kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

クラシックの王道にして簡明 バーミンガム・ロイヤル・バレエ団コッペリア

2008-01-14 | 舞台
やっぱりオーソドックスな古典はいい。とても高く舞い上がる大技も、何回転も跳ね回る華麗さもないが、ひらひらとロマンチック・チュチュが舞う姿はとても美しい。そしてうれしい。
そしてコッペリアはストーリーがあまりにも分かりやすい。ただ、クラシック・バレエのストーリーは他愛ないものが多いのだが。古典作品もどんどん舞台が大がかりになるなかで、「白鳥の湖」はもちろん、「ラ・バヤデール」なども、幕間の20分でよく入れ替えられるものだなと感心するくらい大がかりなものもある。しかし今回は比較的シンプルであるし、人形も作り手であるコッペリウスも親しみが持てる。
バーミンガム・ロイヤル・バレエ団と言えばあのロイヤル・バレエ団の姉妹カンパニー。吉田都も所属したことがあり、今回も佐久間奈緒が人形に心奪われる彼を取り戻そうとする健気なスワルニダ演じた。コッペリアはそもそもコミカルな作品であるので、そのコミカルさをコッペリウスとスワルニダがどれだけ演じきれるかにもかかっているそうである。特に変な能力を持ったコッペリウス博士は数々の名優が演じてきた。そして特異なキャラが幸いして様々な演じ方も追求されてきた。熊川哲也は危ないというかちょっとオタクっぽいキャラであったし、本作のマイケル・オヘアはキャラクテールのベテランで「くるみ割り人形」のドロッセルマイヤーも有名。ファンキーな動きは絶品である。
ところでコッペリアを作曲したレオ・ドリーブという人はオペレッタをいくつも作っていたものの大ヒットを飛ばすとまではいかなかったようだ。ただ、形式主義を重んじるオペラにくらべ軽いノリのオペレッタにおいても、オペラを書いている時のように手を抜かなかったそう。それがやっと開花したのがオペラ座の支配人に気に入られ1870年初演のコッペリアを書いたという次第。もちろんコッペリアのストーリーはホフマン原著で、後にというか、反対にオペラ化されることになる。つまりより貴族趣味、高尚とされるオペラがより庶民の娯楽であるバレエに後れをとったという形。もちろんバレエもイタリアからフランスに広がった当時は王族、貴族の趣味であったのが市民階級が芸術を普通に愛する時代、印象派が闊歩した時代でもある、には庶民芸術の一角を占めていたということであろう。
白鳥やジゼルなどに対してハッピーエンドのコッペリアはストーリーを吟味する必要性の軽さという点で初心者向きと言える。人形が魂を持ち、その作り手さえにも影響を与えるというのはピノキオにも通じる怖さがあるが。
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戦争の「傷」に深いジェンダーバイアス サラエボの花

2008-01-14 | 映画
セルビアとモンテネグロが分離独立し、ついにユーゴスラビアが崩壊した。コソボ独立の機運も強く、あの「連邦人民共和国」の面影がすべてなくなることに言いようのない虚しさ、悔しさを感じるとは言い過ぎだろうか。いや、言い過ぎではない。むしろ苛立つのだ、そのような崩壊過程に対し何もできず、見過ごした自分に。
「サラエボの花」のストーリーは明解である。しかし、主人公をはじめ登場人物の苦悩、戦争による傷、とその修復はクリアではない。「民族浄化」(ethnic cleansing、 とてつもなく嫌な概念、発想だ)によるレイプ犠牲者は2万人とも言われるが、もちろんその正確なところは分からない。しかし、「ボスニア内戦」(92-95年)の傷跡が消えていない現在のボスニア・ヘルツェゴヴィナで「内戦」は終わっていないのだ。「内戦」と書いたが、被害者にとっては違う意味で内なる闘いである。そう、「サラエボの花」はサバイバーの物語なのだ。
ヤスミラ・ジュバニッチ監督は本作を愛の映画だという。戦争を描いたものであるのに戦闘シーンも殺戮、暴力シーンもない。描かれているのはセルビア兵によるレイプ故妊娠、出産した我が子サラに対し愛しつつも、その出自を問われ煩悶する母エスマと多感な年齢になったサラの葛藤だけだ。サラは修学旅行が近く、父親がシャヒード(殉教者)であるなら旅行代金は免除であると聞き、エスマに戦死の証明書を出してと願うがもちろんそなものはない。父親がシャヒードである少年と傷をなめ合うように親しくなるサラは、母親が男性と親しくなって自分を捨てるのではないかとの危惧も抱いている。証明書を出さない訳を、「あんたはレイプされた『私生児』だ」と言い放つエスマ。
エスマの友人が走り回り、旅行代金を用意してくれ旅立つサラ。二人の今後はどうなるのかさえ描かれていない。が、つましい二人にとってお互いはもうかけがえのない存在であることは間違いない。だからジュバニッチ監督は「愛の映画だ」というのだろう。
ユーゴスラビア解体後を描いた秀作はいくつもある。「パーフェクト・サークル」「ウエルカム・トゥ・サラエボ」「ライフ イズ ミラクル」「ノーマンズランド」など。どの作品にも兵士の姿や殺戮シーンなどがある。本作にはない。しかしこれほど戦争の傷を深く、静かに描いたものはない。映画中、PTSDに悩む被害女性らのカウンセリングのシーンがある。高みにたった(と描かれている)西側のカウンセラーから「さあ、自分のことを話しましょう」と言われてもずっと口をつぐんできたエスマ。話すことによって、その痛みをシェアすることによって癒されるというのはカウンセリングやサバイブの基本であるかもしれない。けれど、「話す」までが当人にとってとてつもなく長い旅、深い溝、遠い橋であるのだろう。そして、男性は死んで「殉教者」と崇められるのにレイプで生き残った女性には救いの手もない、戦争における性のバイアス。
「従軍慰安婦」として過ごした何十年前の日々をやっと語り始めた韓国のハルモニや中国の女性たち。これらサバイバーに対しても嘘つき呼ばわりする低劣な歴史修正主義者も日本には存在する。戦争をなくすには戦争を語るしかないのだが、道は遠い。
「女性が〈妊娠・出産可能な身体〉として存在するのは、根源的不条理である」「この不条理は、戦時においては、いっそう剥き出しの形で現れる。」(大越愛子)
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