モンゴル人気だそうである。別に観光施設があるわけでもなく、近代人/都会人からすれば不便極まりない土地に日本人が数多く訪れているらしい。どこまでも抜ける青い空、夜には満天の星が近くに輝き、昼には風と動物たちの草を食む音以外何も聞こえない草原は夜には完全なしじまとなる。移動式住居ゲルでの人々の暮らしはつづまやかで無駄がない。
訪れる人にとって自然とともに暮らす人々の知恵と郷愁に憧れるのだろうが、アフリカや南米にも自然とともに歩む民の姿はあるわけで、モンゴルに惹かれるのは同じアジアの血を引く者としての親近感、ゲルの暮らしにも垣間見える文明化にほっとするからだろうか。
そう、今やゲルで遊牧生活をする人は激減し、町に働きに出る者が多いそうだ。主人公ナンサも夏休み、冬休み以外は町で寄宿生活を送りながら学校に通い、ナンサの父親は「町に働きに出よう」と言い、母親が「ここの暮らしもそんなに悪くない」というシーンがある。近代化の波はどんどん押し寄せ、昔ながらの暮らしをずっと維持するのが難しくなってきている様も丹念に描かれている。
ナンサは6歳。妹とまだよちよち歩きの弟がいる。6歳と言えば小学校1年生くらいだが、とてもよく働く。妹らと遊び、その世話をしながらも馬を乗りこなし羊追いはできるし、水運びや食事のお手伝いだって。そのナンサが見つけたのが頭部が真っ黒で斑のある犬ツォーホル(モンゴル語で「ぶち」なそうな)。この犬がカンヌ映画祭でパルムドッグ賞をとっただけあってとても愛らしく演技達者。ちょっと古いがのらくろを彷彿とさせる黒い顔で表情がよく見えないが、ナンサが自分をかわいがっているということと、それに応えようとしているのがよくわかる。
とにかく豊かだ。小さな風力発電では電気はすぐ消えるし、テレビ、パソコンなど何もない。けれど、オオカミに教われた羊の皮は町で売れる貴重な現金収入、肉は食料に、牛や羊のミルクは飲料はもちろん、お酒やチーズになる。まったく無駄のない生活。現金がないと、インターネットなどを駆使して新しい情報を追い続けないと不安な日本人には信じられないシンプルさと智慧に満ちあふれているのを豊かだと感じるのは、現代人の単なる逃避かもしれない。そう遊牧民の生活だって厳しい。家畜がオオカミに襲われ、遊牧生活を捨てた人が残していった犬がオオカミの群れに加わり野生化しているのだ。だからナンサがツォーホルを拾ってきたとき、父親は絶対飼ってはならないと言うし、移動する際には近所の人に番犬として託そうとさえする。
ラスト、一番幼い子が前の居住地に遺され、危うくハゲワシの餌食になるところをツォーホルが助け、ナンサはツォーホルとこれからも暮らすことができるといういかにも映画らしい結末である。春になるとナンサはまた町に行かなければならないし、両親は将来のためずっとナンサを町のおじさん宅に預けようかとも考えている。ナンサが自然とツォーホルと戯れられるのはそんなに長くないのかもしれない。
モンゴル仏教の「輪廻転生」の考えがナンサを助けたおばあさんによって語られ、また遊牧民の生活は生態系の輪を乱さないありかたそのものでもある。家畜が草を食み、糞をするとそこに新たな植物が芽生え、またその家畜も移動していくのであるから。
本作は「らくだの涙」に続くモンゴル人監督ビャンバスレン・ダバーの手によるドイツ映画。ダバーは言う。「私の願いは古いものと新しいものが互いに学びあい、それぞれを尊重しあって共生してゆくこと」だと。いつまでもいつまでもモンゴルにナンサがいてほしい。
訪れる人にとって自然とともに暮らす人々の知恵と郷愁に憧れるのだろうが、アフリカや南米にも自然とともに歩む民の姿はあるわけで、モンゴルに惹かれるのは同じアジアの血を引く者としての親近感、ゲルの暮らしにも垣間見える文明化にほっとするからだろうか。
そう、今やゲルで遊牧生活をする人は激減し、町に働きに出る者が多いそうだ。主人公ナンサも夏休み、冬休み以外は町で寄宿生活を送りながら学校に通い、ナンサの父親は「町に働きに出よう」と言い、母親が「ここの暮らしもそんなに悪くない」というシーンがある。近代化の波はどんどん押し寄せ、昔ながらの暮らしをずっと維持するのが難しくなってきている様も丹念に描かれている。
ナンサは6歳。妹とまだよちよち歩きの弟がいる。6歳と言えば小学校1年生くらいだが、とてもよく働く。妹らと遊び、その世話をしながらも馬を乗りこなし羊追いはできるし、水運びや食事のお手伝いだって。そのナンサが見つけたのが頭部が真っ黒で斑のある犬ツォーホル(モンゴル語で「ぶち」なそうな)。この犬がカンヌ映画祭でパルムドッグ賞をとっただけあってとても愛らしく演技達者。ちょっと古いがのらくろを彷彿とさせる黒い顔で表情がよく見えないが、ナンサが自分をかわいがっているということと、それに応えようとしているのがよくわかる。
とにかく豊かだ。小さな風力発電では電気はすぐ消えるし、テレビ、パソコンなど何もない。けれど、オオカミに教われた羊の皮は町で売れる貴重な現金収入、肉は食料に、牛や羊のミルクは飲料はもちろん、お酒やチーズになる。まったく無駄のない生活。現金がないと、インターネットなどを駆使して新しい情報を追い続けないと不安な日本人には信じられないシンプルさと智慧に満ちあふれているのを豊かだと感じるのは、現代人の単なる逃避かもしれない。そう遊牧民の生活だって厳しい。家畜がオオカミに襲われ、遊牧生活を捨てた人が残していった犬がオオカミの群れに加わり野生化しているのだ。だからナンサがツォーホルを拾ってきたとき、父親は絶対飼ってはならないと言うし、移動する際には近所の人に番犬として託そうとさえする。
ラスト、一番幼い子が前の居住地に遺され、危うくハゲワシの餌食になるところをツォーホルが助け、ナンサはツォーホルとこれからも暮らすことができるといういかにも映画らしい結末である。春になるとナンサはまた町に行かなければならないし、両親は将来のためずっとナンサを町のおじさん宅に預けようかとも考えている。ナンサが自然とツォーホルと戯れられるのはそんなに長くないのかもしれない。
モンゴル仏教の「輪廻転生」の考えがナンサを助けたおばあさんによって語られ、また遊牧民の生活は生態系の輪を乱さないありかたそのものでもある。家畜が草を食み、糞をするとそこに新たな植物が芽生え、またその家畜も移動していくのであるから。
本作は「らくだの涙」に続くモンゴル人監督ビャンバスレン・ダバーの手によるドイツ映画。ダバーは言う。「私の願いは古いものと新しいものが互いに学びあい、それぞれを尊重しあって共生してゆくこと」だと。いつまでもいつまでもモンゴルにナンサがいてほしい。