失礼ながら髙橋耕平さんを知らなかった。現代美術シーンの「若手」作家は数多いるが、髙橋さんのコンセプト「記憶の継承と忘却や断絶」「個人と個人、個人と集団との間に生じる齟齬や共感」(「遠隔同化 二人の耕平」展リーフレットより)は、何かと黒か白か、こちら側かあちら側かと二項対立したがる風潮に疑問符を投げかけるアート本来の役割、それはたぶん現実の政治・社会状況に異なった視点からストップをかける役割を持っていると思う。
2016年4月に施行された障害者差別解消法では、民間企業に対し、障害者にたいする「合理的な配慮」を欠いたと申し出のあった場合の主務官庁への報告義務と、その報告義務を怠ったたり、虚偽の報告をなした場合の罰則を定める。しかし、実効性に疑問があるとの批判もある。問題は実は「合理的な配慮」という国家的線引きでない。政府広報は「合理的配慮」の例として、目の見えない人に対する点字書類の用意や、車いす利用者に対するフラットな通路などをあげる。それらも大切だが、この国家的線引きは、これを用意すればいいのでしょうという健常者側の一般的な基準と、その基準をどんどん厳しくしてしまう可能性を包含している。どんどん厳しくしてしまうというのは、主に、企業に準じて官庁や自治体など公共機関では、文句が出る前により「配慮」していますよと、全体的に自由度の低い間口を用意することにつながりかねないからだ。
実は、上記おもに身体的障害を対象にしたバリアフリーへの取り組みとその「配慮」は、思想的、精神的な自由度を狭める発想につながりかねない。というのは、個人と個人の段階で解決できた取り組みを「配慮」の名のもとに画一化するからである。例えば、障害者と一言でくくられがちであるが、これができる、これはできない、これは介助者がここまで関わる、関わらないが個々別々であるのに、エレベーターがあるからいいでしょ、スロープがあるから配慮しているでしょうとなりかねないからである。そこに個々の「個人」の姿はない。
「障害者」と一括りにされがちな一人ひとりが何を考え、何を望むのかについて、社会の側が丹念に聞き取ってきたとは言えない。それは「健常者」がそうではなかったから、より無視されることの多い「障害者」故であるかもしれない。そして、何がベストなのかを問う過程にはベターやワースに対する回避があるべきだろう。
阪神淡路大震災という未曽有の災害で、一人で生きていくのが困難な「障害者」があの時どう過ごし、どう生き抜いてきたか。その前提として、それまでどう生活してきたか、その後どう過ごしてきたか。ドラスティックな経験をした人もいるだろうが、多くの人はそうではない。そして、「健常者」であっても一人で生きていくことはできない。
髙橋さんは、本展で震災と震災後の「障害者」がどう生きているかを震災とは関係なく、言わば日常を追うドキュメンタリーの手法で、描いている。例えば西宮市の車いすユーザー鍛冶克哉さんは、とてもアクティブで、神宮球場や海外にも出かけている。それは「障害者がそこまで…」ではなく、「障害者」と「健常者」と間の壁を高く設けたからの嘆息に過ぎない。そして鍛冶さんは震災のときまだ小学生だった。
2014年9月に東京で開催された「反戦 ― 来るべき戦争に抗うために」展にも髙橋さんは出展されている(主催は沖縄在住の美術評論家土屋誠一さん)。同展は、同年7月に安保法制を閣議決定した政権の横暴を指弾するアーティストの表現活動である。それはいいか悪いか以前に議論をすっ飛ばした逡巡を拒否する横暴に対する異議申し立てであると、少なくとも、筆者は感じている。
髙橋さんの提示を楽しく、そして、少しだけ腕を組んでは考えなおしている。