とても残念だったのは、「表現の不自由・その後」展の展示中止に抗議して、それ以外の作家が一部あるいは全部の作品展示を中止してしまったことだ。これによって見る者の楽しみを奪ってしまう。表現の自由圧殺としての今回の事例がつくづく罪深いもので、言論市場を狭めてしまったことが実感される。
とは言っても、まだ見られる作品があるだけマシかもしれない。ウンゴ・ロンディノーネのカラフルなピエロが無表情に!床に這い、寝転がり、座り込む怠惰な様は、人を楽しませるはずのピエロが、実は個々の人間の嘘臭さや、欺瞞を描いているようで面白い(国際現代美術展・愛知県芸術文化センター)。Dividual inc.の人生の最後の10分で書き遺したいことをテキストで表していく様は、それがフィクショナルなものであったとしても、「遺したい」相手と「伝えたい」思いに溢れていて、釘付けにさせる(同)。台湾の袁廣鳴(ユェン・グァンミン)の映像は、人も見かけず、車も全く動いていない都市の昼間を上空からゆっくり撮り続けるものだ。「防空演習」という毎年春に行われる30分間市民は一切野外に出てはいけないもう40年続く、台湾市民にとってはありふれた「日常」を見せつける。しかし、鼓動していない街とはこんなにも異常に見えるものかと、大国と臨戦態勢にもある割れた国の姿をまざまざと見せつける(同)。管俊一の幾何学的な線画が規則的に動いて最終的なカタチはこうなるのだろうなと思わせるところで突然途切れるデジタル作品だ。結果とはどうなるか分からないものだと、分かっていてもだまされやすい、思い込みの深さを自覚してしまう(同)。
出展中止作家の中には、見られたら壮観だったろうなと思うのも少なくない。モニカ・メイヤーは現実世界にはびこるジェンダーギャップやセクシャリティをめぐる差別言説などを問うフェミニスト・アートのパイオニア。声なき声の一つひとつを取り上げ、会場いっぱいに展示する予定であったのに封印。無数のメモ書きを吊り下げるはずだった空の展示施設だけが並ぶ寒空しい風景となってしまっている(国際現代美術展・名古屋市美術館)。レニエール・レイ・ノボは自身のインスタレーション作品(平面)を全て「表現の不自由・その後」展中止にまつわる新聞記事で覆い隠し、全く見えないようにして抗議の意思を明らかにしている。キューバ出身、鋭い批評精神で現実世界・政治を批判的に展示してきたというノボは許せなかったのは明らかだ(国際現代美術展・豊田市美術館)。しかし見ることができた作品には圧巻なものも多い。キャンディス・ブレイツの作品はセクシャル・マイノリティ故に祖国を追われ、難民として生きる人のインタビューを通して語りの大切さを見せつける。実は、インタビューに答えているのは俳優で、実際の難民から聞き取った話(これも映像として流されている)から編み出したインスタレーション映像(愛知)。
概ね、現実・社会批評的な映像やインスタレーションは抗議の意思を示して展示を拒み、絵画や造形物の作家はそのまま展示を続けているように見えた。しかし、文谷有佳里のように抗議の意思表示の上に、なぜ展示をし続けるかの理由を明らかにした作家もいる(愛知)。言わば歯抜けのようにポツポツと展示中止がされている中であっても、全体として面白い、興味深く考えさせられる作品に満ちているように見えた。これがすべて揃えばどんなに嬉しい展覧会となったかと思うと「表現の不自由・その後」展中止の影響は返す返す残念だ。作家らによる展示続行の仮処分申請の動きもある。愛知県知事や津田大介監督が言うようにシンポジウムを開くことでお茶を濁してはならない。展示再開こそ本道だ。10月14日までにもし再開されたらフリーパスを持ってまた行くつもりでいる。(「表現の不自由展・その後」の閉じられた会場正面に貼られた意見タグなど)