老齢、自分が要介護の状態になっても、施設に入らず自宅で最後まで過ごすための要諦は「金持ちより人持ち」と上野千鶴子さんは言う。しかしこれは結構難しい。財産は、利殖や貯蓄に励む、倹約を徹底して老後に備えるといった方法で若干増やせるかもしれない。しかし、人間関係は日常の付き合いで蓄積していくものであって、ギブアンドテイクで一方的に得をする関係では信頼は得られないからだ。そしてそこには自分の弱い部分も知っておいてもらう必要も当然ある。
徹底した合理主義者の上野さんは、介護保険はもちろん医療や福祉全般について使えるものは使い倒せと言う。そして、多死社会、認知症になる可能性の高い現状に、それに抗うなと言う。最後まであがいて迷いなさいと。これを聞いてホッとした人も多いのではないか。日本(人)的特性か、家族やよそ様の迷惑にならないように、死後の始末をきちんと用意しておくように言われ、思い込んでいる人は多い。しかし、認知症の発症も死も自分でコントロールできるものではない。ならば、それを受け入れ、「お互い様」を次代に繋げばいいのだ。そもそも自己の病気や死への準備を怠っても生きて行ける、暮らして行けるのが近代の福祉国家ではなかったか。それを新自由主義の蔓延とともに、やれ自己責任だ、フレイルだのと高齢者を追い立てる。最後の最後まで自宅でいる方が幸せに決まっている(筆者の場合)。要介護4、施設で逝った母親。会話はままならなかったが、最後に会いに行った時だったか、私の手を一所懸命に握ろうとしたガリガリの手を思い出すたび、家に居たかったのだろうなとの思いがよぎる。
高齢者に対し、フレイルに気をつけろ。のみならず全国民に自宅にいろ、あれこれするな、我慢しろ、と「自粛」ばかり強要するこの国の新型コロナウイルス対策状況。感染の広がりを報道するメディアの状況といい、自粛を「煽る」テレビに出てくる医療者の姿に違和を感じていたらドンピシャの本が出た。コロナでは公からの要請としての自粛と、私、自ら進んで行う自粛との相互作用でどんどん息苦しい世の中になっている。しかし感染拡大を抑えるためと言われて、自分でもそう納得すると容易に社会全体が閉塞してしまうのが同調圧力の強いこの国の姿だ。しかし、この外出・移動や飲食店の営業の制限は果たして効果があり、その根拠となる感染者数、死者数などの数値との関係はどうか。
日本では高齢者の死亡率が高い。しかし、基礎疾患の多い高齢者は新型コロナでなくとも、インフルエンザやその他ウイルスに弱い存在だ。そして、病床のやりくり率とも言うべきか、重症者ベッドや医師・看護師といった医療資源の投入の仕方も問題だと言うのだ。その原因は、政府、厚労省、日本医師会などの決定、提言する側と「専門家」の考え方、思考回路そして発出の仕方だと言う。もちろん、『大罪』の発言者らは批判ばかりしているわけではない。民間の医療施設や町医者が参画できず、公の大病院などに偏っている現状を改善するために、新型コロナをインフルエンザと同じ感染症法上の5類に下げるべきと言うものだ。考えてみれば、インフルエンザで亡くなる人がコロナ禍下で大きく減ったのは、新型コロナに置き換わったとか、個々の衛生管理が理由ではと言うのは納得できるところだ。そして新型コロナもインフルエンザも、それら大きな枠組みと言えるかぜも根絶できるわけがない。
新型コロナとたたかいではなく、その付き合いはまだまだ続くだろう。『大罪』は医療の専門家ばかりに訊いているので、政治的な判断への言及は少ないが、東京オリンピック・パラリンピックを何が何でも催行したいがため、個人に我慢を強要し続けているのが政権の本質としか思えない。
上野さんは、高齢者が例えばお風呂で倒れたら、救急車を呼ぶな(かかりつけ医や普段からの医療関係を呼べ)と言い、『大罪』では「コロナは高齢者問題」だから「地域医療の出番だ」(長尾和宏医師)と言う。双方には通じるものがある。自粛を強要し、外に出ず、人と話さず、食べる楽しみを奪われて孤立、孤絶する高齢者を量産してどうなるというのだ。そして全ての人が高齢者になる。(『在宅ひとり死のススメ』は文春新書、『コロナ自粛の大罪』は鳥集徹著、宝島社新書。いずれも2021年刊)