kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

セットで読みたい『在宅ひとり死のススメ』と『コロナ自粛の大罪』

2021-04-27 | 書籍

老齢、自分が要介護の状態になっても、施設に入らず自宅で最後まで過ごすための要諦は「金持ちより人持ち」と上野千鶴子さんは言う。しかしこれは結構難しい。財産は、利殖や貯蓄に励む、倹約を徹底して老後に備えるといった方法で若干増やせるかもしれない。しかし、人間関係は日常の付き合いで蓄積していくものであって、ギブアンドテイクで一方的に得をする関係では信頼は得られないからだ。そしてそこには自分の弱い部分も知っておいてもらう必要も当然ある。

徹底した合理主義者の上野さんは、介護保険はもちろん医療や福祉全般について使えるものは使い倒せと言う。そして、多死社会、認知症になる可能性の高い現状に、それに抗うなと言う。最後まであがいて迷いなさいと。これを聞いてホッとした人も多いのではないか。日本(人)的特性か、家族やよそ様の迷惑にならないように、死後の始末をきちんと用意しておくように言われ、思い込んでいる人は多い。しかし、認知症の発症も死も自分でコントロールできるものではない。ならば、それを受け入れ、「お互い様」を次代に繋げばいいのだ。そもそも自己の病気や死への準備を怠っても生きて行ける、暮らして行けるのが近代の福祉国家ではなかったか。それを新自由主義の蔓延とともに、やれ自己責任だ、フレイルだのと高齢者を追い立てる。最後の最後まで自宅でいる方が幸せに決まっている(筆者の場合)。要介護4、施設で逝った母親。会話はままならなかったが、最後に会いに行った時だったか、私の手を一所懸命に握ろうとしたガリガリの手を思い出すたび、家に居たかったのだろうなとの思いがよぎる。

高齢者に対し、フレイルに気をつけろ。のみならず全国民に自宅にいろ、あれこれするな、我慢しろ、と「自粛」ばかり強要するこの国の新型コロナウイルス対策状況。感染の広がりを報道するメディアの状況といい、自粛を「煽る」テレビに出てくる医療者の姿に違和を感じていたらドンピシャの本が出た。コロナでは公からの要請としての自粛と、私、自ら進んで行う自粛との相互作用でどんどん息苦しい世の中になっている。しかし感染拡大を抑えるためと言われて、自分でもそう納得すると容易に社会全体が閉塞してしまうのが同調圧力の強いこの国の姿だ。しかし、この外出・移動や飲食店の営業の制限は果たして効果があり、その根拠となる感染者数、死者数などの数値との関係はどうか。

日本では高齢者の死亡率が高い。しかし、基礎疾患の多い高齢者は新型コロナでなくとも、インフルエンザやその他ウイルスに弱い存在だ。そして、病床のやりくり率とも言うべきか、重症者ベッドや医師・看護師といった医療資源の投入の仕方も問題だと言うのだ。その原因は、政府、厚労省、日本医師会などの決定、提言する側と「専門家」の考え方、思考回路そして発出の仕方だと言う。もちろん、『大罪』の発言者らは批判ばかりしているわけではない。民間の医療施設や町医者が参画できず、公の大病院などに偏っている現状を改善するために、新型コロナをインフルエンザと同じ感染症法上の5類に下げるべきと言うものだ。考えてみれば、インフルエンザで亡くなる人がコロナ禍下で大きく減ったのは、新型コロナに置き換わったとか、個々の衛生管理が理由ではと言うのは納得できるところだ。そして新型コロナもインフルエンザも、それら大きな枠組みと言えるかぜも根絶できるわけがない。

新型コロナとたたかいではなく、その付き合いはまだまだ続くだろう。『大罪』は医療の専門家ばかりに訊いているので、政治的な判断への言及は少ないが、東京オリンピック・パラリンピックを何が何でも催行したいがため、個人に我慢を強要し続けているのが政権の本質としか思えない。

上野さんは、高齢者が例えばお風呂で倒れたら、救急車を呼ぶな(かかりつけ医や普段からの医療関係を呼べ)と言い、『大罪』では「コロナは高齢者問題」だから「地域医療の出番だ」(長尾和宏医師)と言う。双方には通じるものがある。自粛を強要し、外に出ず、人と話さず、食べる楽しみを奪われて孤立、孤絶する高齢者を量産してどうなるというのだ。そして全ての人が高齢者になる。(『在宅ひとり死のススメ』は文春新書、『コロナ自粛の大罪』は鳥集徹著、宝島社新書。いずれも2021年刊)

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現代アートを殺さないために ソフトな恐怖政治と表現の自由

2021-04-04 | 美術

2019年の「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展・その後」が開幕後3日で展示中止に追い込まれた事件は衝撃だった。開催を求める署名や、中止の間閉ざされた扉にメッセージを貼り付けるなど本当にささやかだが運動にも参加した。そして大村知事の姿勢と関係者の尽力で再開された展示にも赴いたが残念ながら抽選に漏れ、見ることができなかった。この中止展示=展示を許さない意図、の構図はとても単純だった。従軍慰安婦を象徴するとされる「平和の少女像」や昭和天皇の写真を燃やす場面があるビデオ映像を快く思わない層が実行委員会や主催者の愛知県に大量の電話を寄せ、中には脅迫もあった。そしてそれを煽るかのような公人の発言(河村たかし名古屋市長、松井一郎大阪市長ら)の上に、文化庁からの補助金の不交付を後から決定するなど、表現の自由に対する政府の横槍、妨害意図が明らかだったこと、などである。そしてこれらの公の立場にある者たちの民主主義に対する考えが完全に誤っていることである。

しかし、本書を紐解けば、現代アートに対する公の妨害、牽制そして検閲などはあいトリに始まったことではなく、着々と進行しているがよくわかる。それはアメリカではトランピズム=反知性主義による、アート=エリートのお高く止まったエスタブリッシュメントへの攻撃に現在現れていて、より表現世界を狭めている。それが、「忖度」によって自らの道を狭めているのが日本の美術館、キュレーションの現実だ。「(あいトリの「不自由展」、作家、作品への圧力は)多数派とアートの専門家の無知あるいは事なかれ主義による表現の自由の圧殺である」(362頁)。

アートプロデューサーであり、キュレーションのプロである著者の姿勢、提言は明確だ。「アートとは何かをなるべく多くの人が考えるように仕向け、毒にも薬にもなるアートの性質を知らしめ、毒でさえ我々の世界を豊かにすることがあるという事実を共有するのである」(370頁)。そのためにはアーティストとアートを守りたいと思う者は、さまざまになされる公と、そういった公をたった一つの方向性に向かわせようとする者たちの攻撃に立ち向かうための理論武装と横の繋がりが重要と説くのである。この攻撃にはあいトリに見られたような補助金不交付という経済的に「干す」やり方もあれば、東京都現代美術館や広島市現代美術館であったような規制・検閲もある。さらには、その攻撃の対象が、性や暴力などをめぐるむき出しの対・表現の自由の時もあれば、この国にはそれよりもある意味超えがたい菊のタブーが存在する。

そして、公に一切頼らないとフリーにアンデパンダンとしてするやり方もあるが、これでは多様な人の多様な結びつきを狭めてしまうという意味で、アングラ化するだけという問題も指摘する。さらに著者は、ペストの時代から現在のコロナ・パンデミックの時代まで通覧し、アートにおけるウイルスとそれがもたらす分断、すなわち差別が不可分であったことも解き明かす。それは「接続と切断、再接続と再切断を繰り返せば、悪玉病原体は消え去るかもしれない。そして、アートは世界に的確に取り込まれ、ともに進化するかもしれない」(371頁)。しかし、日本学術会議の任命拒否問題にも明らかなように現実はそれとは逆の方向に進んでいる。だから境界を広げるためにあるアートは、世界を豊かにするのだからアート自らが境界を築いたり、どのような境界が持ち込まれるのか普段に警戒しなければならない。世界を豊かにするという時の「豊か」は政治的に正しいとは限らないと釘をさす。上述のように毒でさえ豊かの範疇に入りうる。

「世界は多様であり、あらゆるものが芸術表現の対象になりうるし、なっていい。制約となるのは物理法則と法律だけであり、主題や行為にタブーはない。」「(公的助成が絡むシーンでは)必要な場合に、それを観たくない者が観なくてすむように、適切なゾーニングを施すことだけだ。」(377頁)「本来は「個」の集合体である「公」は、「個」の少数派を守り、アートを守らなければならない。」(378頁)明快である。(小崎哲哉著 河出書房新社)

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アメリカを知る、アメリカ映画に期待させる  ノマドランド

2021-04-01 | 映画

定住地を持たず流浪する民の呼び名は数多ある。イスラエル建国まで祖国を持たない、あるいはそれ以外の地に生きるユダヤ人を代表するディアスポラ。かつてはジプシーと呼ばれたが現在はロマ、あるいは地名由来のボヘミアン。マッチョな人気ダンス・ヴォーカル・グループ名でなく本来の意味は逃亡者、亡命者のエグザイル。そして遊牧民や流浪する人をさすノマド。

私はホームレスではなくハウスレス。財産としてのハウスはないが、居場所としてのホームはある。夫を亡くし、企業城下町だったネバダ州のエンパイアは街から企業が去ると、ファーンも住居を失い、キャンピングカーでの生活となるが、昔の教え子の子どもから「あなたはホームレス?」と訊かれ毅然と答える。教員まで勤めたファーンは別に家を探せばいいのではないかと思えるが。ファーンには豊かに暮らしている妹やファーンに好意を抱きノマド仲間だったが、息子と和解し大きな家に住まうデイヴィッドも彼女に部屋を提供しようとする。が、ファーンはもう車以外のベッドでは眠れない。そしてそのような困難な生活にあっても働くことを諦めない。ファーンが季節労働で雇われるアマゾンの巨大な配送センター。多くのノマドも働くのは雇用中は駐車場が保証されるから。テーマパークの食堂、モールの掃除。細切れの労働では多くの収入は得られない。しかし、ノマド仲間の多くは、安定した職を得てハウスに住みたいと考えているようにも見えない。そこには一言では言い表せない過去を引きずり、資産の象徴たるハウスを持つ束縛からは解放されたいと考えるから。

原作は『ノマド 漂流する高齢者たち』(ジェシカ・ブルーダー)で、著者は実際にノマドと3年間暮らし、数百人のノマドに取材したルポを著した。ファーンを演じるアカデミー賞俳優フランシス・マクドーマンド以外の登場人物はほとんど実在のノマドである。ハウスの束縛から解放されたい人たちと前述したが、実際の暮らしは厳しい。車ゆえの厳しい環境。冷暖房、食事、洗濯、排泄、病気になった時など生活の基本条件から、駐車場、車のメインテナンスと現金収入は不可欠だ。だからノマドは気楽な「遊牧民」ではなくて、流浪を余儀なくされた資本主義社会ゆえの「垢」なのだ。

ファーンが妹の家族に世話になった際、集った者が不動産で儲ける話をすると「借金させて家を売りつけるなんて」と反論する。そこにはリーマンショックの影が見える。そして画面をクリックすればすぐに商品が送られてくるアマゾンの仕組みもこういった期間労働、使い捨て労働によって成り立っているという事実を見せつける。そう、本作は優れてアメリカの現実を描いているのだ。持てるものと持たざる者。そこで表面的には描かれていないかに見えるのは、弱肉強食、格差社会という世界最強・最大の資本主義国アメリカの本質であって、個で抗えるものではない。だから、心の中だけでもファーンは自由であり続けるのだ。それを支えるのがキャンピングカーという小さなお城しか失うものを持たない寄る辺なきノマドの仲間たちである。いや、ファーンは言う。自分は心残りを引きずり、それを乗り越えられないからノマドを生きるのだと。自立して誇りあるノマド、に見えるファーンとて不安と戦い続ける高齢者(劇中では61歳)に過ぎないのだ。

ファーンと実在のノマドたちに密着したカメラは、社会の矛盾を直接的に突く構成とはなっていない。その点を、さこうますみは「ケン・ローチだったとしたら、また別の描き方をしただろう」と指摘する(『週刊金曜日』1321号 2021.3.19)。確かにケン・ローチなら格差社会に壊され、時に命を奪われる主人公にしたかもしれない。しかし、「ミナリ」の脚本・監督のリー・アイザック・チョンといい、本作のクロエ・ジャオといいアジアがルーツの監督ではアメリカ映画も見せるものがある。ハリウッドへの偏見?を捨てて今後も期待したい。

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