kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

あいちトリエンナーレ 「現在」と「現実」を視る 2

2019-09-19 | 美術

とても残念だったのは、「表現の不自由・その後」展の展示中止に抗議して、それ以外の作家が一部あるいは全部の作品展示を中止してしまったことだ。これによって見る者の楽しみを奪ってしまう。表現の自由圧殺としての今回の事例がつくづく罪深いもので、言論市場を狭めてしまったことが実感される。

とは言っても、まだ見られる作品があるだけマシかもしれない。ウンゴ・ロンディノーネのカラフルなピエロが無表情に!床に這い、寝転がり、座り込む怠惰な様は、人を楽しませるはずのピエロが、実は個々の人間の嘘臭さや、欺瞞を描いているようで面白い(国際現代美術展・愛知県芸術文化センター)。Dividual inc.の人生の最後の10分で書き遺したいことをテキストで表していく様は、それがフィクショナルなものであったとしても、「遺したい」相手と「伝えたい」思いに溢れていて、釘付けにさせる(同)。台湾の袁廣鳴(ユェン・グァンミン)の映像は、人も見かけず、車も全く動いていない都市の昼間を上空からゆっくり撮り続けるものだ。「防空演習」という毎年春に行われる30分間市民は一切野外に出てはいけないもう40年続く、台湾市民にとってはありふれた「日常」を見せつける。しかし、鼓動していない街とはこんなにも異常に見えるものかと、大国と臨戦態勢にもある割れた国の姿をまざまざと見せつける(同)。管俊一の幾何学的な線画が規則的に動いて最終的なカタチはこうなるのだろうなと思わせるところで突然途切れるデジタル作品だ。結果とはどうなるか分からないものだと、分かっていてもだまされやすい、思い込みの深さを自覚してしまう(同)。

出展中止作家の中には、見られたら壮観だったろうなと思うのも少なくない。モニカ・メイヤーは現実世界にはびこるジェンダーギャップやセクシャリティをめぐる差別言説などを問うフェミニスト・アートのパイオニア。声なき声の一つひとつを取り上げ、会場いっぱいに展示する予定であったのに封印。無数のメモ書きを吊り下げるはずだった空の展示施設だけが並ぶ寒空しい風景となってしまっている(国際現代美術展・名古屋市美術館)。レニエール・レイ・ノボは自身のインスタレーション作品(平面)を全て「表現の不自由・その後」展中止にまつわる新聞記事で覆い隠し、全く見えないようにして抗議の意思を明らかにしている。キューバ出身、鋭い批評精神で現実世界・政治を批判的に展示してきたというノボは許せなかったのは明らかだ(国際現代美術展・豊田市美術館)。しかし見ることができた作品には圧巻なものも多い。キャンディス・ブレイツの作品はセクシャル・マイノリティ故に祖国を追われ、難民として生きる人のインタビューを通して語りの大切さを見せつける。実は、インタビューに答えているのは俳優で、実際の難民から聞き取った話(これも映像として流されている)から編み出したインスタレーション映像(愛知)。

概ね、現実・社会批評的な映像やインスタレーションは抗議の意思を示して展示を拒み、絵画や造形物の作家はそのまま展示を続けているように見えた。しかし、文谷有佳里のように抗議の意思表示の上に、なぜ展示をし続けるかの理由を明らかにした作家もいる(愛知)。言わば歯抜けのようにポツポツと展示中止がされている中であっても、全体として面白い、興味深く考えさせられる作品に満ちているように見えた。これがすべて揃えばどんなに嬉しい展覧会となったかと思うと「表現の不自由・その後」展中止の影響は返す返す残念だ。作家らによる展示続行の仮処分申請の動きもある。愛知県知事や津田大介監督が言うようにシンポジウムを開くことでお茶を濁してはならない。展示再開こそ本道だ。10月14日までにもし再開されたらフリーパスを持ってまた行くつもりでいる。(「表現の不自由展・その後」の閉じられた会場正面に貼られた意見タグなど)

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あいちトリエンナーレ 「現在」と「現実」を視る 1

2019-09-15 | 美術

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。」(中略)「日本より頭の中が広いでしょう」(中略)「囚われちゃ駄目だ。いくら日本の為を思ったって贔屓の引倒しになるばかりだ」(夏目漱石『三四郎』新潮文庫)

あいちトリエンナーレでの「表現の不自由・その後」展の開催3日目にしての中止の事件は、近代日本のなした戦争や差別についての歴史認識について修正主義的価値観を持つ政治家や電凸(でんとつ。一般的には企業や公共団体に電話で真意を質す行為。本件の場合、主催者に展示続行を諦めさせる右派の電話攻撃。)の問題だけではない。もっと簡単なことだ。表現には自己の意に沿わない、不快なものもあるが、それを妨げる権利は誰にもない。ましてや脅迫や明らかに観覧者に危害をおよぼそうと示唆する行為はもってのほかであるということだ。そこで河村たかし名古屋市長や松井一郎大阪市長ら公人の言説は、市民の表現の自由を担保するために公的機関こそがその費用や場を確保しなければならないという憲法的価値を逸脱しているという意味で、憲法擁護義務のある公務員としての資質に欠けるばかりか、悪質でもある。「悪質」というのは、想田和弘さんが「河村市長や(補助金の「適正」運用に言及した)菅官房長官らの発言がガソリン野郎を勢いづけた」と指摘しているからである。

トリエンナーレ実行委員会や愛知県に寄せられた苦情や抗議の対象は「平和の少女像(正式名称。「慰安婦像」とは作者も言っていない。)」ばかり焦点が当てられているが、昭和天皇を描いた作品(「遠近を超えて」「遠近を超えてpartⅡ」)に対するものも多かった。自分が受け入れられない歴史認識や政治的意見について「慰安婦はデマ」「侵略戦争ではない」「天皇を侮辱することはけしからん」などなどの立場から、表現を公的地平から排除するのを正当化することは時の政権(本件の場合、安倍首相の思考、安倍政権の姿勢と重なる。)が認める以外の表現は許さないという独裁思想そのものでオーウェルの『1984年』の世界である。

芸術がすべて政治性を持つべきとまでは言わないが、表現とはコンテンポラリー(同時代性)である限り、時の政治・社会体制などと無縁ではいられない。世界的なアートフェスティバルとして5年に1度開かれるドイツのドクメンタでは、政治的メッセージがない作品を探す方が難しいほどだ。2017年に開催されたドクメンタ14では「移民(排除への反対)」と「(EU間の)経済格差(に伴う分断)」が前面に出ていた。それほどまでに現在の反民主主義的動向を問い、分断を乗り越えようとする思いがアーティストを突き動かしている事実を再認識するばかりであった。

翻って、今回の「表現の不自由・その後」展のたった3日目での中止は、この国の現状が「表現の不自由・その最中」であることを明らかにした。「検閲とは無意識的に内面化される時こそ完成する」(韓国の演劇人キムジェヨプ氏の言葉。「ブラックリスト事態、演劇人たちはどう抵抗しているか」岡本有佳(あいちトリエンナーレ「表現の不自由・その後」展実行委員)『世界』2017年6月)。完成間近のこの国の姿である。あいちトリエンナーレの今回の事象についての政治的文脈に筆を割きすぎた。次回は展示の紹介に努めたいと思う。

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「女帝」の戦争責任とは? ジェンダーバイアスもよく分かる 「皇后考」

2019-09-02 | 書籍

秋篠宮家に対する批判的な報道が減らないように思える。紀子妃が女帝のごとく君臨しているだの、長女眞子がいつまでもフィアンセであった小室圭さんとの関係を断ち切れないだの、次女佳子は奔放な発言が目立つなどと。その逐一の信憑性と影響については詳しくは分からないが、その社会的・政治的意味が明らかになるのは後年、原武史さんのような学者が幅広い資料を渉猟、綿密に分析して跡づけてからであろう。

近代の天皇・皇室・神道研究の第一の担い手、原武史さん(放送大学教授)の大部『皇后考』(2015年 講談社)は、明治以降3代の皇后についての論考だが、その多くを割いているのが大正天皇嘉仁の妃であった節子(さだこ)の生涯についてである。明治天皇睦仁の皇后美子が容姿により妃に選ばれた先例に対し、多くの妾を抱えるそれまでの宮中のあり方から、西洋的な一夫一婦制が目指された故、容姿より、強く、健康な身体=男の子をたくさん産める、女性が選ばれたのである。容姿的には節子に優っていた妃候補(伏見宮貞愛第一皇女禎子(さちこ))がいたが、健康ではないとして「皇太子婚約解消事件」として、却下され、九条道孝皇女節子が皇太子妃となった。1879年(明治12)、節子15歳。「黒姫」と呼ばれるほど肌の色が濃かったが、健康重視の結果であった。

宮中の思惑通り、節子は男子を4人ももうけた。第一子裕仁が昭和天皇、(秩父宮となる)雍仁(やすひと)、(同高松宮)宣仁(よしひと)、(同三笠宮)崇仁(たかひと)である。既知のとおり、裕仁には明仁(1933年生)、(同常陸宮)正仁(1935年生)の二人の男子ができた。しかし、現天皇徳仁(なるひと、1960年生)に次いで、冒頭の秋篠宮文仁(ふみひと、1965年生)に悠仁(ひさひと)が生まれる2006年まで41年もの間男子が生まれなかったのである。浮気性で病弱だった嘉仁が皇室行事ができなくなって、節子は「神がかり」的となり、嘉仁の治癒を神に願うとともに、自らを神功皇后になぞらえていく。神功皇后とは、仲哀天皇の妃であり、応神天皇の母とされるが、現代の通説ではその存在は否定されている。しかし『日本書紀』によれば、自ら朝鮮半島に渡って軍の指揮をとり、「三韓(新羅、百済、高句麗)征伐」をなしたとされる。しかし、人物そのものの存在も疑われるくらいであるから「征伐」の年代、態様ともに疑義を挟む研究が多い。応神天皇が成人になるまで摂政を務めたとされる神功皇后に自己を引き寄せ、嘉仁に裕仁摂政が誕生した後には、隠然たる権力をほしいいままにする。長男である裕仁を疎んじ、次男雍仁を溺愛、嘉仁死後皇太后となってからの日中戦争後は、ひたすら「勝ち戦」を神に頼む。その神がかりの強さに怖さを感じた女官も。病気療養に専念していた秩父宮雍仁の静養先に近い沼津の御用邸に長逗留するも、頻繁に出かけ、祭神を祀る神社に幾度も詣でて、ライ病(ハンセン病)療養所を訪れ、「防ライ運動」に熱心に取り組み、養蚕事業に理解が深かった姿は、光明皇后も想起させる(ただし、療養所を訪れても患者に接することはなかった)。それほどまでに神功皇后をはじめとして、遡ってはアマテラス、光明皇后など過去の皇室関係の偉人の女性などに自分を重ねようとした人物だった。しかしあれほどまでに戦争を鼓舞した戦犯意識は皆無で「戦中期の言動に対して自ら責任をとるという発想はなかったのである」(553頁)。

ところで「天皇の戦争責任」とは一般的に言われるが、そこには「皇室全員の戦争責任」であることを含んでいる。特に対米戦争開戦強硬派であった高松宮宣仁は帝国軍人、軍艦に皇后として初めて乗船し喜んだという皇后良子(ながこ)、銃後の施設への慰問に訪れた各妃ら、そして自ら軍神になぞらえた感もある貞明皇太后。厚いベールに包まれるとされる宮中のそれぞれの人の思惑、行動などを膨大な資料を持って明らかにしていく様はスリリングでもある。あれだけ「勝ち戦」に拘っていた貞明皇太后が、裕仁のポツダム宣言受け入れ時には、抵抗せず、あっけらかんとしているあたり、空襲がある東京におらず、戦時の窮乏も知らず、戦火も戦禍も経験しなかった場所にいた人間の無知、無見識、非常識からと考えると腹立たしさも浮かんでこないほどだ。

原さんは、鉄道オタクとしても有名で、鉄道史その他関連本もたくさん著している。そのスジの凝り性からか、皇室の御召列車の記述の際には、「○○線の○○駅から○○駅までで、現在の特急○○の」と言ったような説明が出てくるが、特急の名称まで要らないんじゃないかと思うが、そこがやはり原さんにとって大切なところなのだろう。笑ってはいけない。

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