kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

「かわいそうな障がい者」に向き合ったのは移民  最強のふたり

2012-12-26 | 映画
東日本大震災では「絆」が安売りされ、「絆」を口にしないものはまるで被災者に寄り添っていない、気持ちを汲んでいないかのごとくの「絆」ラッシュであった。しかし本来「絆」というものは、声高に喧伝したり、これが「絆」ですよとばかかりに上から押し付けるものではないだろう。
「最強のふたり」は絆と呼んでいないけれど、絆とはこんなものを指すものだなあと緩やかに納得できる。それほど絆は上からではなく、後で、これって、この信頼を一言で表すとなると絆かも、と思わせるそんな関係性を表す言葉なのだ。
パリ中心・サンジェルマンに住む富豪のフィリップは頸椎を損傷し、首から下は動かないし、何の痛痒も感じない。フィリップを介護するために雇われたドリスは、フィリップとは正反対の境遇。黒人移民の子どもでロークラス。同じような境遇の人種ばかりの地域に住み、犯罪にも近しい。介護に応募したのも就職できなければ失業保険がもらえるから。が、ほかの応募者と違うドリスに興味を持ったフィリップは彼を雇うことに。無教養で粗野、マッチョなドリスの言動は、貴族の末裔であるフィリップの生活をとことん混乱させる。ところが、これまでフィリップをかわいそうな障がい者と扱い、規範意識に貶め表面的な付き合いに終始していた介護人らにうんざりしていたフィリップは、がぜんドリスに興味を持つ。車いすごと自動車の後部座席に鎮座していたフィリップを「荷物みたいだ」と助手席に座らせ、スポーツカーを乗り回す。マリファナをやり、エロチック店に出入りする。はてはフィリップの文通相手との逢瀬までおぜん立てする。
しかし、しょせん住む世界が違う。ドリスの異母弟が麻薬売買のトラブルで大けがを負うとドリスを頼ってくる。今やまっとうな仕事をしているドリスには「俺に任せろ」というしかない。フィリップは「君が一生する仕事ではない」と諭し、ドリスはフィリップの下を去ることになる。
移民が普通のヨーロッパでは、移民との共生・共存が大きな社会的テーマとなり、映画でもたくさん描かれている。その地域社会に適応した移民もいればそうでない移民もいるし、そもそも国家政策の範疇外で生きる不法移民などもいる。そして、移民と言っても親や祖父母の世代が移民であればその子孫はもはや移民のアイデンティティも持ちえないし、ドリスのような非ネイティブは生まれた時からフランス人である。しかし、移民とその子孫を取りまく状況は厳しい。ネイティブのフランス人でも定職が難しい中、ドリスのような高等教育も受けていない、スキルもない移民の就職は難しい。しかし、そうはいっても社民的価値観を持つフランスでは失業対策は、少なくとも日本よりは厚く、その政策のおこぼれでドリスもフィリップの介護職を得たのは明らかだ。
フィリピンやインドネシアから日本の介護職を目指して多くの女性たち(女性と決まっているわけではないが圧倒的。彼女らは本国ではれっきとした看護師である場合が多い)が来日し、研修・勉強を続けているが試験に合格する人はきわめて少ない。合格基準としての日本語の難しさを指摘されることも多いが、そもそも日本社会で日本語に慣れ親しんだ移民が少ないから、フィリピンその他から受け入れようとした根本的問題があるのではないか。ドリスは言わばニューカマーではないが、仕事がないのはフランスが抱える移民問題の一端を示しているようで興味深い。が、本作はハッピーパターンにしても、移民の可能性と同時に、障がい者の可能性をも示唆する。
かわいそうな人ではない障がい者と等身大に付きあえる介護者。それは少々荒っぽくても人間てそんなものと、開き直る感性を多くの人に教えてくれるバリアフリーの神髄なのだろう。ドリスは少々迷惑だが、ドリス的付き合いがないと人間は開かれない。「絆」とは上からではない、当人同士が感じ、分かち合う心情ではないか。開かれた人間だけが感じ取れるあたたかな情感である。
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「人生の午後」には夕も夜もある  ピーター・ミュラン「思秋期」

2012-12-23 | 映画
洋画の日本題は、原作とは全然関係のないつけ方から、原題ではよく分からない、ピンとこない作品に対してうまいなあと思わせるものまでいろいろある。古くは、作品に日本独自の題名をつけるのが半ば当たり前で、原題を反映していないものでは、キャサリン・ヘップバーン「旅情」の原題は「Summertime」、ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードの「明日に向かって撃て」は「Butch Cassidy and the Sundance Kid」である。
それが、いつしか原題をそのままカタカナ表記しただけの工夫のないものになり(ターミネイターならまだ許せるが、エクゼティブ・デシジョンとかファイナル・デスティネーションとか本当に工夫がない)、それが定着したと映画評論家が書いていたのに頷いた覚えがある。原題のままでは伝わりにくい、かといって、無理に日本名を付けて作品の本質が伝わるか? 英語(や外国語)題名にどれだけ違和感を覚えずに、かつ、作品の雰囲気を伝えるタイトルとはどのようなものか、外国映画を扱う配給会社は苦心しているのだろう。
で、本作の原題はTyannosaur ティラノサウルス。言うまでもなく大きな恐竜であるが、主人公のジョセフが、太って糖尿病を患い、両足切断を余儀なくされた妻をティラノサウルス呼ばわりしたため。ジョセフがハンナにするその説明には悔恨の表情がにじみ出る。
ハンナもDV夫に苛まされ、アルコールに現実逃避する悲しい人だ。妻を亡くし、仕事もなく、理由も分からない怒りを発散させてしまうジョセフに、敬虔なクリスチャンとして体面を保つハンナ。どこか、不器用、不自由な二人は惹かれあうわけではない。怒りの矛先を見つけられないジョセフと、DV夫のいる家に帰るのが怖い、夫の性欲からなんとか逃れようと日々戦々恐々としているハンナにとって、お互いが不完全な癒しだったのだ。
ところで、本作が監督デビューであるパディ・コンシダインは俳優としての評価は固まっているが、「憧れの監督はケン・ローチ」と言ってはばからないほどケン・ローチ信奉者であるそう。ケン・ローチのワーキングクラス映画を彷彿とさせる本作は、結局答えもなく、ハッピーエンドでもない。でも、見ている者にはジョセフの苛立ちもハンナの乖離した思いもよく分かる。そして、そちら側につきたくなる。家族に恵まれ、財に苦労せず、愛に欠かない家族像は英国に限らず、アメリカなどの映画にも典型的に描かれることがあるが、むしろそれは例外で、地に生きる人はなんらかの悩み、いくばくかの不安に苛まされているものだ。そして、ワーキングクラスであれば、明日の糧への不安は計り知れない。ハンナはワーキングクラスではないが、いつ夫に殴り殺されるかもしれないという明日のない未来がある。そして、事実ハンナは逆襲した。
ハッピーエンドではないと書いたが、ジョセフもハンナも刑務所に入る。しかし、不思議な言い方だが、刑務所に入って、お互いが必要とし、二人とも自分を捉えていた桎梏から幾分自由になる。あきらめてはいけない。人生はまだまだ続くと。
本作の日本名は「思秋期」。なんの接点なかったのに、中年を超えた二人は、お互いに自己の不完全さと不十分さと満ち足りなさを感じ取る。と同時にまだ続く人生をも思う。中年期を「人生の午後」と呼んだのはユングだったか、午後の後には夕暮れと夜がある。そして夜は長い。「思秋期」という題名がふさわしいかどうか分からないが、Tyannosaurよりは取っつきやすいと思う。
いずれにせよケン・ローチ「マイ・ネーム・イズ・ジョー」で素晴らしい演技を見せたピーター・ミュランは飲んで、すぐ切れるワーキングクラスを演じさせたら右に出る者はいない、とこれも確かに思う。
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