kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

ゴシックを回る旅 2

2009-08-24 | 美術
 信仰心のない筆者が畏敬の念を覚えざるを得ないキリスト教作品がいくつかある。ヤン・ファン・エイク「神秘の子羊」であったり、ミケランジェロ「ピエタ」であったり。フランス国鉄シャルトル駅で下車し、彫刻のある公園を横切って聖堂前の広場に立ったとき、ああ、これが大聖堂の中の大聖堂シャルトルか、天を仰ぐがごとく圧倒されていたのは本当だ。そして、大聖堂の眼前に立ったとき、信者でもない自分が跪いていいものだろうかと思えるほど。そのあまりにも大きく、であって崇高な様にひれ伏したくなったものだ。クリスチャンでもない者が跪く真似なんて本当の信者に対し無礼きわまりない。しかし、天気がよいこともあって、晴天に立ちはだかる大聖堂は、あなたもマリアの慈悲を受け取りなさいと言わんばかりの(と信者でない者が勝手に思う)寛容さなのであった。
 宗教的?感動はさておき、実はゴシック建築の素晴らしさを表現するのは難しい。それは一つは先代のロマネスク建築との違いを確認することであるし、あるいは、その後このような大仰なキリスト教建築がもうなされなかったことの確認でもあるからだ。16世紀宗教改革がヨーロッパを席巻するまで、強大な権力を持った教会はいわば豪奢の贅を教会(美術)につぎこんだという点で、そう、やりたい放題であった。しかし、そのひどさがルターらの奢侈を咎め、信仰本来の姿を要望することになるのであるが、それはルネサンス期に顕著になったこれでもかと教会が贅を尽くすために金集めに走った結果でもある。つまり、ゴシック期の教会建築は、それ以前のことなのだ。もちろん、信者の浄財を集め得たから、すなわち収奪したから、あのような巨大建築が成り立ったのであるが。
 シャルトルに限らず、大聖堂のステンドグラスをよく見てみると、旧約・新約聖書の物語が描かれる中で、地元の信者の日々の営みもよく描かれている。たとえば、ぶどうを収穫している農民であるとか、大工や居酒屋の場面も。むろん、聖堂建築に大工は欠かせないし、ぶどうからできるワインはキリストの血であるからだが。しかし、大聖堂がその大聖堂をつくり、まもる町の人たちの信仰の中心であったとともに、営みを再確認する場であったことも確かであろう。
 シャルトル大聖堂の中に入ってステンドグラスを見上げてみる。あんなに高い位置にある小さな細工を字を読めなかった中世の人が聖書代わりに読んだという説も、いやいや、中世は字の読めない人は多かったかもしれないが、聖書の教えをちゃんと知っていたのだ、だから、自分たちの日々の営みの細工も混ぜ込んだのだという説もどちらもなるほどと思ってしまう。
 けれどと、思うのだ。聖書の記述は、イエスの超自然的な行いの数々(奇跡)も含めて、私たち道徳的な日常生活を望む者にとっては実に教訓的、示唆的ではないか。それが分かっているからこそ中世の人は、あのとてつもなく高い位置に煌めくステンドグラスの物語に自身の信仰を確認したのではないか。800年前のことであっても、信仰とは自己の行いを映す鏡としての役割を果たしたこともあるという点では現在と何も変わらないと思うのである。
 シャルトルの崇高さはその建物にあるのではない。それを造り、何世紀をも生きながらえた剄さとそれを可能にした人々の信念が崇高なのだ。
(シャルトル大聖堂 全景)
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ゴシックを回る旅 1

2009-08-18 | 美術
 中世とは「中間の時代」すなわち、古代と近代にはさまれた時代を言い、西洋では産業的にはともかく、文化的にはルネサンス期以降を近代と見なすことから、中世は15世紀以前を指すものとされる。かように中世とは古い時代を指すものだが、先に文化的にと述べたが、日本ではルネサンス期の美術こそ、ダ・ヴィンチであるとか、ミケランジェロであるとか、ボッティチェリであるとか、ある程度親近感があるように見える。しかし、それ以前となるとどうか。
 さきに文化的にはと述べたのは、政治的には西ローマ帝国の滅亡(476年)から中世と指すようなので、キリスト教が大きく普及(313年 ミラノ勅令で公認以降か。ちなみにローマ帝国によって国教とされたのは380年)したとされる3~4世紀以降ルネサンス期までを中世と呼ぶようなのでそれに従うこととする。では、私たちはルネサンス期以前のキリスト教美術をどれくらい知っているであろうか。
 ゴシック建築は、キリスト教がヨーロッパの多くの人の心をとらえ、教会が肥大化するまさにその時期に花開いた傲慢ともまみえるほどの巨大美術の粋である。それは12世紀のロマネスクの時代のようにあちこちの村々で普段着の信仰とも言える身近さではない、いわば、司教という権威が大きな都市を支配し、かつ、信者を護り、支配する機能としての建造物。それが大聖堂なのである。
 順番に見ていこう。
 ランス大聖堂は、フランス歴代の王の聖別、戴冠式を行ったところであり、シャンパーニュ地方の中心地にある。もちろん大聖堂自体がカテドラル(司教座)であるから、都市にいくつもあるわけではない。そして中でもランスはその筆頭ということである。ランス大聖堂は、フランスのゴシック建築の中でとりわけ大きい方ではない。しかし、ゴシック建築の粋であるシャルトル大聖堂の様式を発展させたとされるランスは、ステンドグラスも18世紀に透明ガラスに換え、それが幸いにしてというわけではないが、第1次大戦後に修復された部分も大きく、現在、その美しい様相を保っているのは僥倖である。
 ランスといえば、ジャンヌ・ダルクであるが、ジャンヌがランス入りしたのも、シャルル7世を戴冠させるためであったらしいが、イギリスに負けていたフランスの王が正式な王として認められるためには、ランスで戴冠する必要があったというランス大聖堂の重要性がここでも証されるのである。結局、ジャンヌは因えられ、イギリス側によって火刑に処せられるが、フランスがボルドーの地を奪回し、最終的に百年戦争に勝利するのはそれよりわずか10年ほど後のことである。そして、ルネサンスを目前にして、ゴシックの時代も終わりを告げていたのであるから、ヨーロッパの政治史が文化史と不可分であるとの初学者知識を満足させてくれるだけの物語をランス大聖堂は有している。
  次に訪れたのは大聖堂の中の大聖堂シャルトルである。(写真はランス大聖堂正面入口の「微笑みの天使像」)
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