最後の訪問国、セルビアのベオグラードに着いた。ボスニア・ヘルツェゴビナではボスニア紛争の「被害者」としての側面を多く見た。スレブニツァのメモリアル・センターはその最たるものだろう。では「加害者」側とされたセルビアはどうか。ボスニア紛争の直接戦場とならなかった点、ボスニアに比べて非戦闘員の被害者が少ない点で、戦争を想起させるような施設はない。中国に南京虐殺の記念館はあるが、日本にはないことを見ればよく分かる。「加害者」と名指しされた側はダンマリを決め込むのだ。そこがドイツとは違うところだろう。
しかしベオグラードは紛争前のユーゴスラビアの首都。大都会である。紛争後、西側諸国はクロアチアやボスニアへは積極的に復興支援したとされるが、セルビアには冷淡だったとも。その事情を跳ね返すような煩雑ぶり。交通渋滞がひどい。ホテルからの移動は最寄りのトロリーバス停車場を頻繁に利用したが、前に進まない。余裕を持って移動しているが度々ヒヤヒヤした。そんなトロリーバスも使って参加したのが「ベオグラード 共産主義旅行」。共和国広場を起点に、共産主義時代の建物が現在ホテルとなっている様などを案内され、コソヴォ紛争の際にNATOに空爆された建物を周り、街の中心から少し離れた地にある国立歴史博物館へ。ユーゴスラビアの指導者ヨシップ・ブロズ・チトーの偉業を顕彰する施設だ。チトー夫妻の霊廟も併設されている。建物の規模はそれほど大きくはないが、周辺の広い公園敷地や霊廟を飾る花壇など憩いのスペースとなっている(もっとも訪れた日は猛暑で「憩う」どころではなかったが)。施設や公園の前に巨大なモニュメントやゲートがあり、いかにも社会主義といった趣である。チトーの若い頃から臨終までたどる展示は、詳しく、遺品も多い。展示物全ての説明書はとても読めないが、パルチザン出身のチトーは軍服姿も多い。王国から連邦共和国へ、女性の地位や工業生産の向上、ソ連に物申す非同盟の盟主。チトーを褒め称える言説は多いが、最も評価された物語の一つが、もともと複雑な民族構成であったユーゴを緩やかな連邦制によって民族紛争を防いだことがあげられる。しかし、紛争の種は常にあり、アルバニア人に対しては他の民族に比して苛烈に弾圧したとの話もあるが、そこまで展示では触れていただろうか。多分ないだろう。
チトーの死後(1980)、クロアチア、ボスニア紛争などで大量の血が流された。もしチトーがいたら防げたのにとの希望的観測?もあるが、ソ連崩壊(1991)後はもともと内包していた民族間の沸騰したお湯を、チトーという一人の鍋で押さえ込むことなどできたであろうか。こればかりは実際の歴史を後から振り返るしかない。
ツアーは共和国広場に戻って終了。そばの国立博物館はなかなかの規模で、セルビア正教ゆかりのイコン画をはじめ、バロック、近代絵画まで揃っていて見応えがある。ガイドの方に正教美術を見たいと言ったら、ぜひ聖サヴァ大聖堂へと勧められた。東方正教会としては世界大規模というその威容は、イタリアなどのカトリックの聖堂、教会のそれとも違う絢爛さに満ちている。これは聖サヴァ大聖堂自体が16世紀にトルコの侵攻によって焼失し、1935年から建造中といい、新しいこととも関係あるだろう。内壁を占めるカラフルな宗教画は素晴らしい。通常、カトリックの内壁画は、キリストの誕生や受洗、数々の奇跡、マリアの物語など聖書でイロハが多いが、ずいぶん違っているようだ。中世に強かったマリア信仰はこの大聖堂壁画を見る限り強調されてはいない。
セルビアをはじめ、旧ユーゴスラビアを去る最後の日にこのようなオーソドックス(正教の英語Orthodox)な観光ができ、眼福となった。この旅も終わりである。
(左:「国立歴史博物館」のチトー銅像(市街のいたるところにある)。右:クネズ・ミロシュ通りにあるコソヴォ紛争時のNATO空爆跡)
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