kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

いいユダヤ人ばかりではないから助ける  ソハの地下水道

2012-11-06 | 映画
つくづくドイツは、映画をとおしてナチス時代を描くことにしつこいと思う。もちろんいい意味でだ。「シンドラーのリスト」(1993年)で、殺戮シーンや死体処理など、私たちがすでに知っていると思っていたホロコーストの実像を詳細に描いたことで、一つの頂点をきわめたナチスの犯罪追及は、その後、フィクションも含め個別的なホロコースト体験やナチスの弾圧に斃れた市井の人たちを描く作品に転化していく。最近では「サラの鍵」「愛を読む人」「白バラの祈り」「あの日 あの時 愛の記憶」。「ソハの地下水道」もそのような市井の一個人の体験を描く小品と位置づけられる。
ソハは下水道の修理人にしてコソ泥。詐欺も働くし、決して好人物ではない。シンドラーや杉浦千畝といった英雄とも程遠い、人品高潔とは正反対の男。下水道でゲットーから逃れ、潜伏しようとしていたユダヤ人をたまたま見つけ、匿う代わりに金銭を要求する。隠れているユダヤ人を通報すれば報奨が得られるというのにそちらの方が儲かると考えたからで、ユダヤ人を人権感覚で救おうとしたのではない。ところが、あまりにも多くのユダヤ人が地下水道に押し寄せたために11人だけ、ソハしか知らない場所に匿い金銭を得る。
ユダヤ人の方も「いい人」ばかりではない。陽の当たらない地下という困難な状況であるのに愛欲にいそしんだり、仲間の財布を盗んで地上に逃れようとする者。
ソハが使っていた下水道工のシュチェペクは、怯えてユダヤ人隠匿から手を引く。が、地下のユダヤ人が地上に出てきたときにドイツ兵に見つかったため、二人してそのドイツ兵を殺したのを、ドイツ軍が怒り、見せしめに何の罪もないポーランド人市民10人を絞首刑にしたのだ。その中にシュチェペクを見つけたソハの心に変化が。
娘の聖体拝領儀式に参列中、豪雨におそわれた街。ソハは地下のユダヤ人が気になって仕方ない。妻と娘を教会に遺して地下に向かうソハ。
本作を語るには、その地理的条件も考えなればならない。ルヴフは、ポーランド東南ウクライナ地域で、住民はポーランド語の方言やウクライナ語を話し、知識人層はポーランド標準語やドイツ語を話す。そしてポーランドといえばカソリックの強い国。反ユダヤ教の意識も強い。そのような中でユダヤ人迫害に少なからず知らんふりしていた人も多かろう。しかしゲットーがつくられ、そのゲットー内でくり返されるドイツ兵の蛮行、というか殺戮。ゲットーから収容所に移されたユダヤ人の命運も長くないのは明らか。そのような中で、地下に逃げ込んできたユダヤ人は、いけ好かない奴もいるし、およそ助けたくないような人間もいる。しかし、ユダヤ人がいい人だから、高潔な人であるから助けなければならない、殺されてはいけないのではない。ユダヤ人であるから殺されること自体が問題なのだ、言うまでもなく。
なるほど、従来のホロコースト映画には、悪いユダヤ人はあまり出てこなかった。いわば「いいユダヤ人」であるから助けるという一面的なヒューマニズムであった思う。しかし、「ソハ…」ではソハも悪い奴であるし、ユダヤ人もそれほどいい人ではない。もちろんソハをはじめ極悪人はいないが、人間社会というのはそういうものだろう。そして人にはいい面もあるし、そうでない面もあって、それらの両面性を前提に人間関係がつくられ、そして時に助け合っていくものだろう。ソハの友人であるポーランド兵のポルトニックこそナチスドイツすばらしい、ユダヤ人狩りだ、隠れているユダヤ人を通報したら褒賞が得られるなどと、こちらの方が唾棄すべき人物。ソハは最初、儲けようとユダヤ人を匿ったが、次第にユダヤ人一人ひとりと接するうちに、殺させたくないと思いに至ったのだ。
実在の人物であるソハは、ソ連軍によるルヴフ解放後、娘をソ連軍の暴走車から守ろうとして轢死したという。そしてソハの人助けは長らく語られることがなかったが、地下水道の生き残りのユダヤ人、当時5歳か6歳くらいの少女が戦後60年たって、その時のことを手記にしたため、今回の映画化となったという。
シンドラーのような英雄はいなかった。しかし、ずる賢い一市民が近しい人を助けたいと思った時、それはユダヤ人だった。そんな日常と英雄伝を排した物語こそ、戦争を語り続ける価値があり、また、ナチスの時代を描き続けるドイツ映画界の矜持を見た気がするのである。


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『ヒーローを待っていても世界は変わらない』。そうヒーロー持たないのが民主主義だ

2012-11-04 | 書籍
奇しくもというか、今の時代であるからこそ、やりかたは違えども、方向性はそれほど違わないと思える3著を読んだ。いずれも平易、大著ではないので、すぐに読めるし、「いま」を考えるのに好著だ。
小熊英二『社会を変えるには』(講談社現代新書)。小熊さんの仕事は『民主と愛国』から注目していたが、福島第一原発事故を契機に官邸前に集まった抗議行動が、10万人に達したとき、動員されたわけでもない市民が一人ひとり民主主義をつくる分子となったのであった。小熊さんはその現場にいて、いろいろな人が自発的に集まって、それぞれの思いで反原発、脱原発を表現する姿にこの国でも自ら手にする民主主義は可能か?可能だと語り始めたのだ。そうするために私たちは何ができるのか、何をしなければならないのか。
政治が混迷を極めていているという。3年前、自民党政治にNo!と選ばれた民主党は、マニフェストを放棄し、消費税率アップ、原発再稼働、沖縄の負担は軽減されず、あまつさえ自民党以上にアメリカ追従、韓国・中国といった近隣国との摩擦を増幅させている。消費税も原発も「民意」と正反対の方向で。
ところで、「民意」は移ろいやすいし、どれが「民意」かは、それを「民意」と決めつける者にとって便利で利用しやすい。しかも、ぶれる「民意」などないということになっている。白か黒か、正か邪か。二者択一の方向に与みしやすいのもまた「民」である。言うまでもなく「橋下現象」のことだ。
香山リカ『「独裁」入門』(集英社新書)は簡単ですぐ読める。が、提起されているところは、今後この国をどの方向へ向かわすのかに関わっていて重い。というのは、香山さんは橋下氏の攻撃性が自分に向けられたことよりも、その攻撃を内容や当否も細かく吟味せず、ネット空間ですさまじいひどさと量で自分に対する攻撃として現出した、その構造と心性に危惧を感じているからだ。香山さんは、ナチスがユダヤ人のみならず、「精神障がい者」を絶滅収容所送りとしたこと、精神医学者がそれに加担し、かつ、戦後それらに対する反省や謝罪しなかったこと、その戦争責任が50年以上もたって明らかにされたことを問題視する。
香山さんは言う。橋下氏を支持した層の感覚は、時間のかかる判断を好まないもの、すなわち「極端な二分化」と「二者択一」であって、「そのとき、それがよいことだと信じきっていた」というものだと。「そのとき…」は香山さんの言葉ではない。ナチスの時代、あの国民すべてがヒットラーの弁舌に酔いしれた熱狂によって、ヨーロッパで多くの命が失われたこと、とりわけユダヤ人が大量に殺戮されたことを振り返って吐いた一般民衆の平均的な言葉だ。
「民主主義というのは、まず何よりも、おそろしく面倒くさくて、うんざりするシステムだということを、みんなが認識する必要があると思います。「民主主義がすばらしい」なんて、とてもじゃないが、軽々しくは言えません。」
この言葉を吐いた人は、しかし、いかに民主主義を「本当の意味で」この国に根付かせるか奮闘している人である。湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(朝日新聞出版)は、徹頭徹尾、民主主義が時間のかかるもの、民主主義以外の道、ヒーローによる他者に決めてらう政治によって、結局自分に降りかかってくるものだと、とても丁寧にあるいはしつこいくらいに問うものだ。
湯浅さんのお兄さんは身体障害者で社会福祉法人で働いているという。現在、優勝劣敗、小さな政府、福祉切り下げ、自己責任圧力が強まる中で、湯浅さんは未来に対する想像力を具体的、現実的に示す。お兄さんがはたらく福祉の現場で補助金がなくなれば、お兄さんがはたらく場を失えば、自宅にずっといるお兄さんを母親がみなければならなくなり、お母さんも閉塞した生活状況になり、そうすれば、湯浅さん自身が現在のような講演、執筆ひいては社会運動家としての状況を保てなくなると。ただでさえ、湯浅さんのように困っている一人ひとりの人と行政その他にはたらきかける人が現場に少なくなれば、ますますそのような人は困るし、そもそもそこまで困っていなかった人まで、助けを必要とする層になってしまう。自己責任だということによって、自己責任を果たせない人が増えてしまう状況に…。
湯浅さんはとても謙抑的に言う。違う考えの人と話しましょうと。だから、でももちろんではないが、菅首相のときに内閣参与として参画したし、それを離れた今、大阪で活動していると。ヒーロー(と目されている人)のいる現場で。それは手間のかかる民主主義と正反対の人と、それを支持する人にあふれた町で、であるからこそ、なにができるのかと。
小熊さんは現在の状況を理解する前提としての民主主義に至る思想の変遷を平易に解説している。それはとても大まかに言うと、神との距離や神に任るのかどうか、一部のすぐれた智者や権力者にすべてを委ねるのかどうか、そもそも、他者との関係とはなにによって規定されていると考えるのかどうかなど、その昔、浅薄な理解で逃げてしまった(今もそうだが)、社会契約論とか人間関係論、マルクス主義を丁寧に解きほぐし、今の時代を知る道しるべの前提として解説する。そう、人はなにが正解かを追い求めた結果、民主主義という迷うための手管を発見したのだ。
重ねて言いたい。湯浅さんの「民主主義は、おそろしく面倒くさいシステムである」ということを。しかし、3著に共通していると勝手に思うのは、であるからこそ、歴史を知ること、なぜ、そこに至ったかということ、そして、それでも人に任せたり、誰かがやってくれると思ったり、その誰かにヒーロー求めたりしていては、いけないことを。
迷おう、話そう、答えを出すのに逡巡しよう。「決定できる政治」がもてはやされている現在、「決定」に時間をかけることにより、一人ひとりがより不幸にならない知恵はある。と思う。(『ヒーロー待っていても世界は変わらない』)
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