映画の背景を最初知らなかったので、中東のどの国か分からなかった。けれど女性がブルカなどのイスラムの厳格な装いをしていなかったこと、多くの移民が暮らしている下層の街であることが窺い知れ、レバノンではと感じた。的中したが、それを自慢したいわけではない。シリアからの難民が隣国に多く流れているとか、その生活実態がきついものであるとか聞いていたかもしれないのに、それくらい、レバノンの現状に疎かったということだ。
ゼインは12歳くらい。親が出生届を出していないから、法的には存在しないのだ。ゼインには兄弟がたくさんいる。が、年下ばかりだ。この理由(わけ)はすぐに知れる。ゼインと仲よかったすぐ下の妹、サハルが生理が始まった途端、結婚させられるのだ。レバノンでも11歳での結婚はもちろん合法ではないが、結婚相手はゼインが両親を訴えた法廷で「11歳の結婚は私の地方では普通です。そしてサハルは“十分熟していました”」と言い放つ。ゼインの親が貧困のため、サハルの結婚相手から鶏1羽を受け取ったこと、サハルが未熟な体で妊娠、出血死したこと、自分も出て行けと言われたこともあり、ゼインは両親を訴える。「世話できないなら産むな」と。
ゼインもサハルもその下の子供達も働き通しだ。街で、自家製ジュースを売り、薬物をしたした衣類を刑務所で売りさばき、ゼインは家主の店(主人はサハルを娶ることになる)で配達もこなす。もちろん学校には行っていない。両親も移民で仕事をしていない。やっていることといえば子作りだけ。そしてサハルより年上の姉らは「児童婚」を強いられていたのをゼインは見ていたのだ。
本作が提起する問題はいくつもある。シリアなどの移民が隣国レバノンに押し寄せているのに無為無策であること。そもそもそのように国を捨てる移民が大量発生するシリア内戦の解決が米露を始めとする国際社会が見出せていないこと、レバノン国内の移民の居住地域をスラム化させている現状、そして(レバノンでももちろん違法で、レバノンはキリスト教徒が多く、イスラム原理主義勢力が強いわけではないのに)児童婚をゆるしている国内状況など。一つひとつが解決するには多大な労力を要すると思うが、本作はだから撮られたのだろう。知ってほしいと。
監督・脚本・主演(ゼインの弁護士役)をこなしたナディーン・ラバキーはフィクションである本作をドキュメンタリーに見えるがごとく徹底的にリサーチして仕上げたという。そしてゼインを始め、ゼインを助けるエチオピア移民のラルヒ、ゼインの両親、サハルなどすべて本業の役者ではない。ゼインが出生届けがないのに弁護士の奔走などで身分証明を得て、北欧に移住(もちろん映画の両親ではない)したのは事実なのである。
日本でも児童虐待が問題視されている。その多くは直接的暴力や、ネグレクト、そして主に父親から女児に対する性虐待の事例だ。そもそも親の養育能力が欠けているのをソーシャルワーカーや児相が懸命に(多くの場合、そうに違いない)ケアしていたのに、そこから漏れた事案が悲惨なことになっている。この国では、学校に行かせず、児童婚を強いる案件はさすがにないと思っていたら、やはり学校に行っていない子どももいるそうだ。公教育を受けるべきかどうかはさておき、教育を受ける権利は憲法にも規定されており、親が教育に関心を持たない事例は確実にある。であるから、親の教育力(とその背景にある貧困、自己評価の低さなど)を無視して、テストの結果が悪い学校には予算配分を減らすなどいう大阪府・市の姿勢は現実と原因を理解していないなにものでもないのである。
しかしゼインの逞しさには恐れいる。突然ラルヒが帰ってこなくなり(不法就労で拘束された)、その子ヨナスの面倒を見、現金収入を得ようとする機知と実行力は、移民を「移民でない」と見えない存在にしようとしている日本社会では想像を超えている。だからと言って自己責任力の最たるものとしてのゼイン的な生き方が子どもに求められる社会も健全とは言えないだろう。自立とはかくも難しい課題であって、それが求められる年齢と背景を考えさせるのが本作の魅力だ。
で、今回の東京美術館ぶらぶらの最大の目的「塩田千春 魂がふるえる」展である。塩田千春のあの無数の糸を紡いだ作品はずっと気になっていた。今回、初めての大規模な回顧展には理由があった。塩田が本展のオファーを受けた直後にガンの再発が見つかったのである。今やガンは多くの場合「死に至る病」ではないが、抗がん剤治療をはじめとして、無為無策で過ごすことはなく、その不安感、切迫感は想像してもあまりあるものがある。筆者自身、定期的にCTR検査を受けているが、何も出なくても万全ではない。では他の部位の腫瘍、腫瘤はないのかと。
塩田は子宮ガンの後に授かった娘さんにこれは残そうと考えたのか、それは、知る由もないが、鬼気迫るものがある。そして、塩田の作品は、そこまで徹底するかとの思いを抱かせるに十分な迫力がある。ただ、作品を塩田自身の病魔との闘いにだけに帰するのはむしろ失礼だろう。ベルリン在住の塩田は移民の国ドイツにあって「他者」である。しかし、他者とはネイティブでないから措定されるものであろうか。ドイツに移住まもない頃7回の転居を余儀無くされた塩田は、逆にドイツの現実を知った。しかし、移民の立場的な塩田にも表現の場は保証されていた。ベルリンの現代アートの発祥地タヘレス。東ベルリンに位置したタヘレスでは、アーティストが勝手に移り住み、様々な表現を試していた。塩田はタヘレスに住み込んだわけではないが、タヘレスに集う現代アートの息吹には十分触れたことだろう。そして東と西の両ドイツ、両ベルリンを体感することになる。「窓の家」(2005)は、旧東ベルリンも含めて訪ね歩いたそこかしこで集めた取り壊される建物にあった窓たちの標本。窓は古くは絵画が現実との繋がりの表象とされたが、塩田の場合、おそらくは東と西であろう。それほどまでに東側と西側では、ルネサンスとそれ以降という歴史的変奏をもしのぐ変化を体験することができるのがベルリンの実相であったのではないか。しかし塩田の射程は、近頃喧伝される「分断」に止まらない。それは、自身が移民であるという立場と無縁ではなく、そこには移動と漂流の不可分性をも映し出す。古いスーツケースが無数、宙づりになる「集積 目的地を求めて」は、半ば自身の道行をも表しているようだ。しかしそれは必ずしも悲嘆ではない。なぜなら塩田の作品には何か突き抜けたスケールが感じられるからだ。塩田のトレードマークである幾万もの紡いだ赤い糸。そして黒い糸。赤は生命を、黒はその反対を表現しているように思えるが、2度のガン発症という生と死を改めて感じた塩田ならではの感性と読むのは穿ち過ぎか。
世界を相手にしている芸術家というのはそれだけでインターナショナルとかコスモポリタニズムを要請される。言語も文化も出自とは違う場所に身を置いて、表現活動を持続させるには出自の国の人だけを納得させるものだけではもちろん足りない。どこか普遍性や持続性、あるいは現代(同時代)性を感じさせる必要がある。ドイツはカッセルで5年に1度開催されるドクメンタは社会的メッセージの色濃い作品が多い。塩田の発現はまさに「魂」が根本にあるのだろう。生と死も、移動も、身体とその全体化もパーツ化も。
初めて塩田の作品を意識したのは確か横浜トリエンナーレ(2001年)での度肝を抜く大きさのドレスに水が注がれる作品(「皮膚からの記憶」)であったように思う。健康に留意されながらまた私たちの度肝を抜いて欲しいと思う。
ジュリアン・オピーは多分「松方コレクション」に出てくる印象派の巨匠より、圧倒的に知名度が低い。その証拠に訪れた時はガラガラだった。画家というのは生前、大いに売れて観客がどっと押し寄せるというのは稀な例で、印象派で言えば、19世紀は画廊に展示の時代であるが、画廊にどっと押し寄せるというのはなかったに違いない。後期印象派にカテゴライズされるゴッホなどは生前売れたのはたった1点だったのは有名な話である。そう言った意味では現代美術の作家は取り上げられるという意味ですでに幸せで、かなりの有望株ということになるのであろうが、ジュリアン・オピーはもう回顧展「的」なものが開かれている。
かなり注目していた。あの簡易、平易なクロッキーは誰にでも描けると思わせるようで、そう簡単ではない。ピカソやモディリアーニがなぜすごいのかというのは、素描を中心にした展覧会に行ったことがあって、その基本的デッサン力の高さに驚いたからだ。オピーのあの平易なクロワニズムには基本的デッサン力が基底にあるに違いない。ピカソで言えば、人物をキュビスム的に表現しようとすれば本来のフィギュアを明確に捉えていないとできない、というのが筆者の持論だが、多分間違ってはいないと思う。細かい話になるが、ピカソがキュビスムを実験した当初、プロトキュビスムの参考にしたのはアフリカの工芸、プリミティスムであって、それを科学的に発展させたのが、1907年に制作された「アヴィニョンの娘たち」(MoMA)であり、これが分析的キュビスムの嚆矢となった。であるから、オピーの平板な人物像は、本質的人物把握ができていないと表現できない地平だと思うのだ。
けれど、オピーの魅力はそこにはない。極端に単純化された顔、目は点でしかない。四肢の動きは余計な要素を全て削ぎ落としても表現できるというオピーの技が光っている。例えばピクトグラムは、その土地の言語が分からなくても、あるいは字が読めなくても、トイレであるとか、そこが何を表すのか理解できるようになっている。オピーのそれはピクトグラムではないが、少々乱暴だが、大人の男女であることがすぐに分かり、そして何らかの職業や世代も匂わせる。そして、動画では、何とも好もしく全員がゆるく走っている。さらに1動画につき、登場人物はせいぜい4〜6人くらいであるのに、走る方向や色使い、他者とのすれ違い方などでもっと多くの人物が登場すると錯覚させるから不思議だ。特にゆる〜く走っている人に見とれていると、あんなに単純なタッチであるのに、時間を忘れてしまう魅力に溢れていて、そして頰が緩んでくる。まるでディック・ブルーナの絵本に見入っている子どもの視線になれるのだ。
簡単、平易なデザインは盗まれやすいし、模倣に遭いやすい。キース・ヘリングのグラフィティが、「バッタもん」商品として広く流通してしまったことは有名で、ディック・ブルーナのデザインでは、その保護と流通のための厳しい知的財産権保護の会社を設立している。オピーのタッチも盗まれることなく、まだまだゆる〜く楽しませてほしい。
近代絵画史には画商、画廊の存在が欠かせない。アカデミーなど国家が管理する芸術から、画家から買い取ったりして、市民に売り立てする商取引を成立させる不可欠なディーラーだったのだ。画家もそういった存在無くしては後世に残ったかどうかは分からない。バルビゾン派や印象派を支援したポール・デュラン=リュエル画廊、ピカソを独占的に紹介したダニエル=ヘンリ・カーン・ワイラー画廊など。だから今回の松方コレクションの展示方法は、当時の松方の興味関心とパリの画壇の勢力関係等が垣間見えて興味深いが、壁に上下並べて展示する当時の画廊のやり方といい、鑑賞者には少し分かりづらいかもしれない。
国立西洋美術館が松方幸次郎の収集した作品を展示するために設立されたのは有名だ。今回は設立60周年を記念して、コレクションの全貌の一端を紹介するとする。「一端」とは松方が購入した1万点にも及び作品のうちその多くが行方知れずで、今回の目玉は、フランス政府が戦後返さなかったフィンセント・ファン・ゴッホの「アルルの寝室」やアンリ・マティスの「長椅子に座る女」、ハイム・スーチンの「ページ・ボーイ」などが集められているからだ。
そして今回松方自身のヨーロッパでの美術品渉猟には松方が日本軍のスパイ活動を隠すための行動だったのでないかとのその本当の目的も話題だ。確かに川崎造船の社長であり、第1次世界大戦での船舶需要を見込んでストックボート(受注生産ではなく予め製造しておいて売却)で富を得た松方が、単に美術愛好家としてだけ動き回ったとは考えにくい。ただこれには確かな証拠が発掘された訳ではないそうでもある。しかし松方が日本の若い芸術家に本物を見せたい、美術館を造りたいと考えたのは本当だろう。実際、松方が全福の信頼を寄せていたイギリス人画家フランク・ブラングインに美術館の設計図まで依頼していたのであるから(共楽美術館)。だが、関東大震災と金融恐慌でその計画は頓挫し、松方のコレクションも四散することとなったのは周知のとおりである。
富豪がその財をして美術品をコレクションし、美術館建設によって社会に還元するというのはよくあることで、アメリカのバーンズ・コレクションは製薬業、ゲティ・センターは石油王、ライトの建築で有名なソロモン・グッゲンハイム(美術館)は鉱山王である。最近では不動産業で富を得たブロード夫妻のコレクションを集めた美術館がLAにオープンした。かの国の大統領も不動産業で金持ちになったらしいが、その使い方は?それはさておき、だから富豪が美術館建設を構想するというその意思は尊重されるべきものとしても、その前提として大きな収奪があったことは見逃せない。そして松方の場合、戦争特需を見越してというのであるから兵器弾薬を売った訳ではないから「死の商人」とまでは言えないかもしれないが、そういう姿勢であったのは間違いない。例えば人気の高い歴史上の人物として坂本龍馬を好む人は多いが、坂本が薩長戦争に目をつけて、スコットランド人武器商人トーマス・グラバーから大量の武器弾薬を買い、売りさばいた「死の商人」であった事実も忘れるべきではないだろう。
絶対王政がなければルーブル美術館もなかった。美術品が後世に残されているという現実はこれらの史実とセットとして考えなければならないし、戦後、松方コレクションが和平の証としてフランス政府から返還されたというのもまた史実である。そしてナポレオンや大英帝国の例をあげるまでもなく、美術品の真の所有者は誰か?という本質的な問いを美術の世界は常にはらむし、その交渉、経緯を通して平和が持続するという営みも同時にあり得る。さらにコレクションの一つひとつをじっと楽しむことができるのも、今回のような企画がなされた要諦であるというのも実感する。
実はちょっと恥ずかしいが、映画を観終わったあとで、思い出した時に結構号泣涙してしまった作品がいくつかある。「非情城市」と「エレニの旅」。前者はいうまでもなく台湾が誇る候孝賢(ホウ・シャオシエン)の最高(と筆者が思う)傑作、後者はギリシャの巨匠テオ・アンゲロプロスの抒情詩の名作である。「アマンダと僕」が3作目になってしまった。
シングルマザーである姉のサンドリーヌ、その子アマンダ7歳と平穏に付きっているダヴィッドは24歳。アパート管理の仕事で知り合った新しい入居者、地方出身のレナともいい感じだ。しかしレナを含め、友人らとピクニックに出かけたサンドリーヌは突然の凶弾に命を奪われる。レナもピアノ講師として大きなハンディを背負う怪我を負う。
残されたアマンダとダヴィッド。悲しむ暇もなく、アマンダの送り迎え、夜は家を空けられない生活に投げ込まれるダヴィッド。傷ついたレナは故郷に帰ってしまう。アマンダを養っていく後見人になるか、児童養護施設に入れるのか、重い選択を迫られるダヴィッド。サンドリーヌと自分が幼い頃に捨てた母親アリソンの住むロンドンに会いに行くダヴィッドとアマンダ。彼らのこの先は。本作の魅力はサンドリーヌを突然死なしめたテロリズムや、その加害者に対する怒りや怨嗟を一切描いていないところだ。パリ同時多発テロを経験した彼の地ではテロは恐ろしいほど身近なのかも知れない。しかし、近しい人を失った悲しみはテロリズムへの怒り、憎しみを超えるのだろう。
淡々とすすむアマンダとの日々。亡き父の妹モードの家に預けたりするが、フランスでは小学生は必ず送り迎えが必要で、ダヴィッドは遅れがちだ。でもアマンダも健気にしっかりとしている。ダヴィッドがサンドリーヌの歯ブラシを捨てると「なぜないの?元に戻しておいて!」と毅然と言い放つ。喪失感は簡単には消えないが、それを無理やり消そうとすると新たなスティグマが発生する。アマンダの指摘はそういった大人の合理性、せっかちな部分を指弾するもので、癒しは時間とともにあるとの紛うことなき真実を言いあてている。精神的なダメージを恢復させる癒しとは本来説明のできない回路を辿るものだろう。本作はダヴィッドの視線に立ちながら、アマンダを中心に、周囲の人の何気無い日常を丁寧に掬い取り、寄り添うかのような描き方が秀逸だ。それもこれも監督がたまたま見つけたというアマンダ役の映画初出演のイゾール・ミュルトリエが素晴らしいからだ。幼さと気丈さと成長する機微を丹念に演じているが、演じているとは思えない。
日本でも阪神大震災以降、度重なる地震、台風といった自然災害、人間の科学信仰、無謬信仰の象徴である福島第1原発事故、そして犯罪事件。しかし近しい人、親しい人を突然奪われる厄災の最たるものといえば戦争であろう。そして戦時体制下に反戦を理由に弾圧され権力に命を奪われた人たち。そういった戦争で奪われた命への補償や謝罪は時として無理やり忘れ去られ、無視され、時にそういった姿勢が強固な反発に遭う。反対に、犯罪被害者遺族は、周囲やマスメディアの要請により本人が感じている以上の許さない感情を求められる。これは逆説的だ。国家がなす大きな暴力には口封じられ、より小さな個人の暴力には復讐心を煽られる。しかし、残された者に何らかの癒しが必要なことは違わないだろう。
折しも京都アニメーションの放火事件で多くの命が奪われた。京アニによって、救われたという若い人が映し出されているが、遺族や彼ら彼女らとって、悲しみや痛みが犯人への憎悪より先に生まれる感情ではないだろうか。だから遺族や献花に訪れた人に犯人(とまだ刑事裁判的には確定したわけではない)への気持ちを聞いたり、亡くなった人がどれほど愛される仕事をしてきたかを過剰に喧伝することに違和感を感じてしまうのだ。
それほど知っている訳ではないが、日常のパリ風景もなんか懐かしい。日常を大切に生きる、それには色々な回路が必要だ。それが癒しというものかなと感じる作品だ。