった。そしてそれを煽るかのような公人の発言(河村たかし名古屋市長、松井一郎大阪市長ら)の上に、文化庁からの補助金の不交付を後から決定するなど、表現の自由に対する政府の横槍、妨害意図が明らかだったこと、などである。そしてこれらの公の立場にある者たちの民主主義に対する考えが完全に誤っていることである。

しかし、本書を紐解けば、現代アートに対する公の妨害、牽制そして検閲などはあいトリに始まったことではなく、着々と進行しているがよくわかる。それはアメリカではトランピズム=反知性主義による、アート=エリートのお高く止まったエスタブリッシュメントへの攻撃に現在現れていて、より表現世界を狭めている。それが、「忖度」によって自らの道を狭めているのが日本の美術館、キュレーションの現実だ。「(あいトリの「不自由展」、作家、作品への圧力は)多数派とアートの専門家の無知あるいは事なかれ主義による表現の自由の圧殺である」(362頁)。

アートプロデューサーであり、キュレーションのプロである著者の姿勢、提言は明確だ。「アートとは何かをなるべく多くの人が考えるように仕向け、毒にも薬にもなるアートの性質を知らしめ、毒でさえ我々の世界を豊かにすることがあるという事実を共有するのである」(370頁)。そのためにはアーティストとアートを守りたいと思う者は、さまざまになされる公と、そういった公をたった一つの方向性に向かわせようとする者たちの攻撃に立ち向かうための理論武装と横の繋がりが重要と説くのである。この攻撃にはあいトリに見られたような補助金不交付という経済的に「干す」やり方もあれば、東京都現代美術館や広島市現代美術館であったような規制・検閲もある。さらには、その攻撃の対象が、性や暴力などをめぐるむき出しの対・表現の自由の時もあれば、この国にはそれよりもある意味超えがたい菊のタブーが存在する。

そして、公に一切頼らないとフリーにアンデパンダンとしてするやり方もあるが、これでは多様な人の多様な結びつきを狭めてしまうという意味で、アングラ化するだけという問題も指摘する。さらに著者は、ペストの時代から現在のコロナ・パンデミックの時代まで通覧し、アートにおけるウイルスとそれがもたらす分断、すなわち差別が不可分であったことも解き明かす。それは「接続と切断、再接続と再切断を繰り返せば、悪玉病原体は消え去るかもしれない。そして、アートは世界に的確に取り込まれ、ともに進化するかもしれない」(371頁)。しかし、日本学術会議の任命拒否問題にも明らかなように現実はそれとは逆の方向に進んでいる。だから境界を広げるためにあるアートは、世界を豊かにするのだからアート自らが境界を築いたり、どのような境界が持ち込まれるのか普段に警戒しなければならない。世界を豊かにするという時の「豊か」は政治的に正しいとは限らないと釘をさす。上述のように毒でさえ豊かの範疇に入りうる。

「世界は多様であり、あらゆるものが芸術表現の対象になりうるし、なっていい。制約となるのは物理法則と法律だけであり、主題や行為にタブーはない。」「(公的助成が絡むシーンでは)必要な場合に、それを観たくない者が観なくてすむように、適切なゾーニングを施すことだけだ。」(377頁)「本来は「個」の集合体である「公」は、「個」の少数派を守り、アートを守らなければならない。」(378頁)明快である。(小崎哲哉著 河出書房新社)

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花森安治のデザインとその背景に出会う  「花森安治 『暮らしの手帖』の絵と神戸」展

2021-01-19 | 美術

新型コロナウイルス感染症禍の下、巣篭もり需要で生活調度品、調理器具や家電の売れ行きが好調という。暮らしに潤いをもたらす工夫は、モノに限らないが、選ぶなら使いやすい、その生活スタイルにフィットする、そして長く使用できるなどが重要だろう。現在、日本中、いや世界中あまねく目指せ?と鼓舞されているSDGs(持続可能な開発目標)を先取りしたような地球に優しく、個々の豊かさを満喫できる暮らしのあり方だ。それを戦後間もない頃から提唱していたのが『暮らしの手帖』(1〜26号、1954年12月1号までは『美しい暮らしの手帖』)である。

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」で唐沢寿明演じた頑固な編集者は花森がモデルだが、そこで描かれたのは、戦争に協力した自己の過去に苛まれ、大橋鎭子(暮らしの手帖社社長。「とと姉ちゃん」では高畑充希演じる小橋常子)の勧誘になかなか首を縦に振らない姿であった。本展覧会では、花森の戦争への関わり、思いに焦点を当てたものではないので、その点はすぐには見えにくい。しかし、花森が徹底的にこだわった毎号の表紙、幅広く呼び込んだ随筆の数々、そして暮らしを、平穏な日常を彩る家事の道具や衣装など、平和な日々であるからこそ得られる反戦の証ではなかったか。

花森が死の直前まで描いた表紙のモダンさはどうだ。その丁寧な筆はやがてクレヨン、版画など技法を変え、手法を変えて継続していくが、一貫して時代に沿い、時代を先取りするデザイン感覚に溢れている。描かれる街や家具・調度品、女性らはそこにある、いるだけで安心し、そして次の表情を期待させる。同時に、決して媚びない。さすがに幼少の頃から絵の才に恵まれ、学生時代には新聞のレイアウトを担当したからであろう。また時代的に阪神間モダニズムを享受した世代であることも関係あるかもしれない。花森の描く表紙にはフォービズム、キュビスム、構成主義、シュルレアリスムなどヨーロッパ、そして日本に輸入された前衛絵画の要素が全てある。もちろんそれでいて具象からは離れない。デザインが絵画と違うのは、こういった絵画の歴史的変遷を取り入れつつ、それらのいいとこ取りだけしていても、理解できない前衛とは見なされないことだ。そしてそれを巧みに行き来するだけの技術と発想が花森にはあった。

随筆を寄せたメンバーも豪華で心憎い人選だ。小倉遊亀や猪熊弦一郎、津田青楓といった画家、工芸家の芹澤銈介、民俗学者の森口多里、山びこ学校の無着成恭、作家の犬養道子など。そして平塚らいてふと山川菊栄らの対談まである。しかし出色は、「とと姉ちゃん」でも描かれた家電を中心とする生活用品の綿密な商品テストと戦争中の暮らしの記録であろう。平和な暮らしは、行き過ぎた大量消費と公害を生み出す利益第一主義の製品生産に警鐘を鳴らす前者と、食べるものにも事欠き、精神主義によって全ての解決を目指す不合理主義の極致である後者を検証、徹底的に見つめ直すことによって担保される。そうであるためには消費者、生活者、権力を持たない者は愚かであってはならない。花森が描き続け、保とうとした「暮らし」には先人の知恵と同時代に生きる人の智慧が必要と訴えたのではなかったか。

戦後間もなくスカートを履き、長髪で登場した花森の姿はさぞかしぶっ飛んで見えたことだろう。しかし、イクメンという言葉が生まれる半世紀以上前に花森はジェンダー解体も見据えて奇行に励んだのかもしれない。(『花森安治 『暮らしの手帖』の絵と神戸』展は神戸ゆかりの美術館にて3月14日まで)

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ついに完結 日本いや世界で一番リーメンシュナイダーを撮った『完・祈りの彫刻』

2020-12-21 | 美術

私のリーメンシュナイダー巡礼の師匠福田緑さんが4冊目を上梓し、完結した。今回は3冊目に続いて同時代の作家も多く取り上げている。もちろん知らない作家ばかりだ。しかし、リーメンシュナイダーを見出した福田さんの慧眼は同時代の作家にも及んだことがわかる。そう、福田さんのレンズから逃れることはできないのだ。そしてそれらの多くは、教会など宗教施設に収蔵され、今も祈りの対象となっていたりする。私も訪れたことのあるドイツはクレークリンゲンのヘルゴット教会に座する「マリア祭壇」は圧巻であった。

今号ではまずリーメンシュナイダーの作品を「聖母の手」「息づく手」といった各々の作品の魅力的なパーツから紹介、分類しているところから始まるのが面白い。これは勝手な想像だが、2019年11月に開催された「祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く」展(ギャラリー古藤)https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/352a04fba9248de9ae20e0f7d1f13c0f)で永田浩三さんが、リーメンシュナイダーは手(の彫刻)が素晴らしい旨話されたことと関係があるのではないか。そういえば、私もリーメンシュナイダー・ファンの端くれとして彼の作品は眼や顎など顔を表情から遠くから見つけることができるが、手の出来栄えも見極める重要なファクターだと思うからだ。もちろん、私には見極められないが。ところで、聖母子像では彫刻であろうと絵画であろうと幼子イエスはマリアの左側(向かって右側)に頭部がきて、マリアを見上げるように抱かれているのがお決まりだが(もちろん例外はある。例えばリービークハウスの聖母子像(9頁〜))、この体勢ではマリアから見ると左下に視線を向けていることになる。この理由を西洋美術がご専門の先生に尋ねたことがある。先生は例外もあるとした上で、キリスト教絵画では構図的に、右側が重要あるいは聖性が高く描かれることが多く(例えば、ミケランジェロの《最後の審判》では右側に救済された人、左側は地獄に堕ちる人)、そういった意味もあるかもしれないが、ルネサンス期より以前、ビザンチン美術では正面にイエスを座らせている構図が多いと紹介された。私見では遠近法が確立された初期ルネサンス以降、絵画ではもちろんのこと、彫刻の世界ではもっと以前から写実的な表現は格段に進歩していたであろう。そして抜きん出た技量の持ち主であるリーメンシュナイダーは、どのような構図にすればその聖性が伝えられるか考え尽くしたに違いない。そしてそれはマリアとイエスとの位置のみならず、全体としての構図が祈る者をしていかにドラマチックに迫ってくるかを表現したと思える。

リーメンシュナイダーを「抜きん出た」と記したが、今回紹介されている同時代の作家も味がある。例えばミヒェル・エーアハルトの聖母子像(バイエルン国立博物館 139頁〜)やペーター・フィッシャー(父)の「いわゆる「枝を折る人」」(同 174頁〜)など。あるいはエラスムス・グラッサーの「モーリス・ダンスの踊り手」(ミュンヘン市立博物館 153頁〜)は楽しい。しかし、これらの作家の作品のいずれもリーメンシュナイダーの峻厳な表情彫刻にはかなわないように思える。ただ、リーメンシュナイダーの凄さを実感できるのは、ここで同時代の作家たちを多く取り上げ、細かに紹介されているからできることで、自分の不勉強を棚にあげてなんだが、多くは名前も覚えられず見過ごされてきた可能性も高い。

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)禍のため、福田さんは今年予定されていた第二回目の写真展を開催できなかったという。リーメンシュナイダーのこととご自分の撮影作品には妥協しない福田さんのことゆえ、きっと開催を成し遂げられることと思う。私自身も行けるどうなるか分からないが、とても楽しみだ。

(『完・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと同時代の作家たち』丸善プラネット 2020年11月)

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建築の醍醐味を満喫 「建築と社会の年代記」「インポッシブル・アーキテクチャー」展

2020-02-06 | 美術

時期を同じくして対照的な展覧会が開催された。「建築と社会の年代記」展と「IMPOSSIBLEARCHITECTURE」展である。「建築」展は竹中工務店創立400年(2016年に開催された展覧会)の再構成、インポッシブル展は、実現不可能あるいは可能であったが採用されなかったり、事情で放棄されたりした計画を図面や模型、関連資料などで紹介する大展望である。

織田家の普請奉行であった竹中藤兵衛正高の工匠時代を始祖とし、宮大工として技術を磨き、近代に入ると早々に都市のコンクリート建築などを手がけた竹中工務店は言わば実現可能な作品だけを遺した。一方、その時代の建築土木技術では不可能、あるいは、実現化する具体的方法論を持っていなかったり、残念ながら実現に至らなかった幻、建築家をはじめとするアーティストの夢を揃えたのがインポッシブルである。しかし、宮大工に見られるように木造建築の粋を極めた竹中と、計画段階から鉄骨をはじめとして様々な素材が用意される近代建築とを同列には扱えない。ただ、建築は時の思想や哲学、産業構造、それがもたらす影響や施主の意図など、建物一つひとつを取り巻く環境と無縁ではないという意味では同じだろう。

竹中は言わば、近世に培った宮大工の精密さを近代化に伴うより規模の大きい複雑な構造に進化させ、また成功してきた例であり、それが東京を中心とする現在でいう大手ゼネコン(大林、大成は明治期の土木事業から。鹿島、清水は竹中と同じ大工棟梁)で早くから関西・神戸の地で着実に成長したのは竹中だけである。それもそのはず関西には竹中施工にかかる有名建築が圧倒的に多い。大阪の堂島ビルヂング(躯体は大正当時のまま)、朝日ビルディングや三井銀行神戸支店(阪神・淡路大震災で被災。取り壊し。)、宝塚大劇場など。そして高度経済成長期を経て、国立劇場、大阪マーチャンダイズ・マート、大阪万博のパビリオン、代官山ヒルサイドテラス、そして21世紀に入り、東京ドームやあべのハルカスなど度肝を抜くような最新鋭の技術を駆使して成長(膨張?)を続ける。1企業の成長史はややもすると手前味噌な成功宣伝物語に陥りがちで、本展も全くそれを感じないということではないが、近現代の建築(技術)発展史と見れば大いに楽しめるはずだ。ドームの屋根を葺く(というのだろうか?正確には)様や、限られた敷地での工法など飽きないビデオも多く、現在は「環境」との親和性が求められている時代であるのもよく分かる。建築物は美術館に持ってくるわけにはいかないので、写真や図面、模型になるが実現した分だけ、実際の建物を見に行きたくなる。

一方、アーティストのイマジネーションを最大限に見せつけ、実現していたらどれほど圧倒されたであろう作品群がインポッシブルである。マレーヴィチのシュプレマティズム素描がオープニングであるのは象徴的である。20世紀初頭の構成主義は建築との親和性が高いどころか、バウハウスは建築家のグロピウスを校長に工芸学校としてスタートした。しかし圧倒されるのはウラジミール・タトリンの「第3インターナショナル記念塔」である。高さ400メートルを構想された鉄骨の怪物はロシア革命とロシア・アヴァンギャルドの象徴的プロジェクトであって、事実、完成を目指していたようだが、財政的・技術的に不可能であったようだ。しかし「タトリン・タワー」として紹介されることも多い同作の模型を見るにつけ完成すればどれほどの異形(偉業)、異様であったかも想像を超えている。

現代の作品群はたまたまコンペで採用されなかったインポッシブルも多いが、採用されたのに「安倍首相の「英断」により、白紙撤回になった」(「建築の可能性と不可能生のあいだ」五十嵐太郎は「それは多くの反対の声を押し切り、国会で安保法案の強行採決が行われた直後だった」とも記す。)ザハ・ハディド・アーキテクツ+設計JVの《新国立競技場》こそ造形的には完成して欲しかった作品ではある。そもそも自然環境や景観に著しい影響を及ぼす巨大建築こそ必要だったのか、という観点はある。しかし建築、建設といったものは、環境保全とのかね合いや土建国家のこの国で必須性を論じるのはとても難しいことだ。であるからザハ・ハディドの急死を受けて磯崎新が「〈建築〉が暗殺された。……悲報を聞いて、私は憤っている。……あらたに戦争を準備しているこの国の政府は、ザハ・ハディドのイメージを五輪誘致の切り札に利用しながら、プロジェクトの制御に失敗し、巧妙に操作された世論の排外主義に頼んで廃案にしてしまった。」(五十嵐同上)と述懐する時、建築家の矜持と怒りの両方を感じるのである。

アイロニーと諧謔に満ち、時に物議をかもす作品を発表する会田誠の「東京都庁はこうだった方が良かったのでは?の図」も楽しい。建築が成功するには様々な前提–資金、周囲を含む環境、技術–をクリアしないと「完成」には至らない。その間をぬって、新たな挑戦や提案を現実化してポシブルになる。しかし数多のインポッシブルを踏まえたところに現実があるのだ。(「建築と社会の年代記 竹中工務店400年の歩み」神戸市立博物館 3/1まで。「IMPOSSIBLEARCHITECTURE 建築家たちの夢」国立国際美術館 3/15まで)

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