kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

「ブラック・ライブズ・マター」運動の背景を知る  「フライデー・ブラック』

2020-11-25 | 書籍

ハリウッド映画の謳い文句「全米が震撼」とか「全米で絶賛」をとかく胡散臭く思っていたので「全米」で賞賛、人気とされるアフリカ系アメリカ人作家ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤーのデビュー短編集もそういった評を先に見たら手に取らなかったかもしれない。しかし別のところで人気に触れない書評を読んでこれはと感じるものがあった。

表題の「フライデー・ブラック」と「アイスキングが伝授する「ジャケットの売り方」」はどこかのモールの一角を占めると思しき大きなファスト・ファッションの店舗。店で一番売り上げる「俺」は、同僚の手管を冷静に分析・観察し、死人まで出るバーゲンの乱闘をこれも静かに描写する。妻や家族に無理やり付き合わされてきたファッションに興味のないオヤジをその気にさせ、最後には彼が予定していたのよりかなり高いジャケットを売りつける。その日の売上の多寡を同僚と話す「俺」のそばには死体が転がっている。

冒頭の「フィンケルスティーン5〈ファイブ〉」では、黒人少年少女らに脅かされると感じ、5人の首をチェーンソーで切り落とした白人の陪審員法廷で彼の「正当防衛」が認められる様を描く。その法廷を横目で見ながら自身の「ブラックネス(「黒人度」とも訳すのだろうか?)」を低めて、白人が大勢いる乗合バスで目立たないようにするエマニュエル。

エンタテイメント・ランドのVRゲームコーナーで強力な戦闘服を身にまとい、斬り殺し、斬り殺される体験を繰り返す「ジマー・ランド」。あるいは学校で繰り返される銃撃事件がスポーツよりニュース価値が低い現実に、銃撃事件の現場を体験した誰もがどこか冷めた描写を繰り返す「ライト・スピッター   光を吐く者」

血と暴力と無感動にあふれていて、主人公とまみえる登場人物の誰もが自分ごととしての体験の重みを感じさせない。「ブラック・シュールレアリズム」という範疇の作品であるそうだが、シュールであるのは間違いない。しかし、実はその異様さも含めてアメリカの今を語るレアリズムそのものではないのか。加害者が白人、被害者が黒人の場合、白人に有利な陪審員裁判。「消費される」と形容されるほど頻繁に起こる銃撃事件とそれに慣れているほど進まない銃規制。大量消費社会を象徴するモールでは競争で斃れていく人間には無関心。ゲームが先か、現実が先か不明なほど切り分けも難しい殺傷の連続とそれがもたらす愉楽。

ブレイディみかこは「シャープでダークでユーモラス。唸るほどポリティカル。恐れ知らずのアナーキーな展開に笑いながらゾッとした。」と評する(書籍オビ)。そう、非現実であるからこそその格差と不条理がユーモアに描かれるのにも惹かれる短編の数々は、実はアメリカの現実の断面をそれぞれ切り取っているからこそポリティカルなのだ。

小説とは文字・文節など言葉で勝負するエンタテイメントではあるが、同時に今ある社会をどこまで非現実的に現実化するかが問われる知的作業でもある。その語りの向こうに流れる告発性と客観性こそ読み取らねければならないという読み手が問われる作業にも快感を覚える。同時に、現在バイデン新大統領が掲げる分断の収束に必須の要素、ブラック・ライブズ・マターの原因を垣間見たような気がした。

(『フライデー・ブラック』は押野素子訳、駒草出版刊 2020)

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映画公開で改めて痛みを知る 『82年生まれ、キム・ジヨン』

2020-11-04 | 書籍

出版されて瞬く間に評判となり、気にはなっていたが、今回映画も公開されたので読んでみた。

毎ページ、読んでいてこれほど痛い物語はない。そうキム・ジヨンを取り巻く男性社会、韓国社会からすれば全部些細なことだろうけれど、それらが全部とてつもなく痛いのだ。彼女の心に、人生に刻み込まれる「女性ゆえに」というスティグマ。しかし大きく「女性ゆえに」と括ることもできるが、キム・ジヨンは「女の子ゆえに」「女子学生ゆえに」「女性社員ゆえに」「息子の妻となる女性ゆえに」「妻ゆえに」「母ゆえに」とずっと彼女自身が「私」を規定することは許されず、常に身近な人たちが、周囲がキム・ジヨンを規定してきた。それをなしたのは儒教的価値観の強い男性社会はもちろんのこと、彼女を日常から支える良き家族・親族、友人、隣人も含まれる。周囲は言う。「キム・ジヨンのことを思って言っている。」それがキム・ジヨンをして離人症でカウンセリングに通うことになるほど、彼女を蝕んだのだ。

キム・ジヨンの母親は男を生まないと責められ、キム・ジヨンとのその姉とで女の子が続いた後、次の妊娠が女の子と分かると中絶させられる。キム・ジヨンの4歳下に男の子が生まれると祖母は本当に可愛がり、甘やかす。キム・ジヨンが高校生の時遠い塾へ通っていたバスで男子高校生のストーカー被害に遇う。なんとか逃れて父親に迎えにきてもらったが「お前の服装が問題だ」。大学に行ってやりたかったことがあったのに、家から通えるソウルの私大へ。女が学問ややりたいことを目指すべきではないと(弟のために家に負担はかけられない。)。彼ができたが、韓国の男子は兵役がある。兵役に行かない女子は楽してる。就職面接では落とされまくり。やっとの思いで就職できた職場では新卒女子がお茶を入れるのが当たり前。他の仕事が新卒男子より軽減されているわけでもないのに。結婚した夫は家父長制の権化でも暴君でもなかったが、祝祭で夫の家には行くのに、キム・ジヨンの家に行くわけではない。そして義父母の家では召使いのように走り回り、ゆっくり自分の食事もできないのに「男の子を生めない嫁なんて」。万事がキム・ジヨンを蝕んだのだ。子どものために仕事を辞めたキム・ジヨンに夫は「ぼくも手伝うよ」と家事・育児の主体意識もない。そして直接、間接を問わずキム・ジヨンに助言や意見し、小言を言う人たちは善意と慣例踏襲で悪気が全くないから、よりキム・ジヨンを蝕んだのだ。

この小説がうまく客観的なのは、心療内科を受診したキム・ジヨンの担当医のカルテの説明という構成になっていること。ここではキム・ジヨンが幼い頃から成人、結婚・出産するまでの個人史が語られている。それはキム・ジヨンが病むに至った外部的原因、影響も明らかにしている。キム・ジヨンを病気に至らしめた加害者は、その時々の周囲の人たちであり、近しい家族などであり、そして韓国社会そのものだ。

合計特殊出生率の低さでは日本よりはるかに先を行く韓国。その理由は明らかだろう。韓国で生きる女性はキム・ジヨンなのだ。しかし後に訴追されたとはいえ、日本より早く女性大統領まで輩出した。光州事件からまだ40年。軍政から民政へ急激に変容した韓国は、戸籍制度をなくし、中絶目的の出生前性別診断を禁止し、性差別禁止法を定め、法曹一元(弁護士経験を経てから裁判官になる)や陪審制度まで、日本より一歩も二歩も先を行く。しかし、その急速な民主的諸制度を支える国民の意識はどうか。制度の次は、人々の意識だ。そう鼓舞しているようにも思えるが、制度さえ追いついていないこの国はどうか。

性被害にあう女性に対するケアや犯罪対策などを話し合う会合で「女性はいつも嘘をつく」と言い放った女性国会議員がいた。当の女性議員が言うのであるからこの発言も嘘になる。うん? では女性は本当のことしか言わない? なら当該議員の発言は? 頓知問答のような世界に止まっているこの国はある意味、キム・ジヨンの韓国より病理が深いのかもしれない。

映画版の「82年生まれ キム・ジヨン」は、小説とは趣を変えて救いがありそうに見える。しかし、人生そのものが「ガラスの天井」の女性の立ち位置はそれほど変わっていないのだろう。いや、天井を目指す女性ばかりではない。私やあなたのそばにいる人がキム・ジヨンなのだ。(『82年生まれ、キム・ジヨン』はチョ・ナムジュ著 筑摩書房 2018年。映画は2019年の韓国映画 監督キム・ドヨン)

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