kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

クリスマスではない「休戦」への憧れ  戦場のアリア

2006-06-19 | 映画
第1次世界大戦は、それまでの戦争と違い(すでにフランスはプロシアに手痛い敗北を喫している(普仏戦争 1871年))、毒ガス兵器や相手陣地への空爆、塹壕戦、はては戦車、ダイナマイトなど近代戦争の幕開けであった。本作はそのあたりのことがある程度描かれているし、ヨーロッパというイングランドを除いて陸続きである国家間の戦争が、それら隣国との普段からの交流が前提となっている点も描かれていて興味深い。小隊を率いるエリート将校故かもしれないが、ドイツ軍将校は英語もフランス語も話し、フランス軍将校はドイツ語を少し話す。デンマークのオペラ歌手はフランス公演の経験もあり、フランス語を話す。スコットランド将校も含め、相対する3者に言葉の壁はない。ちょっとできすぎだと思うけれども、実際数ヵ国語を話すドイツ人や好んでは話さないが英語ができるフランス人も多いと言う。
そして第1次世界大戦期はドイツでもまだナチの台頭はなく、ドイツ人将校もユダヤ人であった。近代戦争の幕開け、だが、どこか長閑な(と言っては申し訳ないが)前線での敵対は、たった一つのクリスマスソングによって1日だけの休戦を生み出した。映画ではかなり脚色されてはいるが、本作は史実を下にしていて実際ドイツの有名なオペラ歌手が戦地慰問ということで(映画では普通の兵士と同じく徴兵されたという設定だが)フランス北部のドイツ占領地での出来事は事実らしい。クリスマスソングを聞き入る3軍の兵士。酒を酌み交わし談笑、合同ミサ、サッカー。戦争の反対局に存在する話し合いや融和といったものは本来このような形ではなかったか。
史実にはない前線にいるテノール歌手である夫の側にいたいと駆けつけるソプラノ歌手のアナ。彼女の美貌と歌声にうっとりしない者などいないだろう。アナを演じたダイアン・クルーガーはフランス人将校を演じたギョーム・カネの前妻。カネは父親が自分の直属の高級将校であり、若くして前線を任された苦悩をよく表していると思うし、将校を演じるには若すぎるダニエル・ブリュールもヒゲをはやしてそれなりの貫禄。そしてスコットランド軍の司祭に「リトル・ダンサー」や「マイ・ネーム・イズ・ジョー」などで味のある労働者階級と言えばこの人のゲーリー・ルイス。キャスティングはある程度よかったのだが、オペラ歌手夫婦の美声は本職の当てレコ。口の動きが少し合ってないように見える場面もありマイナス。ただおとぎ話はおとぎ話らしく(史実だが)、まとまっているほうがいい。実際、クリスマス休暇を欲したわけではないが、オペラ歌手を最前線に送り、ツリーを並べたのはドイツ軍の本当のはからいらしい。ユダヤ人が将校になっている点と合わせても、ナチスが台頭する以前のドイツは確かにいろいろな面ではるかに寛容であったのかもしれない。
アメリカがピンポイント攻撃で目標を破壊する現代の戦争(誤爆も多いが)。敵の顔を見なくて済む、見ないからこそディジー・カッターなど大量殺戮兵器を駆使できるのだろう。近代戦争の分岐点となった第1次世界大戦は敵の顔の見える戦争から、顔を見なくて済む戦争に大きく舵をとるメルクマールであったのかもしれない。ただ、現代の戦争であっても駆り出された兵士の苦悩が減るとも思えないのだが。
ヨーロッパでは移民排斥運動の激化(フランスのデモ、オランダやイギリスの事件を見よ。)にもかかわらず、EUという加盟国間では新たな戦争などおそらくは想像できない。それは陸続き故に移民が当たり前の地勢で、移民を排斥するのでない、いや移民以前に出自がネイティブ純血など珍しいのかもしれない、市民社会の構築はシチズンシップという形で争いを生まぬような知恵を育んでいる。イスラムの伸張や十字軍、宗教改革による近しき者への迫害、そしてナチスのホロコーストなどヨーロッパはもう十分隣人を殺してきた。
クリスマス休戦というおとぎ話は現在息づいていると感じるし、また、いつまでも続いてい欲しい。いや、国家の意思を無視したとき(映画では、クリスマス休戦を楽しんだ兵士らは国家反逆の廉でより過酷な戦地に送られる)こそ話し合い、殺し合うことを止めることは可能だ。
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この国の程度、この国の民度  バッシング

2006-06-18 | 映画
04年戦地イラクで起こった日本人人質事件。捕えられたのはNGOボランティアの女性と、男性そしてフリーのカメラマン。「バッシング」はそのうちの一人、高遠菜穂子さんを題材にしたものだ。ただ、実際は高遠さんは映画の有子よりずっと年上でNGO活動はいわばベテランで、映画ほど「軽率な」人ではない。しかし、小林政広監督は今回この映画を撮るにあたってイラク戦争関係の書籍はあまり参考にしなかったそうだ。それがむしろ有子の「理解されがたさ」を強調しているようで結果的に成功しているように思える。というのは、例えば有子が食費節約のためにコンビニでおでんを注文し、ネタ一つ一つごとに器を要求し、おでんだしをたっぷりとと店員に言うシーン。器の無駄使いはエコロジーにも反するし、ツユダクでは後のお客さんの分がなくなってしまう。映画では、有子の自己の目的(戦地の子どもらを助けるという「崇高な」ボランティア)の前には日常の迷惑には無感覚であるという、身勝手さ、狭量さを描きたかったようだが、コンビニにおでんのつゆくらいなんということはない。むしろ、街で出会った同級生らが「有子のしていることって偉いよね。ボランティアなんてできないわ、自分の頭のハエも追えないもの」というシーン。有子の行動を全然「偉い」とも思っていないし、むしろ迷惑に思っている彼女らの無責任、無自覚な放言こそこの国が、社会がイラク戦争と言う明らかな対米追従、イラク民衆の望んではいなかった「派兵」という実態を後ろ押しし、何ら戦争の収束やイラク民衆のためになっていない点こそ「迷惑」である。
有子の彼が帰国した有子にやっと会えて言い放つシーンも象徴的だ。「おまえのせいでみんなが迷惑しただろう」。「みんな」とは誰なのか、「迷惑」とは何なのか問うても彼には通じない。メディアが、彼らの行動を「自己責任」とバッシングし、政治家もそれに乗ったとき、違和感を感じなかった日本人が多かったというのが事実だからだ。
05年1月にやはりイラクで拉致、誘拐されたフランス人フローランス=オブナ記者に対するフランス政府、メディアの取り上げ方はどうだったろう。誰も「自己責任」などとは問わず、全土で彼女の無事救出を願う集会、行進、そして解放時にはシラク大統領まで空港まで出迎えたという事実はあまりにも日本と違う。フランスはイラクに派兵していないのでその危険度は高遠さんらより低いとも言われたが、拉致/誘拐した人にとってはそのようなことは関係がないかもしれないし、では、そもそものイラク派兵の正当性はどうだったのか。そのような原則的、本質的議論を封じ込め、「自己批判」の大合唱をしたこの国。
高遠さんとともに拉致/誘拐された今井紀明さんのもとには今だに多くの中傷、批判があると最近の新聞記事で読んだ。映画で描かれた有子の家への嫌がらせ電話、父親への理不尽な攻撃、退職強要は映画というフィクションの世界の話ではない。30年間勤めた職を失った父親は自死するが、その保険金をあてに再び戦地へ行こうとする有子の「身勝手さ」がヒューチャーされるが、国の身勝手さ(「どこが戦闘地域かなんてわかるわけがない」小泉首相発言)は、個人の身勝手さに比してとてつもなく大きい。
父親の自死までは余計な脚本にも思えるが、バッシングとは時に人を殺すというのも事実だ(重大事件容疑者の親族の自死はよく聞く話だ。)。

有子は再び日本を後にするがもう帰っては来ないだろう。こんな国に。今年生誕120年ということもあり、展覧会等再評価の喧しい画家の藤田嗣治。藤田は戦争画を描いたことを批判され、戦後日本を棄てフランスに永住するが、藤田の画業における戦争責任についてはまた別稿に委ねたいと思うが、藤田がフランス国籍を取得したときの言葉を紹介しておく。「私が日本を棄てたのではない。日本が私を棄てたのだ」。

古くはブラジル移民、満州移民、近頃国家当責を断罪されたドミニカ移民。国家は人を棄てることはあっても、受容することはない。イラク撤兵が現実的課題となった自衛隊内では帰国者の中に自殺者も出、精神的病気を発病した者も多数抱えると言う。戦闘を経験せずに済んだ自衛隊でさえもこの有様だが、国がこれらの人に対しきちんとフォローすることも考えられない。
派兵した政府を支持し、バッシングをする国民は同じだからだ。
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知的好奇心のとば口となるか   ダ・ヴィンチ・コード

2006-06-04 | 映画
前評判は高く、最近テレビ、雑誌等でもレオナルド・ダ・ヴィンチばかり。映画もそれなりに飽きさせないし、おそらく原作を読んでいなくとも楽しめるのだろう。が、キリスト教史、特に異端の歴史や少なくともレオナルドの美術(や仕事)に知識や興味の全くない人にはあまり面白くないかもしれない。それくらい広い話題と展開に疲れるくらいだからだ。
物語の筋はもう十分喧伝されているので繰り返さないが、この映画公開に際し、キリスト教世界でも舞台のお膝元であるヨーロッパは比較的冷静で、カソリックの強いフィリピンや南米では反発が強いと言う。まあ、イエスとマグラダのマリアの結婚は本作(小説)が初出ではなく、1982年の『レンヌ=ル=シャトーの謎』から大きく語られていたらしく、極端に珍しい新説ではないそうな。また、男性原理(中心主義)のアンチとしてのキリスト教に内包する女性崇拝/原理(マリアの処女懐胎はもちろんのこと、本作でイエスの血脈とされるメロヴィング朝が出現した現在のベルギーあたりに強く残る清血礼拝など)はマグラダのマリアを初めとしてキリスト教の大きな一側面だそうである。イエルサレムに聖地奪回と進軍した初期十字軍もこのあたりの地方出身とか。(「ダ・ヴィンチ・コードの◯と×」小池寿子/宮下誠『芸術新潮』06年6月号)
なるほど本家のイタリアルネッサンスより、北方ルネッサンス絵画の方が、より鮮やかで篤い信仰心を感じる(科学的指向の強かったレオナルドの作品と、寄進を中心に描いたヤン・ファン・エイクを比べてみても)。ただ、ダン・ブラウンの探求が眉唾かそうでないか、あるいは、イエスの血脈があったかどうかなどいろいろな点で、宗教的(信仰)と科学的歴史学は別物であり両立するものだ(前出)。そして信仰に対する冒涜という観点からこの作品(原作も映画も)を見れば、「許せない」の一言で切って棄てることもできるが、歴史的興味という観点からなら知らなかった世界をいろいろ楽しめるということだろう。現にヴァチカンは公式にはこの映画上映を糾弾せず、静観の構えだそうで、それだけ古い歴史を持つキリスト教がこれまで幾多の歴史的検証にさらされてきたことを物語る。
ただ信仰に対する科学的接近はあり得るとしても、たんなる揶揄は慎まなければならないし、脱宗教的観点からの当該宗教に対する表現は慎重さが要るだろう(予言者風刺画問題を見よ)。そして宗教に対する政治的関与、圧迫は常に摩擦を引き起こし、少数者に対する想像力、許容力が試される(フランスの学校でのスカーフ着用禁止問題も、靖国神社「公式」参拝問題も)。
たかが娯楽作品に対して拡げすぎたようだ。本作のラストを飾るルーブルの迫力と魔力は本物であると思う。またあのピラミッドに遭遇したくなった。
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