kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

情感豊かな舞に堪能   ロイヤル・バレエ団 ジゼル

2016-07-10 | 舞台

無垢な村娘であったジゼルが、身分を偽りジゼルに近づいた貴族のアルブレヒトに恋したときは、なんの、けれんみのない明るいダンスであったのが、アルブレヒトの本心を知り、自死したあとの死霊となったあとは重く舞う。アルブレヒトは死ぬまで踊り続ける魔術にかけられる。バレエ「ジゼル」のあらすじはこんなに簡単だが、天真爛漫な村娘から、死女を演じる落差に演者の技量が問われるとても難しい役どころと言われる。

イギリス、ロイヤル・バレエ団のジゼル、西宮(県立芸術文化センター)公演。ジゼルを演じたマリアネラ・ヌニェスの笑顔はとてもかわいらしく、無垢な村娘のよう。しかし第2幕のそれは一変する。貞子に変身する。アルブレヒトに死ぬまで舞う呪術をかけた死の精の女王ミルタに対峙し、アルブレヒトを死の淵から救おうとするジゼルには死した者にしか持ちえない狂気を感じられる。情感豊かなのだ。アルブレヒト役のワディム・ムンギンタロフにしてもそう。全編をとおして情感豊かな演出とダンサーの表情。ヨーロッパやアメリカのカンパニーは群舞が(日本のカンパニーに比べて)そろわないと言われるが、ロイヤルもそう。しかし、少しの(見方によるが)そろわなさは問題ではない。コールドバレエは、そろっていないイコール美しくないのではない。美しいと感じたとき、それはそろっているかそろっていないかというチマチマしたことはどうでもよくなるということだ。

さきほど情感豊かと記したが、ジゼルだけではない、ジゼルに恋し、アルブレヒトが王子である秘密を暴き、最後にはミルタら死の精霊に命を落とす村の森番ヒラリオン。アルブレヒトに比べて野卑なヒラリオンも死ぬ前の舞がすばらしい。群舞も含めて総じてどのダンサーも力量が高く、それゆえ高い安心を得られる。

クラシックバレエの物語は多くの場合他愛ない。ジゼルもそう。しかし、その他愛なさを豊かに、ときに複雑に表現することができるかがダンサーの実力だ。今回のプリンシパルであるマリアネラ・ヌニェスはその複雑さを演じ分けて見せた。そして脇を固めるファースト・ソリストたち。ロイヤルがロイヤル足り得るのは、この層の厚さにある。クラッシックをクラッシックのまま演じられるのは、そもそもマリウス・プティパの振り付けであるからだそうだが、ピーター・ライトの演出は、その古典的作法に忠実であり、それはあらゆる場面で活かされている。その演出を一人ひとりのダンサーが理解し、獲得し、そして組織となっているところがすごい。さきほど他愛ないと書いたが、説得力をもって他愛ないといえばよいだろうか。

いずれにしても演目的に3大バレエの次に人気があり、親しみやすいジゼルは、古典の王道たるロイヤルのそれが見飽きないのは確かだ。

 

 

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群舞の複雑さに感嘆   NYCB2013

2013-11-04 | 舞台
有吉京子「SWAN(スワン)」で主人公の聖真澄が、正統派クラシックの世界からニューヨークのバランシンに指導を受けるシーン。正確には覚えていないが、バランシンは「考えるな」「構成するな」「解釈するな」と体が自然に音楽に反応、あるいは身体そのものが音楽になることを要求した。ロシア・バレエの正統にて大御所マリンスキー、バレエ・リュス出身のバランシンがアメリカに渡った後は、クラシックの伝統的な舞台ではなく、身体反応としてのバレエを求めた。
バランシンのすごいところは、そうは言ってもクラシック・バレエの基本を押さえた上での振り付けであるということ。それはもちろんそうだろう、白鳥と黒鳥のダンスが入れ替わるなんてありえない。が、今回NYCB(New York City Ballet)の公演で分かったのは、体が反応とは正反対のコール・ド・バレエの構成力の高さ。コール・ド・バレエと書いたが、ここでは群舞がぴったりとくる。今回の「白鳥の湖」ではソロはとても少なく、ほとんどが群舞の醍醐味を実感する演出となっている。それは群舞がおそろしく複雑であるから。通常、コール・ド・バレエというと、16人や24人が同じ動きをくり返す。そろったアラベスクの美しさと言ったらない。しかしバランシンの振り付けは各人が同じ動きをすることを許さない。ある時は一人ひとり順に開くグラデーションに、ある時はまるで美しい統制を拒否するかのようなランダムな舞い。
圧巻は国鳥の乱舞。ヒッチコックの怖い映画に「鳥」があったが、まるで無数の鳥が無秩序に舞っている様。この時、黒鳥に魂を奪われた(白鳥オデットと間違えた)ジークリフトも落命するが、あの黒鳥の群れに巻き込まれれば一たまりもない、と思わせる演出。本当に黒鳥が舞っているように見えたのだ。ブラボー!
ところでNYBCといえば、ストラヴィンスキーの諸作品を圧倒的な技術で展開したことで有名だ。ストラヴィンスキーと言えば「ペトルーシュカ」「火の鳥」「春の祭典」といった難解な作品が多く、それを振り付けた場合の舞いはときに「難解」を継承していて、分かりやすいクラッシック・バレエに慣れた浅薄生にはつらい時がある。その時に冗長な振りではなくて、魅せる振りとは、を体現したのがこのバランシンの群舞である。
群舞を美しく見せるためには一人ひとりの高い技術が必要だ。だから、今回の公演では群舞のダンサー全てがプリンシパル(主役)であり、端役は存在しないのだ。バランシンは最初、乱舞を白鳥でしようと考えていたが、衣装合わせの段階で黒鳥もいいなと転換したという。そう、ジークフリフトを追い込む暗黒の舞いは複雑、そして奔放な無数の黒鳥の舞いこそふさわしい。その一羽、一羽がすばらしく迫力ある前提とともに。
「白鳥」のほかに今回の舞台はコンテンポラリー「The とFour Temperaments」、ビゼーの初期楽曲(17歳のときの作品という!)に着想を得た「Symphony in C」。「Symphony in C」は、コンテンポラリーに少々に戸惑いを感じた観客にサービスのオーソドックスなクラシカル。うまい組み合わせだ。
圧倒的な運動量、目くるめく展開はNYBCの面目躍如。楽しい時間を新しいフェスティバルホールで堪能できた。
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振付の妙、物語バレエの常識を破る   シュツットガルト・バレエ団「じゃじゃ馬馴らし」

2012-06-11 | 舞台
シェークスピア作品がバレエの演目になったのには「ロミオとジュリエット」、「真夏の夜の夢」そしてこの「じゃじゃ馬馴らし」がある。偉そうに言わせてもらうと、シェークスピアの喜劇は(ロミジュリは悲劇だが)、予定調和でありながら納得できる結末であり、かつ、教訓的である。納得できる結末と書いたが、あくまで17世紀初頭の価値観の範囲でという意味であり、現代的にはそぐわない面もあるが、それもふまえて古びていないところがシェークスピアの普遍的な価値と人気の証であると思う。
そのシェークスピア作品をバレエにするとすれば振り付けの妙味が問われる。そして今回のシュツットガルト・バレエ団は、ジョン・クランコの振り付けで「じゃじゃ馬馴らし」はお株中のお株である。クランコの振り付けは本当に変わっている。じゃじゃ馬のキャタリーナは、求婚者ペトルーチオに対してはもちろん、誰かれとなく悪態をつく。キャタリーナの妹、淑やかなビアンカに求婚する男たちも、頼りない体をさらすなどおよそ「男らしく」ない。しかし、酔っぱらいのペトルーチオがその大きな心と些細な物事に動じない度量を示し、キャタリーナの愛を克ちえて、また、ビアンカを射止めたルーセンショー、ビアンカを得られなかったけれども娼婦と真の愛に気づく求婚者たちの悲喜こもごも。で、これら筋立てをセリフのないバレエでどう演じるか。
「面白い」の一言に尽きる。キャタリーナのバレエらしからぬ動き。そのじゃじゃ馬ぶりは顎を突き出す、お尻を突き出す、大股で歩くなど品がない様で表現される。ペトルーチオとのパ・ドゥ・ドゥでは二人して座り込み、暴れ馬のキャタリーナを後ろから羽交い締めにする、背中合わせになってでんぐり返る…。そうもはやこれではパ(ステップ)ではない。そして、最初そのような破天荒な逸脱したダンスから、キャタリーナがペトルーチオに惹かれ、じゃじゃ馬ではなくなっていく中で、よりバレエらしくなっていくのが見所だ。最初、荒々しかったリストもやさしく持ち上げ、緩やかにおろすなど艶やかになっていくあたり、ダンサーとしては難しかろうが、見る者にとってはうれしい変化(へんげ)だ。もともと、変化に富んだ、通常ではない動きは、基本の技量が高くないとできない。それが見事に演じられており、また、主人公を盛り上げる道化者たちもファンキーな動きに磨きがかかっているようだ。
バレエについて浅薄な知識から言うと、振付家というのは、30代くらいまで現役のダンサーとして一線で活躍し、引退の年を考えたころになるものだと勝手に思っていたが、クランコはそうではない。23歳でもう現役を引き、以後振付家として物語バレエの一線を走り、名作「オネーギン」(関西での公演は聞いたことがないが、もちろん見たい!)と「じゃじゃ馬馴らし」はシュツットガルトの大いなる遺産となっている。クランコ自身、踊り手より作り手に興味があったと伝えられ、いかに制作するかの情熱は73年ニューヨーク公演からの帰路、飛行機の中で突然死した時まで続いた(享年43歳)。
思うに、「じゃじゃ馬馴らし」や「ドンキホーテ」のような動きの速いリフトが続く演目は体躯にすぐれたロシアやヨーロッパのダンサーの方が日本やアジアのダンサーより有利に見える。しかし、今回ビアンカを演じたのは韓国人ヒョ・ジュンカンで、じゃじゃ馬キャタリーナを演じたドイツ人のカーチャ・ヴュンシュとの対比もよく、リフトされる側はアジア系も合うのかもしれない。とにかく最後まで楽しめた2幕であった。
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分かりやすさを支える技術の魅力  ウィーン国立劇場バレエ団「こうもり」

2012-05-05 | 舞台
恥ずかしながらウィーン国立劇場には行ったのだが、よく覚えていない。演目は「眠れる森の美女」。奮発してボックス席をとったのだが、手前のボックス席の男性がかなり身を乗り出していて、こちら側からは舞台がよく見えなかったので、注意しようと思ったがドイツ語もできないし、泣いた覚えだけがある。そして幕前のシャンペンも高かった。
そのウィーン国立劇場バレエ団のおかぶ「こうもり」がやってきた。もともとはオペレッタ作品が本家だそうであるが、バレエになっても単純明快、他愛もない喜劇であることに変わりはない。倦怠期の夫婦は5人の子どもに恵まれ、幸せなファミリーを演じているが、夫ヨハンは妻ベラのベッドを抜け出し、夜な夜なこうもりとなって華やかな世界へ。ヨハンの愛を取り戻すべく共通の友人ウルリック(実はベラを愛している)のけしかけで、美しく変身したベラは、夫の入れ込む酒場で他の女性らを出し抜いて男性客を魅了する。ヨハンもベラとは知らずに求愛するが。
こうもりに変身するための羽をベラに切り取られたヨハンは、妻の尻に敷かれる哀れな夫になり、家族の平穏は保たれ、めでたし、めでたし。はたしてウルリックはそれを望んでいたのか難しいところだが、彼とて、ベラの家族の崩壊を望んではいないだろう。貴族社会はあくまで建前的にはすべて平穏無事、うまくいっていことが前提。ウルリックにとっては、ヨハンとベラがうまくいっていること、すなわち、ベラが幸せであることは望んだことだから。
ストーリーはさておき、ウィーン国立劇場バレエ団のパフォーマンスはどうか。同団のプリンシパルもソリストもロシアや東欧出身が多い。概して大柄である。今回西宮公演のベラ役はマリア・ヤコヴレワ。貞淑な妻、善き母から妖艶なレディ、悩殺女(悪女)に変身する様は、ジゼルや白鳥の湖などと同じく、両極端・好対照な女性像を演じる恰好の題材で、ダンサーの実力が問われる難しい役柄。貫録十分のヤコヴレワは長いスカートの主婦姿から太もも露わのピスチェのいでたちへ。そのピスチェ姿を覆っていたのはこうもりを想起させる黒いマント。悪女のマントにかかれば子どもじみたヨハンなどひとたまりもない。であるが、ヤコヴレワも見れば、ロシアはマリンスキー出身。決して小柄とは言えない迫力が、大きな衣を脱いだところで明らかになり、この魔女をどう遇せばというところで、やはり東欧はスロバキア出身のヨハン役、ロマン・ラツィクがこれまたかなりの体躯。ヤコヴレワをひょいとのリフトのシーンが幾度もあるが、貞淑、妖艶、蠱惑、欲情を自在に変化(へんげ)するベラに合わせたラツィクのパフォーマンスもとても高い。
そして、身体能力の高さを見せつけたのがギャルソンを演じた面々。さすがに難度の高い早いダンスの後は肩で息をしていたが、今回の演目そのものが、貴族が出入りする酒場や舞踏会を中心になされていることもあり、衣装が通常のバレエより重たく、複雑であったのにそれをものともせず踊り切るのはすごい。
楽しく、変化に富んだ演目の根底にあるのは観る者を「楽しませたい」との基本に徹した先ごろ亡くなったローラン・プティの振り付けによるところが大きいという。本家のオペレッタのエッセンスを欠かすことなく、バレエというサイレンスの世界に「粋」と「洒脱」を練りこんだプティの振り付けは、座ったままのボディラングエッジですべてを表現してみせる落語にも擬せられる。
先にあげたジゼルや白鳥といった演目は、有名ではあるがダンサーの実力を測り窺うにはそれなりの経験と審美眼がいるという。オペレッタがオペラという形式主義、重厚な芸術から庶民のものとして尊ばれるならば、オペレッタを起源とする本作も軽く、分かりやすいものがいい。その素人好みを満足、満喫させるのがウィーン国立劇場の「こうもり」である。
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美しい「大和魂」に収斂されたのが残念  東京バレエ団「ザ・カブキ」

2012-01-01 | 舞台
黛敏郎という人は、音楽的功績はよく知らないが、そのド右翼・超タカ派の言辞はよく見聞きしていて好もしいとは思っていなかった。そして、今回の演出に黛ならではの、というか黛であるからこそ描かれた世界にかなり辟易したのが事実。
そもそも、ベジャールの誤った日本(史)理解を前提に、日本人も知らない、理解できないような日本像=ヤマト像を描き出したのが間違い。武士道も、忠臣蔵も、その肯定的評価と同時に、否定的・前近代的側面を十分に知った上で、武士道も、忠臣蔵も楽しんでいるのではないか、多くの日本人は。しかし、描かれているのは、武士道すばらしい、日本すばらしい、忠臣蔵最高である。
象徴的なのがラスト、大きな「日の丸」で終演。「日の丸」については賛否はもちろんあるが、その当否はさておき、「日の丸」が日本国民、全国で一般化するのは明治以降。18世紀の忠臣蔵の時代にはそぐわない。そもそも、忠臣蔵事件に喝采した江戸の庶民は知らない記号なのだ。そして、忠臣蔵そのものが、きれいごとだけではないというのが史実上も分かっているのに、それを全く無視した脚色もいかがなものか。
ところで、筆者は白状すると時代劇や忠臣蔵が大好きである。忠臣蔵については上記誤った描き方はもちろん、四十七士の名前と功績を覚えた身からすると、突っ込みどころはたくさんあるが、日本贔屓と、武士道あるいは忠臣蔵は直接なんの関係もない。だから、忠臣蔵を描くなら黛の国粋主義、大和魂とは分けてほしいのだ。
ダンスの演出そのものはとてもおもしろかった。東京バレエ団は男性ダンサーが充実していることで有名だが、あれだけの数をそろえることができるのはすごい。しかも、高岸直樹や後藤晴雄などもう40歳をとうに超えた現役ダンサーが迫力のパフォーマンスを見せるあたり、東京バレエ団は、男性ダンサーに不自由しないのが明らかだ。いや、男性ダンサーこそ東京バレエ団の真骨頂かもしれない。でも女性ダンサーでは吉岡美佳や上野水香ももちろん健在である。
演出は、これでもかというほど変化に富み、楽しい。時代劇をバレエで表現するなんてどうするのだろうというこちらの杞憂をさしおいて、次々に繰り出す舞台演出とそれに見合うダンス。バレエでは関係のないバク転の演出もあり、出演者の身体能力の高さ頼りの面もあったが、次々に繰り出される新幕には、全体で2幕構成であるのに、工夫されている場幕には、かなり楽しめた。ただ、海外公演ならジャポニズム好きの西洋人には面白いだろうが、少しやり過ぎのところはある。ともあれ西洋人の描く日本像は十二分に描かれているし、ダンサーの適格性も間違いない。東京バレエ団はシルヴィ・ギエムでも最高のパオーマンスを見せた(http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/546f65edbad47f48c6c2332a58c8a454)。であるからこそ、期待したいのだ。ベジャールの描く決めつけの日本像ではないものを。そして、忠臣蔵はもちろんいいのだけれども、大和魂と関係のない解釈で。
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ボレロ復活  シルヴィ・ギエムwith東京バレエ団

2011-11-05 | 舞台
信仰心はとんとないが、宗教的厳かさに満ちあふれている作品にはしばし感涙してしまう。ミケランジェロ「ピエタ」、ヤン・ファン・エイク「神秘の子羊」…。そして今回、シルヴィ・ギエムの「ボレロ」。前2者はまぎれもなく宗教作品であるが、ギエムの「ボレロ」は一介のダンスにすぎない。いや、「一介の」などとは言えないのがギエムのすごいところである。
伝説の名演となった東京バレエ団での「ボレロ」を、ギエムは2005年を最後に踊らなくなった。その理由を知る由もないが、東日本大震災を見て、日本にファンが多い、ギエムが、そのボレロの封印を解き、再び踊ることになった。そのわけをギエムは「震災前にこの作品を通して結ばれた私と日本の観客との絆を再確認するため、そして日本を心から愛していたベジャールの魂を日本に連れてくるため(中略)「ボレロ」は過去の思いでとともにあり、心を奮い立たせてくれる強いエネルギーを与えてくれる作品。だから未来へ前進しなければならないいま、「ボレロ」を踊るのはとても重要だと思う」。(新藤弘子 公演パンフレット)説明は要らないだろう。震災がボレロで解決するわけではもちろんないが、ギエムなりにダンサー、アーティストとして何ができるか考えたのだろう。福島原発事故を目の当たりにして来日を中止した芸術家が多い中、ギエムは来ることを選んだのだ。
19歳でパリ・オペラ座のエトワール、ヌレエフの秘蔵っ子、数々の名演は言うに及ばず、その元となる類希な身体能力、「超」超絶技巧…。ギエムを表現することは容易いが、ギエムのその時々のパフォーマンスを説明するのはそれほど容易くはない。しかしこれだけは言えるだろう。あの研ぎすまされた肉体、それは、まるで乳房以外はすべて筋肉で、皮膚のすべてが筋肉と化したあの作品。そうギエムの身体そのものが作品で、その作品を使って新たな作品、パフォーマンスを生もうとするのだから、それはもう贅沢というほかない。
ギエムのアートを見て涙が落ちたのは、美しかったからの一言につきる。ボレロは作品の成り行き自体が、妖艶な美神にひれ伏す男どもか、孤高のシャーマンを崇める凡俗どもかと表されるが、ギエムはシャーマンであり美神である。美神=ミューズは、安置されることによりその美神性を確認することになるが、ギエムは進化する肉体であり、その伝説は進化する(まさに「進化する伝説」 シルヴィ・ギエム http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/49ab52fd043341d9fd82d1b063ce307b)。繊細にしてヨーロッパ人らしく大柄な、というより、カマキリのように長い手足、を自由に操るとき、暗闇にその四肢で無駄なく弧を描くとき、ギエムはもう人ではない、アートの結晶である。時空を超えたアートの完成品に出会うとき、この一瞬あるいはその時々の美しさを感受したとき、その美を表現する前に涙は落つることをゆるしてほしい。(ポスターは2005年公演のもの。ただし、ギエムの鮮烈さはなんら変わらない)
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世界一ゴージャスな舞台 ABTのドン・キホーテに納得

2011-08-01 | 舞台
賭け値なしで面白かった。情熱の国スペインの単純明快なストーリーがよかったのかもしれない。とことん狂言回しに徹するドン・キホーテと従者サンチョ・パンサ。ドン・キホーテはあこがれの対象を探し求め、村娘キトリにその姿を追い求めるが、キトリには許嫁バジルが、キトリの父親はより有利な結婚をと貴族ガマーシュをあてがおうとするが…。
全編明るく陽気さに満ち溢れていて、古典バレエにお決まりの悲恋、悲劇が全然ない。キトリが恋するバジルも他の女性に気を向けるなどだらしなく、キトリとの愛が成就しないと分かると自殺のまねごとをするなど茶目っ気たっぷりで、そのユルさをキトリはじめ、キトリのバジルとの付き合いを許さない父ロレンツォやガマーシュさえも受け入れているようなこれまたユルさが感じられて楽である。
ユルい、ユルい物語のどこが魅力的か。それは、ABTの誇る大柄、ベテランダンサーらの大技の連続があるからである。バジルを演じるホセ・マヌエル・カレーニョはABTの顔そのものでキトリ演じるパロマ・ヘレーラともども中南米出身の華やかさの頂点のような存在。大柄なヘレーラを片手でリフトしたり、片足を垂直にあげたまま回転する(名称を知らない)大技、パロマも回転につぐ回転などまさに超絶技巧の数々。大仰、大技大好きにはたまらない演出で、そこにしっとりしたダンスなど微塵もない。分かりやすく、幸せなダンスを飾るのは、女性ダンサーが男性をはさんだ(?)状態で宙に浮くフィッシュ・ダイブで決まりである。
アメリカ、NYを代表するカンパニーの一つABTは双璧のニューヨーク・シティ・バレエ(NYCB)が古典をほとんどしないのに対し、幅広い演目をこなす。だからドン・キホーテのような原作は古典を拾いながら、いわば古めかしくない演目も上演し、それをこなすスター人がいるということだろう。風車にぶらさがって落ちるキホーテや、彼にきれいな地元の女性の情報を集めるパンサなどドタバタの中にも、次のもっと大胆なパ・ドゥ・ドゥを期待させる演出は最後まで飽きさせない。それを支えるのが件のプリンシパルたち。
あのような明るく、なんの外連味もないパフォーマンスには大柄、大仰、大づくりのダンサーが似合うに違いない。同じ大柄でもロシアやドイツに代表されるヨーロッパのカンパニーとは一味もふた味も違ったまさにゴージャスなABTの楽しい一夜であった。
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クラシックの技術、モダンの運動量に歓喜   ベジャール「80分間世界一周」

2010-11-28 | 舞台
モーリス・ベジャールは名前こそ知っているが、現代バレエの発展にどれほど貢献したか、実はよく知らなかった。恥ずかしいことだが、それが本公演でその「貢献」を垣間見ることができた。クラシックではないモダンであるが、クラシックの基本的要素を押さえていないと表現できない振り付けであったからである。
とにかくものすごい運動量である。クラシックの世界ではギエムや吉田都など40を過ぎても一線で活躍するダンサーもいるが(もちろん、ギエムも吉田ももう本格的クラシックから退いている。が、森下洋子のような例もある。)、ベジャールのあのクラシックのテクニックをパーフェクトにベースとしたモダンを演れるのは若い時だけだろうと考えるからだ。公演後には体重が何キロか確実に減っているのではと思うくらいの運動量である。
「80日間世界一周」は有名な映画。で、「80分間世界一周」。このコンセプトがまた面白い。実際は95分もあったが、その分通常幕間にある休憩が全くなしのぶっ通しである。イントロダクションで旅人が現れ、セネガル、サハラ、エジプト、ギリシャ、ヴェネツィアと流れるが、よくある西洋から見た中東観(オリエンタリズム)は感じられない。ラ。バヤデールやくるみ割り人形などバレエの代表作ではこのオリエンタリズムが気になったものだが、本作はそれが微塵も感じられないだけでも、大成功である。
日本人ダンサーの那須野圭右もいて、人気が高いが、那須野の運動量も半端ではない。そして男性ダンサーが多くの場合上半身裸なのは、あの運動量であればコスチュームなど邪魔になるだけであるからである。
一つひとつの振りはおそらく、よく分からないが、クラシックバレエのオーソドックス、アントルシャ(足の組み替え)だの、トゥール・アン・レール(2回転)だの(用語はもちろん事典で調べた)加味しているのであろうが、その展開の速さ、その合間合間にはさまれる独特の動きといったらない。リフトももちろんあるが、その下ろし方も変わっている。そう、これはクラシックの中のモダン、モダンに名を借りたクラシックなのだ。そういう意味ではモダンよりクラシックを見る機会の多い(それほどでもないが)筆者などはモダンも美しいと感嘆できる要素をふんだんに包含していること、それこそがすばらしい。コンテンポラリーになるともはやダンサーがクラシックの大家であること自体が分からない(少なくとも筆者は)複雑、あるいは予想外の振りもあるが、ベジャールのモダンはクラシックをスピーディに、従来とは違う解釈を加味すればこうなるのだと納得させられる要素が大きいと思われる。
80分(95分)が短いと思わせるほど息もつかせぬ展開だった。80分で堪能できる世界一周とは眉唾と思うなかれ。地球をめぐる躍動の頂点がここにはある。
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ロミオとジュリエット   2010英国ロイヤル・バレエ団公演

2010-07-06 | 舞台
ロミオとジュリエットというとバレエより映画や演劇で有名なので、今更あらすじを確認することもないのが幸いした。ただ台詞のない分、踊りでどれほど登場人物の感情を表現できるか興味深かった。
ジュリエット役のロベルタ・マルケスは西欧のバレエ・ダンサーにしては大変小柄(ブラジル出身という)、ジュリエットの少女のイメージがよく出ていた。もちろん04年からロイヤル・バレエ団のプリンシパルをつとめるだけあり、そのパフォーマンスは申し分ない。親が決めた婚約者を嫌がる様、ロミオに会ったときのときめき、ロミオとの二人きりの夜、そしてロミオの死を知ったときの絶望。表情も豊かで、その軽やかな舞は戸惑い、幸福、悲嘆をポアントのまま10メートル以上もバックする繊細な動きで表現。随所に見える完璧な基本動作の数々は、幼く可憐で、その無知さ加減もよく出ていて喝采ものだった。
数幕に渡る演目では多くのプリンシパルは登場しっぱなしではないという。その例外が「うたかたの恋」のルドルフとロミオなそうな。出っぱなし、踊りっぱなしで、ハードなことこの上ない。その上、今回はジュリエット役が小柄な相手とは言え、リフトも多い。男性ダンサーはつくづくハードだなと思ったのが今回で、それをこなしたのがスティーブン・マックレー。マルケスと同じ年にロイヤル・バレエ団に入団し、ロミオ役ははまり役なそうな。バレエの男役というとたいがい単純、幸福と絶望を繰り返し演じる単細胞である。というか、やはりプリマの相手役に過ぎないという部分はある。けれど、それでもキュピレット家に対する敵愾心あらわに血気盛んな様、友人が倒されると思わずキュピレット家のティボルトを刺し殺し、死んだように寝ているロミオの後を追って自ら命を絶つ。ばかである。
そのばかさ加減がマックレーの踊りにはよく現れていた。そして美しかった。バレエにおける男性ダンサーは(女性ももちろんだが)美しくなければならないという原則中の原則を体現してくれていたとも言える。表情とともに振りが大きく変化するジュリエット役のマルケスとともに大げさな動作で、といっても、超絶技巧は多くない。それがよいのだ。
全3幕、結構長いステージに飽きさせない甘美を送ってくれたロイヤル・バレエ団の実力に満足の公演であった。
ただ、兵庫公演は最終日だったので、カーテンコール後になにかサービスがあるかと期待したが、わりとあっさりしていた。疲れていたのか、ロイヤル・バレエ団のしきたりとしてそうなのか分からないが、それはそれでよし。本編の感動が薄れるものではないから。
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少しでも長く現役でいてほしい  熊川哲也「海賊」

2010-03-07 | 舞台
「海賊」は熊哲のオハコで、数年前行ったところ熊哲が直前に足を負傷し、急遽代役で公演されたことがあり、とても残念だったことを覚えている。
 今回初めて会う熊哲の「海賊」はさて。
 イギリスの詩人バイロンによるロマン主義物語の原作とは大分違うようであるが、もともとイギリス、西欧のアラブ観、ユダヤ観がかいま見えるオリエンタリズム性は致し方ない面もある。そしてDVDで見たキーロフ・バレエ団のそれはその特徴が強く出ていたが、熊哲の「海賊」はそれがかなり薄められていて、かつコンパクトである。キーロフ版が3幕であるのに対し、2幕構成である。ただし上演時間は熊哲版の方が長いようである。
本演のもっとも面白いところは男性ダンサーによる群舞。コール・ド・バレエといえば、女性ダンサーが定番でその美しさがウリの作品も多い中で、海賊は男性集団であるから男性による群舞。当たり前と言えば当たり前であるが、意外なうれしさと言ったらいいだろうか、通常の女性コールドのようなアラベスクが延々と続いたりせず、コミカルかつアグレシッブである。これら振り付けを考えるのが熊哲の仕事。バレエの基本的動きに加え、側転や相方を乗せるような動作までするまるでアスリートさながらである。
 開演当初おとなしい振り付けだなと思っていたら、どんどん激しくなってくる。そしてメドーラを演じた荒井祐子とアリ役の熊哲の超絶技巧も楽しめる。クラシックを引退した草刈民代がビルエット(回転)する時、音楽に合わせて速さを保とうとすると軸足が大きくずれてしまい、己の体力的限界を感じたからとテレビでしていた。荒井の軸足はもちろんずれない、すばらしい速さだ。そして熊哲。男性の場合はグランド・ビルエットと言うらしいが、足を大きく水平に上げたままコマのように回る様は熊哲ももちろん超絶技巧の持ち主で、かつ38歳とは思えぬ動きだ。しかし、望遠鏡でよく見ると踊った後の熊哲の肩が震えていた。それはそうだろう、この熊哲の回転をいつまで見られるか。
 知人の熊哲ファンが、ジャンプしたとき、後ろの男性ダンサーの誰より高さが足りなかったと指摘していたが、それでもよい。美しかったから。
 そしてダンサーとしては決して大きくない熊哲が、イギリスで大きな西洋人バレリーナを持ち上げてきたことを思えば、日本人バレリーナのリフトなどそれほどでもないのかもしれない。しかし、現役を続ける限りはまた見てみたいと思う。
 
 
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