kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

旧ユーゴスラヴィア訪問記③ セルビア・ベオグラード

2024-09-29 | Weblog

最後の訪問国、セルビアのベオグラードに着いた。ボスニア・ヘルツェゴビナではボスニア紛争の「被害者」としての側面を多く見た。スレブニツァのメモリアル・センターはその最たるものだろう。では「加害者」側とされたセルビアはどうか。ボスニア紛争の直接戦場とならなかった点、ボスニアに比べて非戦闘員の被害者が少ない点で、戦争を想起させるような施設はない。中国に南京虐殺の記念館はあるが、日本にはないことを見ればよく分かる。「加害者」と名指しされた側はダンマリを決め込むのだ。そこがドイツとは違うところだろう。

しかしベオグラードは紛争前のユーゴスラビアの首都。大都会である。紛争後、西側諸国はクロアチアやボスニアへは積極的に復興支援したとされるが、セルビアには冷淡だったとも。その事情を跳ね返すような煩雑ぶり。交通渋滞がひどい。ホテルからの移動は最寄りのトロリーバス停車場を頻繁に利用したが、前に進まない。余裕を持って移動しているが度々ヒヤヒヤした。そんなトロリーバスも使って参加したのが「ベオグラード 共産主義旅行」。共和国広場を起点に、共産主義時代の建物が現在ホテルとなっている様などを案内され、コソヴォ紛争の際にNATOに空爆された建物を周り、街の中心から少し離れた地にある国立歴史博物館へ。ユーゴスラビアの指導者ヨシップ・ブロズ・チトーの偉業を顕彰する施設だ。チトー夫妻の霊廟も併設されている。建物の規模はそれほど大きくはないが、周辺の広い公園敷地や霊廟を飾る花壇など憩いのスペースとなっている(もっとも訪れた日は猛暑で「憩う」どころではなかったが)。施設や公園の前に巨大なモニュメントやゲートがあり、いかにも社会主義といった趣である。チトーの若い頃から臨終までたどる展示は、詳しく、遺品も多い。展示物全ての説明書はとても読めないが、パルチザン出身のチトーは軍服姿も多い。王国から連邦共和国へ、女性の地位や工業生産の向上、ソ連に物申す非同盟の盟主。チトーを褒め称える言説は多いが、最も評価された物語の一つが、もともと複雑な民族構成であったユーゴを緩やかな連邦制によって民族紛争を防いだことがあげられる。しかし、紛争の種は常にあり、アルバニア人に対しては他の民族に比して苛烈に弾圧したとの話もあるが、そこまで展示では触れていただろうか。多分ないだろう。

チトーの死後(1980)、クロアチア、ボスニア紛争などで大量の血が流された。もしチトーがいたら防げたのにとの希望的観測?もあるが、ソ連崩壊(1991)後はもともと内包していた民族間の沸騰したお湯を、チトーという一人の鍋で押さえ込むことなどできたであろうか。こればかりは実際の歴史を後から振り返るしかない。

ツアーは共和国広場に戻って終了。そばの国立博物館はなかなかの規模で、セルビア正教ゆかりのイコン画をはじめ、バロック、近代絵画まで揃っていて見応えがある。ガイドの方に正教美術を見たいと言ったら、ぜひ聖サヴァ大聖堂へと勧められた。東方正教会としては世界大規模というその威容は、イタリアなどのカトリックの聖堂、教会のそれとも違う絢爛さに満ちている。これは聖サヴァ大聖堂自体が16世紀にトルコの侵攻によって焼失し、1935年から建造中といい、新しいこととも関係あるだろう。内壁を占めるカラフルな宗教画は素晴らしい。通常、カトリックの内壁画は、キリストの誕生や受洗、数々の奇跡、マリアの物語など聖書でイロハが多いが、ずいぶん違っているようだ。中世に強かったマリア信仰はこの大聖堂壁画を見る限り強調されてはいない。

セルビアをはじめ、旧ユーゴスラビアを去る最後の日にこのようなオーソドックス(正教の英語Orthodox)な観光ができ、眼福となった。この旅も終わりである。

(左:「国立歴史博物館」のチトー銅像(市街のいたるところにある)。右:クネズ・ミロシュ通りにあるコソヴォ紛争時のNATO空爆跡)

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旧ユーゴスラヴィア訪問記② クロアチア・ドゥブロブニクとモンテネグロ・ポドゴリツァ

2024-09-25 | Weblog

1つの国家、2つの文字、3つの宗教、4つの言語、5つの民族、6つの共和国、7つの国境。ユーゴスラヴィアをあらわす典型的な言い回しだ。今やユーゴ成立以前の6つの共和国(コソヴォを入れると7つ)に再び分かれた中でスロベニアとクロアチアは西側の支援もあり、優等生国である。中でも「アドリア海の真珠」とされるドゥブロブニクは世界遺産であり、クロアチア随一の稼ぎ頭。その分、観光客基準の物価はすこぶる高い。行き交う人も多かったがサラエヴォはどこかカントリーサイドの趣もあったが、ドゥブロブニクは観光に特化しているという面で「資本主義的」である。世界遺産指定に気を遣っているのだろう。景観も壊されず、街も清潔である。

クロアチアとモンテネグロは通貨もユーロ。その分、両国の物価は西欧基準でもある。ボスニア・ヘルツェゴビナとセルビアは独自通貨(それぞれマルカ、ディナール)。同じ国であったのに、一方はEUに加入、発展し、他方は復興から「遅れている」。ただモンテネグロはセルビアから分離独立したばかりで、主要産業もあまりなくこれからだ。その中にあって、ドゥブロブニクの南に位置する同じ美しいアドリア海を享受する旧都コトルはモンテネグロであり、同国はこの地に大きく頼っている(ただコトル旧市街からは海はあまり見えない)。

サラエヴォから長距離バスで移動した先がドゥブロブニクで、2泊後、コトルに移動した。そしてモンテネグロの首都ポドゴリツァへ。一国の首都だが、本当に見るところがない。ホテルから歩ける距離にある国立美術館もちょうど展示替え休館中だった。見るところはないが首都のビル群。暑さは変わらないので結構難儀した。

ところで、サラエヴォからドゥブロブニク、ドゥブロブニクからポドゴリツァへは陸路で入国したので前者はバスを降りて、後者は運転手がこちらのパスポートを預かってパスポートコントロールに示しただけですぐに越境できた。元々一つの国なのだ、多分親戚がいる国民も多いだろう。ポドゴリツァへ行きの運転手は送迎の仕事で、パスポートの押印欄がなくなって2冊目だと言っていた。

モンテネグロはもちろん、旧ユーゴの多くの国が復興から遅れていると前述したが、その遅れを地元民はどう感じているのだろうか。トランプ現象に並んで、欧州の右翼伸長の解説として「ブリュッセル(EU)のエリートが、地元で汗流す労働者の声を聞かず、物事を進めることに対する反発」と説明されることがよくある。スレブニツァへのツアーガイドが盛んにナショナリズムの伸長が危険だと強調していた。ここでいうナショナリズムはもちろん、ボスニア紛争の首謀者で後に国際戦犯法廷で収監、戦犯となったスロボダン・ミロシェヴィッチなどを指すのだろう。急激な民族主義は時に近しい敵を見つけて、攻撃する。それが言論にとどまらず、武力行使になれば再び紛争、虐殺の悲劇に繋がりかねない。一方、ポドゴリツァ行きの運転手は、ボスニア・ヘルツェゴビナ人だが「政治家が悪い」とこき下ろしていた。ボスニアは、複雑な民族構成を反映して、各民族に割り当てるため国の規模の割に国会議員がとても多いし、合意形成に時間がかかる。独裁主義に陥らないための民主主義の費用でもある。難しいところだ。

ポドゴリツァは一泊だけで午後には空港へ。いよいよ最後の訪問地、そしてボスニア紛争の相手方であるセルビアのベオグラードへの渡航だ。(左:「アドリア海の真珠」ドゥブロブニク旧市街からの風景。右:モンテネグロの首都ポドゴリツァの旧跡「古い橋」)

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旧ユーゴスラヴィア訪問記① サラエヴォ、スレブニツァ編

2024-09-22 | Weblog

コロナ禍もあり、遠ざかっていた久々の欧州旅行。訪れてみたかった旧ユーゴスラヴィアを目指した。理由はまだ紛争終結から30年もたっていない地であるから。特に1995年7月に起こったスレブニツァ虐殺ではボシニャク人およそ8000人超が犠牲となり、その墓碑と近くにメモリアルセンター(https://srebrenicamemorial.org MC)が整備されているのでガイドツアーを申し込んでいた。

MCは、閉業した電池工場の建物を利用して、だだっ広い空間にパネル展示と記録映像。最初に案内してくださった施設スタッフの英語は全く聞き取れなかったが、パネルや映像は理解できる。第二次大戦や沖縄戦などテレビで放映されるような古びたものではない。つい30年前なのだ。傷つき、力無く映る人たちの様子は現代、現在そのもの。しかし間違いなく殺され、時に殺した人たちなのだ。

スレブニツァは、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サレエヴォから3時間も車で走ったセルビアとの国境も近いところ。ツアーは1日がかりだ。それでも行ってみたかった。あの悲劇の記憶をどう遺し、伝えようとしているのか。例えば規模は大きく違うが、世界遺産にもなっているアウシュヴィッツ国立博物館は見せる工夫に長けているし、スタッフも多い。ベルリンの「ホロコースト記念碑」やユダヤ博物館は、現代アートを思わせるようなデザイン性に優れていて来訪者を驚かせる。その点、MCは廃屋の工場で展示の洗練さはない。しかし、工場の事務所棟の狭い部屋に区切られた展示スペースは、テーマごとにまとめられていて鑑賞しやすいし、来訪者が必ず見るビデオも分かりやすい。どこか手作り感もある。何も立派な施設を作る必要はない。どう記憶し、つなぐかということだろう。新たな悲劇を生み出さないために。

サラエヴォ1日目の午前は最大の旧市街の繁華街バシチャルシァの街めぐり。無料であったが、ガイド女性の英語は話題が飛び、ほとんど聞き取れず。その点、午後の「1984 Olympic、1992-1995 Besieged Saraevo(1984 オリンピック、1992-1995包囲されたサラエヴォ)」ツアーではガイドの青年は紛争時まだ4歳と言っていたが、身内に兵士もいて(ボシニャク人側)歴史を伝える活動をしているそうだ。英語も聞き取りやすかった。彼とスレブニツァまで運転手兼ガイドの方も何度か口にしていたのが「reconciliation」。「和解」だ。ボシニャク人からすれば多くの人が「殺された側」、特にスレブニツァ虐殺などの記憶からすれば、被害者から「和解」を言い出すのは、彼らが一方的な「被害者」と位置付けるのを拒否しているからとも言える。ボスニア紛争では欧米側メディアのプロパガンダもあり、セルビア人が一方的に悪者と捉えられることも多かった。サラエヴォ市街にはセルビア人狙撃手が道ゆくボシニャク人を「無差別に」撃ったという「スナイパー通り」もある。でも、仕返しを繰り返していては平和は決して訪れないというのも歴史の教訓だ。

サラエヴォ・ツアーでは爆撃された病院跡や、包囲されたサラエヴォとセルビア軍の外側を繋いだトンネル博物館、オリンピックでは華やかであったろうルージュ競技場(セルビア軍が一時陣地としたていたとも)などを訪れた。街の、平和に暮らす人々の日常は戦争であっという間に壊され、それら廃墟と被害を受けた人々の思いは容易に癒されることはない。

MC近くの墓石群は訪れる者を圧倒する。ムスリムが圧倒的だったボシニャク人の墓石に混じって、正教徒の墓石もある。墓石群入り口のモニュメントには「8372」という犠牲者数を示すが、骨片のかけらなどから割り出した数字で正確なとことろは分からない。一人ひとりの犠牲も数字になってしまう。それが戦争の実相の残酷な一面でもある。(左:サラエヴォ市内の爆撃された病院。銃弾の跡が無数に。右:MC近くの集団墓地。)

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あの切なさがとても愛しい  「ぼくのお日さま」

2024-09-21 | 映画

タクヤには吃音がある。人前で話す最初の言葉が出てこない。だからあまり話さない。そんな彼をクラスメートは誰もがやりたがらないアイスホッケーのキーパーを押し付ける。でも、コウセイはそんなタクヤに寄り添っているし、タクヤもコウセイの前なら言葉にあまり詰まらない。

さくらは母の期待を受けてフィギュアスケートのレッスンに励んでいる。タクヤより少し年上、身長もある、二人に教え、アイスダンスを勧めるのは選手を引退し、コーチを務めるのは恋人五十嵐の田舎に移り住んだ荒川。五十嵐の地元は雪深い北海道の小樽近辺。タクヤ、さくら、荒川。この3人の一冬の物語。

主な登場人物が少ない。だからか一人ひとりの描き方が丁寧。話さないタクヤの心象はよく分かる。氷上に舞うさくらは女神だ。そんなタクヤの気持ちを知ってか知らずか、さくらも荒川も接する。やがて、スケートがそれほどうまくはなかったタクヤもメキメキ上達する。手を繋ぎ、揃って駆けるリンクの二人は前からコンビを組んでいたよう。しかし、成長期にある微妙な心の揺らぎ。残酷にも3人の関係は突然終わる。

監督・脚本・撮影・編集の奥山大史は本作でカンヌ国際映画祭で「ある視点」部門に正式出品された。「ある視点」部門とは、コンペティション部門とは別に主に若手(年齢というより作品数)作家の意欲的作品を取り上げるセクションで、過去には黒沢清が「岸辺の旅」で監督賞を受賞している。

本作でははっきりと描かれていない部分も含めて、どこかそれぞれ翳りを抱えている。タクヤは吃音であるし、父親もそうだ。さくらは母子家庭のよう。荒川と五十嵐はゲイカップル。そして深い雪景色が生活の音、喧騒を全て飲み込む。タクヤもさくらも思春期特有の照れと言葉の表現力に慣れていないせいか思いを表すことにはにかむ。荒川もなぜ選手をやめたのか描かれず、恋人のいる寂しい街に車で積める荷物だけで越してきている。

はっきりとしたハッピーエンドや結末がない分、いつまでも続くかのような物語。けれど思春期は短く、彼らを取り巻く環境、そして彼ら自身の変化もある。例えばタクヤのさくらに対する淡い気持ちは、北海道特有の粉雪のように春になると全く降らなかったかのように消えてゆく。タクヤは中学生になると道でばったり高校生になったさくらと出会う。ぎごちないが嬉しい。

なんと切ない物語だろう。3人が離れてしまったのは誰のせいでもない。誰かがそう仕向けたり、無理やり壊したわけでもない。けれど人間は別れるものだ。離れるものだ。特にまだ10代のタクヤとさくらには限りない将来がある。あの切ないひとときは、きっと成長の糧だったのだ。タクヤにとって輝いて見えたさくらが「ぼくのお日さま」であることは間違いないが、おそらくさくらにとってもタクヤと息のあったレッスンの時間が「お日さま」で、どこかパッションをぶつける先のない元スター選手の荒川にしても二人の子どもとレッスうが「お日さま」であったろう。

あの切なさがとてもとても愛しい作品だ。

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