kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

歴史の直視にまた教えられる「児童移民」の事実 オレンジと太陽

2012-06-26 | 映画
「児童移民」。児童は移民することもあるだろうが、家族も含めての「移民」ではなく児童が自ら移民? ここに「児童移民」の真実、問題点と悲劇がある
ゆりかごから墓場までのイギリスでほんのつい最近1970年代まで、組織的に行われていた国家犯罪、それが児童移民である。実話に基づいたストーリーが飽きさせないのはエミリー・ワトソンの演技に尽きる。もともと舞台出身のワトソンは、「奇跡の海」で狂気の役柄を演じ、多くの賞をとった。その後も、「ほんとうのジャクリーヌ・デュプレ」や「アンジェラの灰」「ミス・ポター」など印象に残る演技をこなしている。そして今回、正義感あつく、行動力と粘り強さを兼ね備えたソーシャルワーカー役。今回の演技でまたいくつかの賞を受賞、ノミネートされているが、ほとんど出ずっぱり、多くの台詞、社会的意義の高い仕事に就き、母、妻を演じたワトソンは高く評価されてよい。
本作の見所を二つ。まず、捨てられたと思っている子どもたちの「私は何者か」という素朴な問いを社会問題にまでつなげ、調べ始めるマーガレット(ワトソン)の地位。ソーシャルワーカーという職業が高い地位として認められていること、それは2年間という期限付きながら、その仕事に没頭できるだけの資金や態勢が保障されていることからも分かる。また、日本でソーシャルワーカーというと「社会福祉士」や「介護福祉士」として、障がい者、老人、被虐待児童のいる家庭に対するケアなどのイメージが強いが、イギリスのソーシャルワーカーは、それ以上に権限が与えられているというイメージがある。最初、マーガレットが、育児環境に欠ける母親のもとから生まれたばかりの赤ちゃんを引き離すシーンがあるが、これ以外にも、グループカウンセリング、個々の相談に応じるなどその領域は多岐にわたり、また尊敬もされているのがわかる。翻って、日本で児童虐待が明らかになると「ジソウ(児童相談所)は何をしていたんだ!」との非難の声があがったりするが、ジソウの権限のなさ、人手の足りなさ、すさまじい過重労働の実態を見ての言葉とも思えない。
さて、もう一つの見所は「自己の出自を知る権利」。児童移民は本人や親の同意を得ずに勝手に、しかも秘密にオーストラリアなど旧領に大量の子どもを送り込み、その後の子どもの処遇にも無関心、いや、強制労働や性虐待を受けた子どものケアもなく、棄民政策の国家犯罪性は指弾されてよい。しかし、自分を知る権利は児童移民の場合適用されようが、日本のAID(非配偶者間人工授精)などのようにもともと親が誰であるかを分からないことを前提に生まれてくる子どもの場合は複雑である。しかも自分は誰(の子)であるかを知るということは、知ることによって大きな打撃を受けることもあるし(レイプ被害によって生まれた場合など)、知ったからといって現実の自分は何が変わるわけでもないというきわめて冷めた側面もある。そして結局自分は何者かという問いは倫理的、宗教的ニュアンスが強く、個人の納得の問題ということができる。であるから、マーガレットは責任追及より、自分を知る手助けをしたいという思いが強く、また、理解者も増えたのであろう。もっとも、オーストラリアで虐待された子どもたちの体験を聞き、自身もPTSDにさらされるなど危険な目に遭っており、生半可な気持ちでは対峙できないことは明らかだ。
ともあれ、本作撮影中にオーストラリア政府もイギリス政府も児童移民について公式に謝罪した。自国の暗い部分も直視することが、尊敬できる民主主義国家の条件と思われるのだが、さてこの国は?

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シンプルな筋立てに普遍性を実感  「ジェーン・エア」

2012-06-21 | 映画
海外の古典文学にめっぽう弱いので(白状すると日本の古典も疎い)、たいがいの作品は題名以外知らないのだが、なぜか「ジェーン・エア」は読んでいた。これまで何度も映画化、テレビドラマ化されているが、見るのは初めて。
あらすじは複雑ではなく、19世紀初頭のイングランドで、不遇な子ども時代を過ごした主人公が成長し、やがて女性の自立と自ら選び取る愛を描いた物語、とたった二行ほどで済んでしまう。しかし、「女性の自立」が困難な時代に自らの意志を曲げずにやがて結ばれるとはいえ、自分の雇い主、身分の違う貴族領主と対等に物言い、渡り合う姿は当時としてとても斬新な物語であると言える。そして、出版当時は当然自立した女性という生き方に対する反発も強かったそうである。それはそうだろう、ジェーンもそうであるように、女性が働くというと家庭教師か寄宿学校の教員、それ以外は召使いしかなかった時代だ。原作者のシャーロット・ブロンテより少し前の時代だがジェーン・オースティンの描く世界では、女性の幸せは(貴族の女性だが)、いかに金持ちの男を捕まえるか、だけにかかっている。はたらかなければ生きてゆけない庶民層は、ジェーンのように家庭教師の道を選ぶしかなく、ジェーンがロチェスターの下を去り、身動きできなくなっていたのを助けたのが牧師、仕事を得るのも牧師館の教師の仕事であり、牧師の妹らも家庭教師として出稼ぎに行っている。
ロチェスターの旧館はおどろおどろしく、ロチェスターの妻が精神を病み、館の一角に閉じこめられ、夜な夜な出歩く様といい、18世紀末から流行ったゴシック小説を思わせるとの指摘もあるが(そもそもジェーンには聞こえるはずのないロチェスターの声が聞こえて、戻る決心をするのであるから)、本作のキモはいたってシンプルである。それは一度(ひとたび)愛を確認したらそれを追求するということである。それは、屋敷を含めて資産の多寡や(ジェーンは最後に伯父の遺産が入り、ロチェスターと財産的には対等な立場となるが)、女性の側から愛を告白してはいけないとか、男性側から申し込まれるのを待つといったジェンダー規範ではないということ。
それは女性の自立と愛情がこの時代に困難であったことを反対によく示しているだろう。しかし、19世紀初頭から200年近くたった現代、女性の働く世界ははるかに広がったとはいえ、資産の多寡や容姿など婚姻が外形的事情によらずになされているかというと、そうは言えないし、むしろ、不況の中、「上昇婚」しか対象になっていないというのが本当のところではないか、少なくとも日本では。
原作では、火事のあと、ロチェスターは盲目になったほか、片腕もなくし、資産も減らすなど、かなり落ちぶれた体で描かれていたように思うが、映画はそれほどでもない。しかし、今や力関係が逆転し、ジェーンの方からしっかりとロチェスターの手を握る姿は美しく感動的である。盲目のロチェスターはその手でジェーンと分かったシーンは、チャップリンの「街の灯」を思い起こさせ、ほろりとさせられた。
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振付の妙、物語バレエの常識を破る   シュツットガルト・バレエ団「じゃじゃ馬馴らし」

2012-06-11 | 舞台
シェークスピア作品がバレエの演目になったのには「ロミオとジュリエット」、「真夏の夜の夢」そしてこの「じゃじゃ馬馴らし」がある。偉そうに言わせてもらうと、シェークスピアの喜劇は(ロミジュリは悲劇だが)、予定調和でありながら納得できる結末であり、かつ、教訓的である。納得できる結末と書いたが、あくまで17世紀初頭の価値観の範囲でという意味であり、現代的にはそぐわない面もあるが、それもふまえて古びていないところがシェークスピアの普遍的な価値と人気の証であると思う。
そのシェークスピア作品をバレエにするとすれば振り付けの妙味が問われる。そして今回のシュツットガルト・バレエ団は、ジョン・クランコの振り付けで「じゃじゃ馬馴らし」はお株中のお株である。クランコの振り付けは本当に変わっている。じゃじゃ馬のキャタリーナは、求婚者ペトルーチオに対してはもちろん、誰かれとなく悪態をつく。キャタリーナの妹、淑やかなビアンカに求婚する男たちも、頼りない体をさらすなどおよそ「男らしく」ない。しかし、酔っぱらいのペトルーチオがその大きな心と些細な物事に動じない度量を示し、キャタリーナの愛を克ちえて、また、ビアンカを射止めたルーセンショー、ビアンカを得られなかったけれども娼婦と真の愛に気づく求婚者たちの悲喜こもごも。で、これら筋立てをセリフのないバレエでどう演じるか。
「面白い」の一言に尽きる。キャタリーナのバレエらしからぬ動き。そのじゃじゃ馬ぶりは顎を突き出す、お尻を突き出す、大股で歩くなど品がない様で表現される。ペトルーチオとのパ・ドゥ・ドゥでは二人して座り込み、暴れ馬のキャタリーナを後ろから羽交い締めにする、背中合わせになってでんぐり返る…。そうもはやこれではパ(ステップ)ではない。そして、最初そのような破天荒な逸脱したダンスから、キャタリーナがペトルーチオに惹かれ、じゃじゃ馬ではなくなっていく中で、よりバレエらしくなっていくのが見所だ。最初、荒々しかったリストもやさしく持ち上げ、緩やかにおろすなど艶やかになっていくあたり、ダンサーとしては難しかろうが、見る者にとってはうれしい変化(へんげ)だ。もともと、変化に富んだ、通常ではない動きは、基本の技量が高くないとできない。それが見事に演じられており、また、主人公を盛り上げる道化者たちもファンキーな動きに磨きがかかっているようだ。
バレエについて浅薄な知識から言うと、振付家というのは、30代くらいまで現役のダンサーとして一線で活躍し、引退の年を考えたころになるものだと勝手に思っていたが、クランコはそうではない。23歳でもう現役を引き、以後振付家として物語バレエの一線を走り、名作「オネーギン」(関西での公演は聞いたことがないが、もちろん見たい!)と「じゃじゃ馬馴らし」はシュツットガルトの大いなる遺産となっている。クランコ自身、踊り手より作り手に興味があったと伝えられ、いかに制作するかの情熱は73年ニューヨーク公演からの帰路、飛行機の中で突然死した時まで続いた(享年43歳)。
思うに、「じゃじゃ馬馴らし」や「ドンキホーテ」のような動きの速いリフトが続く演目は体躯にすぐれたロシアやヨーロッパのダンサーの方が日本やアジアのダンサーより有利に見える。しかし、今回ビアンカを演じたのは韓国人ヒョ・ジュンカンで、じゃじゃ馬キャタリーナを演じたドイツ人のカーチャ・ヴュンシュとの対比もよく、リフトされる側はアジア系も合うのかもしれない。とにかく最後まで楽しめた2幕であった。
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ケン・ローチ映画の原点 「夜空に星のあるように」

2012-06-10 | 映画
長らくこの欄に封切作品のブログを書き連ねてきたが、今回は珍しくDVDの感想である。とはいっても作品は67年に制作され、日本で公開されたのは翌68年のケン・ローチ監督デビュー作「夜空に星のあるように」である。ケン・ローチ作品はここで幾度も紹介したが、最近は一定希望が持てるようなエンディングや(エリックを探して http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/e6f23751172d39a22639c2cc573e6967)、下層階級を描きながらもどこか突き放したような作品(ルート・アイリッシュ http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/1f0140ba615c669521c109ba5714d9d)が散見された。ローチのまなざしの原点ともいえる、労働者・階級の日常を描いた作品(「リフ・ラフ」「レイニング・ストーンズ」そして「マイ・ネーム・イズ・ジョー」など)から遠ざかったかのように見える最近の作品に比して、また、原点を思い起こさせたのが「夜空に星があるように」である。
18歳で妊娠したジョイの夫トムは泥棒。捕まり刑務所に収監されている間、トムの泥棒仲間のデイヴと親密になる。デイヴはトムとの子どもジョニーにもとてもやさしい。しかし、デイヴも逮捕され、母子家庭をきりもりすることになったジョイは、デイヴに「愛してる。」と手紙を書きつつも、様々な男と付き合い、ときに高価な援助を受ける。
面会に来たジョイがきれいななりをしていることに不安をつのらせるデイヴはジョイを疑い、刑期を終え、出所したトムはジョイに暴力を振るい、ジョニーの父親面をする。束の間の幸せを奪われたジョイは。
今後、どのような災厄が待っているのか、知らずに歩き回るジョニーを映しだし、突然フィルムは終わる。ケン・ローチらしいアンチ・エンディングである。ジョニーに必ず災厄がふりかかるような書き方をしたが、ジョイがトムから離れられなければ、ジョイがトムと別れられても、安定した男性関係(そこにはもちろん男が泥棒ではなく正業に就いていることも含まれる)持つことができなければ、ジョニーにとってよい養育環境が保障されるとは思えないからだ。それは一つジョイのせいだけではないだろう。それはトムをはじめとする男性側の意識や態度、社会の母子家庭への支援など一筋縄ではいかない、けれど解決すべき大きな問題が横たわっている。
ジョイがジョニーを連れて訪れた叔母も、無理な化粧をして金を巻き上がられそうな男を物色に行くシーンがある。この叔母も安定した生活ではなさそうであるし、ジョイ自身が正業に就いた両親のもとで愛情深く育てられたのではないことを予想させるシーンである。
愛情の深さは、その示し方や方向性がふさわしくなければ、必ずしも育てられる側の愛情が豊かになるとは限らないが、愛情を与えられたことがなかったり、近親者の愛情がきわめて歪な形で現れた時、その子もまた他者に愛情を持つことができなかったり、自尊感情がきわめて低くなったりすることは社会的に明らかになっている。
以前のブログで(子ども視線に気づくべき大人の目線 ダルデンヌ兄弟「少年と自転車」http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/c62ab5134d589ae92497c457c9f96483)「We」誌の児童相談所職員の連載を紹介したが、同誌178号(2012/6/7)では、性虐待が連鎖し、それら被害者である子どもが加害者になったり、将来が見通せない絶望が紹介されている(これもフェミックスのHP参照。http://www.femix.co.jp/)。
68年の本作発表から一貫して底辺の労働者階級の現実を描き続けたケン・ローチは、いずれも解決策や希望を語らずにフィルムを閉じてきた。しかし「夜空に星のあるように」一片の輝きも一筋の光もない社会ではだめなのだ、現実を見据えてささえる社会を築こうとローチのコミュニズム、あるいは、コミュニタリズム精神が出ているように思える。
知らないことは知ろうとしなければいつまでも知らないですむ。もうすぐ80歳になろうかというローチの原点作品、そうそれが「夜空に星のあるように」なのである。
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