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kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

グローバリズムの罪と私たちの食卓  ダーウィンの悪夢

2007-01-31 | 映画
 イギリスに行くたび「フィッシュ&チップス」を食してきた。今回本作が公開されるや、「フィッシュ&チップス」ボイコット運動が起こったというから、衝撃の大きさを物語っている。しかし、本作はナイルパーチを食べないことで解決する問題ではないことこそを示している。

「ダーウィンの悪夢」のダーウィンとはもちろん進化論の主唱者にして、自然淘汰、弱肉強食、生存競争など自然界を説明したその人のことである。進化論を認めない立場の人もいるが、少なくとも自然界においては生態系の輪とは違う不均衡な事態が起こっていることは事実だろう。

「ダーウィンの箱庭」と呼ばれたアフリカ最大の淡水湖ヴィクトリア湖は生物多様性の宝庫とされていたが、ナイルパーチの放流によってその様相が一変する。ナイルパーチは大型の白身魚としてヨーロッパ、そして日本の食卓にのぼり、タンザニアの漁業関係者は豊かになる。が、豊かになったのは一部でヴィクトリア湖周辺には漁民があふれ、その漁民相手に売春婦が増え、失業や死亡、行方不明の親から捨てられたストリートチルドレンがあふれる。売春の増加はタンザニアにエイズを蔓延させ、十分な医療もないまま多くの人が羅患し、そして死に至る。売春を業とする女性たちもナイルパーチを運ぶパイロットから暴力を受け時には命を落とす。飢えと暴力、性虐待にさらされる子どもたちはナイルパーチをEUなどに運ぶプラスチック容器を熱して溶かし、その煙を吸い込み眠りにつく。

一方、ナイルパーチは強力な肉食性でヴィクトリア湖の他の魚を駆逐し、生態系を壊していく。周辺住民の食していた魚は絶滅の危機にさらされ、ナイルパーチの身は海外に運ばれるが、その残骸を食べる。大量の残骸により発生するアンモニアガスに眼を失った女性をはじめ、体調をくずす住民。仕事を失った親の子どもはストリートチルドレンに。魔と絶望の循環である。

 しかしフーベルト・ザウパー監督はナイルパーチの爆発、グローバリズムがもたらす南北の経済的不均衡を撃つと同時に、いや、それ以上にナイルパーチを運ぶ飛行機がアフリカに飛んでくるとき、カラではなく紛争地域に流すための武器弾薬が運ばれていることを突き止め、より問題にしているのである。ロシア人パイロットは最初は口を濁していたが「アンゴラに戦車を運んだことがある」と告白。従軍経験のあるタンザニア人も「(職につけるので)みんな戦争を求めている」と。戦争で難民が出れば、国連から援助物資が投下され、北側の企業はまた潤うことになる。ナイルパーチ(バナナでも、カカオでもいい)→ 反対に武器輸出 → 戦争拘泥化 → 難民爆発 → 食料援助 → ナイルパーチ工場などの資本投下 というこちらこそ魔のスパイラルなのである。

 ザウパー監督は映画撮影と悟られないように、通訳とだけ行動し、タンザニアのそこいらにいる普通の人たち、漁民、工場主、娼婦、夜警、ストリートチルドレンなどに話を聞いてまわりドキュメンタリーの本質に則った手法で現実を描いて見せた。であるからこそ、単純なお涙ちょうだい、深刻な議論の喚起に止まらない深さがこのフィルムにはある。

 スーパーに並ぶ、給食に供される白身フライにタンザニア、アフリカ、そして「死の商人」を必要とするグローバリズムの現実に私たちは思いを馳せることができるだろうか。

 
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パリ美術巡り ルーヴル美術館1

2007-01-21 | 美術
 ルーヴルのような西欧の大きな美術館に来ると最初どれから見ようか、どこから歩こうかとわくわくした気持ちでいっぱいになる。しかし次の瞬間、こんなに沢山見られるわけがない、どれも十分に見るなんてできっこないと絶望にも似た気持ちに苛まされる。おそらくルーヴルはそういった気持ちにさせる最たる美術館だろう。7年ぶりに訪れた今回、デゥノン翼の入り口を入ったところでギリシアの彫刻群を眼前にして感じたのはやはりこの期待と絶望である。

 1日目はデゥノン翼とシュリー翼を少し歩いたが、デゥノン翼の2階中央に移された「モナリザ」はオフシーズンでも大きな人だかりで、その前にあるヴェロネーゼの「カナの婚宴」も十分見とれる作品であるが、多くの人は「モナリザ」に釘付けである。この部屋は撮影禁止となっているが結構フラッシュを光らせる人までいて係員に注意されていた。「モナリザ」は不思議な絵画である。ダ・ヴィンチ・コードの人気から取り上げられることも多いが、ルネサンスの時代、宗教画が圧倒的に多い中で描かれたにしてはあまりにも完成度が高い、などということは私が言うまでもないだろう。それにしても「モナリザ」を見ていると、この人はどちらを見ているのだろう? いくつなのだろう? どのような感情を抱いているのだろう?といろいろな疑問が沸き起こるとともに、これは値段なんてつけられないなと俗なことも思ってしまう。一度盗まれ奇跡的に無傷で戻った「モナリザ」はもう人類の至宝の一つだろう。と言うのは、「モナリザ」は宗教画ではないからである。もちろん偶像崇拝禁止の観点からは肖像画も許されないだろうが、肖像画というのがもともとはキリスト教絵画(あるいは壁画)に寄進者が描かれ、それが後に大きく、そして独立して描かれるようになったという背景を思えば、「モナリザ」はそういった背景さえも感じさせない風俗画でもあるからである。

 「モナリザ」からシュリー翼に至る順路(でもないが)、デゥノン翼から移動する途中にサモトラケのニケやアフロディテ(ミロのビーナス)があり、これも大勢の人だかりである。西欧の美術館、特にルーヴルやオルセーが太っ腹ななのは先の「モナリザ」室やいくつかの部屋以外は撮影自由であるということだ。まあ、美術作品はその眼で見てこそそのすばらしさを感じることができると思うので、撮影しても自己満足にすぎないのだが、ニケやビーナスを撮る人は多い。そしてニケやビーナスはある種の間さ、それはもちろん神話の世界のものであるからであるが、生硬さが心地よい。だから撮影しようが、間近に見ようがあまり変わらないと思う気持ちもわからないではない。もちろん、物見遊山の記念写真を撮る人が多いのだが。

 デゥノン翼と反対側にあるリシュリュウ翼のマルリーの中庭にはロダン以前の近代彫刻が立ち並び、最初に感じた絶望感より期待感が大きくなり、1日目のルーヴル散策は終わりにした。
(カノーバ「アモールとプシケー」)
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