つくづくドイツは、映画をとおしてナチス時代を描くことにしつこいと思う。もちろんいい意味でだ。「シンドラーのリスト」(1993年)で、殺戮シーンや死体処理など、私たちがすでに知っていると思っていたホロコーストの実像を詳細に描いたことで、一つの頂点をきわめたナチスの犯罪追及は、その後、フィクションも含め個別的なホロコースト体験やナチスの弾圧に斃れた市井の人たちを描く作品に転化していく。最近では「サラの鍵」「愛を読む人」「白バラの祈り」「あの日 あの時 愛の記憶」。「ソハの地下水道」もそのような市井の一個人の体験を描く小品と位置づけられる。
ソハは下水道の修理人にしてコソ泥。詐欺も働くし、決して好人物ではない。シンドラーや杉浦千畝といった英雄とも程遠い、人品高潔とは正反対の男。下水道でゲットーから逃れ、潜伏しようとしていたユダヤ人をたまたま見つけ、匿う代わりに金銭を要求する。隠れているユダヤ人を通報すれば報奨が得られるというのにそちらの方が儲かると考えたからで、ユダヤ人を人権感覚で救おうとしたのではない。ところが、あまりにも多くのユダヤ人が地下水道に押し寄せたために11人だけ、ソハしか知らない場所に匿い金銭を得る。
ユダヤ人の方も「いい人」ばかりではない。陽の当たらない地下という困難な状況であるのに愛欲にいそしんだり、仲間の財布を盗んで地上に逃れようとする者。
ソハが使っていた下水道工のシュチェペクは、怯えてユダヤ人隠匿から手を引く。が、地下のユダヤ人が地上に出てきたときにドイツ兵に見つかったため、二人してそのドイツ兵を殺したのを、ドイツ軍が怒り、見せしめに何の罪もないポーランド人市民10人を絞首刑にしたのだ。その中にシュチェペクを見つけたソハの心に変化が。
娘の聖体拝領儀式に参列中、豪雨におそわれた街。ソハは地下のユダヤ人が気になって仕方ない。妻と娘を教会に遺して地下に向かうソハ。
本作を語るには、その地理的条件も考えなればならない。ルヴフは、ポーランド東南ウクライナ地域で、住民はポーランド語の方言やウクライナ語を話し、知識人層はポーランド標準語やドイツ語を話す。そしてポーランドといえばカソリックの強い国。反ユダヤ教の意識も強い。そのような中でユダヤ人迫害に少なからず知らんふりしていた人も多かろう。しかしゲットーがつくられ、そのゲットー内でくり返されるドイツ兵の蛮行、というか殺戮。ゲットーから収容所に移されたユダヤ人の命運も長くないのは明らか。そのような中で、地下に逃げ込んできたユダヤ人は、いけ好かない奴もいるし、およそ助けたくないような人間もいる。しかし、ユダヤ人がいい人だから、高潔な人であるから助けなければならない、殺されてはいけないのではない。ユダヤ人であるから殺されること自体が問題なのだ、言うまでもなく。
なるほど、従来のホロコースト映画には、悪いユダヤ人はあまり出てこなかった。いわば「いいユダヤ人」であるから助けるという一面的なヒューマニズムであった思う。しかし、「ソハ…」ではソハも悪い奴であるし、ユダヤ人もそれほどいい人ではない。もちろんソハをはじめ極悪人はいないが、人間社会というのはそういうものだろう。そして人にはいい面もあるし、そうでない面もあって、それらの両面性を前提に人間関係がつくられ、そして時に助け合っていくものだろう。ソハの友人であるポーランド兵のポルトニックこそナチスドイツすばらしい、ユダヤ人狩りだ、隠れているユダヤ人を通報したら褒賞が得られるなどと、こちらの方が唾棄すべき人物。ソハは最初、儲けようとユダヤ人を匿ったが、次第にユダヤ人一人ひとりと接するうちに、殺させたくないと思いに至ったのだ。
実在の人物であるソハは、ソ連軍によるルヴフ解放後、娘をソ連軍の暴走車から守ろうとして轢死したという。そしてソハの人助けは長らく語られることがなかったが、地下水道の生き残りのユダヤ人、当時5歳か6歳くらいの少女が戦後60年たって、その時のことを手記にしたため、今回の映画化となったという。
シンドラーのような英雄はいなかった。しかし、ずる賢い一市民が近しい人を助けたいと思った時、それはユダヤ人だった。そんな日常と英雄伝を排した物語こそ、戦争を語り続ける価値があり、また、ナチスの時代を描き続けるドイツ映画界の矜持を見た気がするのである。
ソハは下水道の修理人にしてコソ泥。詐欺も働くし、決して好人物ではない。シンドラーや杉浦千畝といった英雄とも程遠い、人品高潔とは正反対の男。下水道でゲットーから逃れ、潜伏しようとしていたユダヤ人をたまたま見つけ、匿う代わりに金銭を要求する。隠れているユダヤ人を通報すれば報奨が得られるというのにそちらの方が儲かると考えたからで、ユダヤ人を人権感覚で救おうとしたのではない。ところが、あまりにも多くのユダヤ人が地下水道に押し寄せたために11人だけ、ソハしか知らない場所に匿い金銭を得る。
ユダヤ人の方も「いい人」ばかりではない。陽の当たらない地下という困難な状況であるのに愛欲にいそしんだり、仲間の財布を盗んで地上に逃れようとする者。
ソハが使っていた下水道工のシュチェペクは、怯えてユダヤ人隠匿から手を引く。が、地下のユダヤ人が地上に出てきたときにドイツ兵に見つかったため、二人してそのドイツ兵を殺したのを、ドイツ軍が怒り、見せしめに何の罪もないポーランド人市民10人を絞首刑にしたのだ。その中にシュチェペクを見つけたソハの心に変化が。
娘の聖体拝領儀式に参列中、豪雨におそわれた街。ソハは地下のユダヤ人が気になって仕方ない。妻と娘を教会に遺して地下に向かうソハ。
本作を語るには、その地理的条件も考えなればならない。ルヴフは、ポーランド東南ウクライナ地域で、住民はポーランド語の方言やウクライナ語を話し、知識人層はポーランド標準語やドイツ語を話す。そしてポーランドといえばカソリックの強い国。反ユダヤ教の意識も強い。そのような中でユダヤ人迫害に少なからず知らんふりしていた人も多かろう。しかしゲットーがつくられ、そのゲットー内でくり返されるドイツ兵の蛮行、というか殺戮。ゲットーから収容所に移されたユダヤ人の命運も長くないのは明らか。そのような中で、地下に逃げ込んできたユダヤ人は、いけ好かない奴もいるし、およそ助けたくないような人間もいる。しかし、ユダヤ人がいい人だから、高潔な人であるから助けなければならない、殺されてはいけないのではない。ユダヤ人であるから殺されること自体が問題なのだ、言うまでもなく。
なるほど、従来のホロコースト映画には、悪いユダヤ人はあまり出てこなかった。いわば「いいユダヤ人」であるから助けるという一面的なヒューマニズムであった思う。しかし、「ソハ…」ではソハも悪い奴であるし、ユダヤ人もそれほどいい人ではない。もちろんソハをはじめ極悪人はいないが、人間社会というのはそういうものだろう。そして人にはいい面もあるし、そうでない面もあって、それらの両面性を前提に人間関係がつくられ、そして時に助け合っていくものだろう。ソハの友人であるポーランド兵のポルトニックこそナチスドイツすばらしい、ユダヤ人狩りだ、隠れているユダヤ人を通報したら褒賞が得られるなどと、こちらの方が唾棄すべき人物。ソハは最初、儲けようとユダヤ人を匿ったが、次第にユダヤ人一人ひとりと接するうちに、殺させたくないと思いに至ったのだ。
実在の人物であるソハは、ソ連軍によるルヴフ解放後、娘をソ連軍の暴走車から守ろうとして轢死したという。そしてソハの人助けは長らく語られることがなかったが、地下水道の生き残りのユダヤ人、当時5歳か6歳くらいの少女が戦後60年たって、その時のことを手記にしたため、今回の映画化となったという。
シンドラーのような英雄はいなかった。しかし、ずる賢い一市民が近しい人を助けたいと思った時、それはユダヤ人だった。そんな日常と英雄伝を排した物語こそ、戦争を語り続ける価値があり、また、ナチスの時代を描き続けるドイツ映画界の矜持を見た気がするのである。