kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

きみの友だち

2008-08-17 | 映画
高校時代のクラスメイトが東京の大学に進学して間もない4月だったか5月だったかに交通事故で亡くなった。彼は少し生意気で横柄で、他者に暴力を振るうような人ではなかったが親しくしていたわけでもないし、苦手な部類の人であった。しかし、彼の死を友人からの電話で知った時、「えっ! 死ぬような奴に見えんかったし」と思い、お葬式には行った。葬式会場で私に電話をくれた人だったかどうか覚えていないけれど、彼は死んだ友人のことを「Aは勉強は嫌いだったけれど、学校は好きだった」と評していたことを思い出した。
そう、彼は学校が好きだったのだろう。葬式に来た人の数を見ても友人が多かったようにも見える。学校に行けば友だちに会える。友だちと今日何をしよう、午後は?部活は?恋の話や他の友人のうわさ話。思えば私は彼とは正反対であったように思う。勉強は好きだったが(もちろん科目によるが)、学校はそんなに好きではなかった。パシリ的に扱われることもあり、尊大なクラスメートには卑屈だった。幸い暴力を含むいじめには遭わなかったが、学校で勉強以外の関係があるのが苦痛だった。だから部活にも属さなかった(もちろん運動神経が鈍いというのがある)。
自分の時代には不登校や引きこもりが今ほど問題化されなかったのは、私と同じように学校にはなんとか行っていた子どもが多かったのかもしれない。中には仮面登校として。
現在不登校の子どもがこんなに多いのは一面には、友人とのつきあいの強制(内的強制)についていけない子どもが一定いるからではないか。メールを一日100通を超えるやりとりをして友だちがいる、つながっているという自己確認は反面一人でいることの大事さを見失っているように思える。
子ども時代に交わした「あなたは一生涯の友だち」「永遠の友人」は裏切られることが多い。他愛ないと言えばそれまでだが、私は、自分がそんな約束をする勇気がなくて自ら口に出さなかったし、言われるようなシチュエーションに飛び込むこともなかった。おかげで未成年からの友人は大学の一年後輩がいるくらいだ。

自分のことを長々書いてしまったが、映画「きみの友だち」は、子どものころの友だちの大切さ(実際に大切に思うことと、大切であることは違うのだが)、残酷さ、曖昧さを描くほろ苦い作品である。実はこのような邦画は普段あまり見ないのだが、原作が重松清ということで信用していた。松葉杖の恵美は難病の由香と二人だけの友だち付き合いをつくる。病室にいることが多かった由香は友だちを欲していて、病の子どもが描く「もこもこ雲」(友だち)をずっと探していたのだ。恵美の同級生のハナ、恵美の弟ブンの小学生時代の「親友」だった三好君、ブンのサッカー部の先輩である佐藤先輩。ああ、いるいる、こんな子。そしてそれは自分だ。
同情、嫉妬、優越感、孤独…。大人になればこれらの上に韜晦、毀誉褒貶、政治的思惑、保身が加わる。いや、子どもの頃もそれらは十分に感じているのだが、まだ不感症にはなっていないということなのだろう。
恵美の射抜くような眼、きっぱりとした口調。それに反してみんなどこか自信なげである。が、恵美以外は本当の意味で「友だち」を失うという受難を経験していない。だから「ああ、こんな子いる、いる」と言いながらどこか安心して見守れるのだ。でも由香を失った恵美は他の誰より、早く子どもを卒業してしまったのかもしれない。
主のいない病室で天井に張ったもこもこ雲の絵に号泣する恵美はどんな「友だち」も救えない。時間と、忘却という大人の特権を待つしかない。

先日、体調を崩していて長い間ごはんを一緒にしていなかった友人と、過酷な学校現場から退職した年長の友人、それにもう一人と4人で久しぶりに食事をした。お酒が好きだった友人はもうお酒も飲めず、食事制限も多い。昔のようにいつまでも飲んでということではなかったし、近況報告などに終始したが、とても楽しかった。友人らと駅で別れるとき不覚にも涙が禁じ得なかった。この人らは自分の友だちだと。

いじめをした側として注意された子どもが自殺するというニュースがあった。文科省はゆとり教育をやめるという。「生きる力」を育てると教育現場で鼓舞されたのは何年前だったろうか。友だちがいてもいなくても他者を慈しむ心は育つと思うのだが、同時に失敗から立ち上がる力は時に友だちを必要とすることもあるだろう。
夜スペでできる子とできない子を選別して学校現場に競争原理を導入して「成功」させたと喝采を浴びた杉並区立和田中学の藤原和博前校長が本作を推薦しているのには違和感を覚えた。



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死刑制度を問う  『世界』9月号を読む

2008-08-15 | Weblog
「死に神」鳩山邦夫法務大臣が交代した。2ヶ月ごとに死刑執行命令に署名し、「法相が絡まなくても自動的に死刑執行が進むような方法」まで言及した鳩山氏が法務大臣である限り、いったい何人もの人が死刑執行されるのでであろうと危惧していた。後任の保岡
氏は法曹資格者であるが、前に法務大臣であったときに死刑執行しているので当分日本で死刑が止むことはないであろう。
鳩山氏を「死に神」呼ばわりすることが適切かどうかが、いつしか法務大臣が直接の職務である死刑執行することの是非に論点が変わり、朝日新聞が被害者団体に過剰な謝罪をしてことを終息させたように見えたのだが、このような見立ては間違っているだろうか。

本題は鳩山法相のキャラクターのことではない。世界の7割が法律上、事実上死刑を廃止している現状であらためて死刑制度を「問う」ことである。先進国日本で死刑制度支持が8割との報道もある。光母子殺人事件差し戻し審判決当日、裁判長が死刑を言い渡したと法廷外に伝わったとき拍手と歓声が起こった国である。
殺人被害者の遺族が死刑を望むというのは分からないでもない。しかし、直接遺族とも関係のない人が死刑を望む、それも声高にというのは奇異な感じが否めない。それほど人の死を望むものなのだろうか。これが死刑存置80%の実態なのだろうか。

来年5月に裁判員制度が始まる。制度反対、参加したくないという理由の大きな一つに裁判など難しいもの、やっかいなものに関わりたくないというのがある。裁判官3名、裁判員6名という構成体と変則多数決、公判前整理手続には裁判員は参加しない争点の取り扱い、部分判決など制度の欠陥は多い。しかし、難しそうなものは嫌だ、やっかいなものに一般の人を巻き込まないでくれというのは明らかに主権放棄である。確かに、日本の裁判制度は民主的基盤を持たないから憲法判断には謙抑的でなければならないなどと憲法判断回避の根拠として説明されてきた。しかし、市民が参加する裁判員制度には裁判所の判断に市民が実施的に関与するまさに主権行使の機会である。そして、裁判員制度の対象裁判は死刑などを含む重大事件に限定されており、当然憲法判断と無縁ではない。

死刑制度について、日本国民は国が凶悪犯を殺してくれる制度だと思っている節がある。しかし、死刑囚を実際執行する権力を行使するのは一人法務大臣ではない。法務大臣とて選挙で選ばれた人である可能性があるし、そもそもそのような法務大臣を選出した内閣を構成するよう時の与党を選んだ、あるいは、そのような議院内閣制を支持したのは他ならぬ有権者なのだ。そして制度は国民に支持されているから生きながらえているのであり(現に死刑支持80%である)、国が殺してくれるという他責的態度は間違っている。主権者として自分が死刑制度を存続させ、そして執行するのだという意識がないのが事実であると思う。国が殺すのではない、あなたが、私が殺すのだ。

死刑を存置するなら、現在のように法務大臣のキャラクターに依るものではなく、くじで選ばれた国民が署名、あるいは現在刑務官に押しつけている執行を実際行うようなシステムにしてはどうかという提案は肯える。同時にどのように死刑囚が遇されているか、どのように執行されているのか私たちはあまりにも無知である。それほどまでに情報遮断の死刑を支持する想像力のなさこそ、主権放棄こそ恐いのだ。「天皇陛下のために」の一言で思考停止に陥り、国民こぞって死を美とした全体主義国家の経験者として。

アメリカの死刑囚の更正活動を丹念に追い、「ライファーズ」を制作した坂上香さんは、リストラティブ・ジャスティス(修復的司法)の先進的紹介者でもある。オウム真理教の信者の日常をバイアスなく映した森達也さんは「殺すな」の地平から死刑に関する近著を著している。他にも日本の殺人事件は実際には家族間が多く、遺族とは加害者であるなど冷静に犯罪白書にかかわる数値を紹介するなど本号の読みどころは多い。
偽装、涜職、言論の自由なしとオリンピック開催の中国の非民主制をあげつらう前に、中国と同様に死刑執行しまくっているこの国のことを考えてみてはどうだろう。
コメント (2)
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