本作では主演の2人より、ゲシュタポの警部を演じたダニエル・ブリュールがいい。ブリュールは4か国語を操り、ヨーロッパ映画界では引きも切らない存在となっているが、本作でもナチス=ヒトラーを弾劾するポストカードをばらまく「反逆者」を追う情け容赦ないゲシュタポの警部を演じ、オットーらを捕え、職責を果たしすっきりするかと思いきや、オットーらが斬首された後、そのカードを街頭にばらまき自死する。SS(ナチス親衛隊)に不合理な暴力を受け、オットーらの行動になにか責めきれないものを感じていた知識層の懊悩を演じていたように見えた。
ナチス下におけるドイツ人の反政府運動、反ヒトラー行動は軍のヒトラー暗殺計画が有名だが、「白バラの祈り」(60年前のお話では済まされない 白バラの祈り http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/2c448236af9aaf4ed04823dbd5c239b8)で記したように圧政は、直接的な政府転覆行動のみならず、反政府行動、政府批判、事実報道すべてを弾圧する。白バラの場合、単に政府の言う戦果は間違いでスターリングラードで多くのドイツ兵が死んでいると書いたもので事実を伝えよと言っているだけであるのである。太平洋戦争期の日本でも事実は伝えられなかった。大本営は常に「戦果」発表であった。
1940年、ナチスドイツがフランスに勝利したニュースに沸き立つベルリンで、息子の戦死を伝えられたオットーとアンナ。平凡な労働者階級の二人はいま行われている戦争に疑問を持つ。「総統は私の息子を殺した。あなたの息子も殺されるだろう」とカードに記し、街にばらまくようになったオットー。アンナもその行動を支え、2年間に300枚近くのカードを街に発した。「ハンベル事件」は、オットーが勤務先の工場でカードを落としたために発覚し、夫婦とも簡単な裁判で斬首されたのが歴史的事実だが、それを発掘したのがナチス時代不遇をかこった作家ハンス・ファラダである。ファラダは戦後、本作の原作「ベルリンに一人死す」を書きあげ、直後に亡くなった。それが最近また「発掘」され、英語訳も出されたことから映画化となった。
ヨーロッパ映画の主要なテーマがナチスドイツを描いたものであることは間違いない。「シンドラーのリスト」でアウシュビッツの暴力を直接描いたあとは、ナチスの圧政に抵抗する人、しない人、逃げ惑う人、さまざまな作品がつくられてきたが、まだそれが衰えることはない。さすが「シンドラーのリスト」のような二度目の直視も勇気がいる作品は減ったが、ナチスの時代になにがあったのか、何を感じていたのかを描く映画人らの意欲は衰えることはないようである。これは、商業的にナチス=悪者、という描きやすい題材に乗っかったということもあるだろうが、しつこく伝え続け、描き続けなければならないと考えるヨーロッパ映画人の矜持ともとらえたい。ナチス時代に迫害されたのは、ユダヤ人や政権に批判的な人はもちろん、自由な報道をできなかったメディアそのものだからである。
オットーとアンナが撒き続けた政府批判のカードは権力から独立すべきメディアの本質を現している。加計や森友で、政権の姿勢でなんら明らかにされないと思われる日本の現状。政権批判をした街の人たちを安倍首相は「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と言い放ち、政権批判の声を「こんな人たち」とまとめて否定した。オットーとアンナのカードが必要とならないために言うべきことは多い。