「児童移民」。児童は移民することもあるだろうが、家族も含めての「移民」ではなく児童が自ら移民? ここに「児童移民」の真実、問題点と悲劇がある
ゆりかごから墓場までのイギリスでほんのつい最近1970年代まで、組織的に行われていた国家犯罪、それが児童移民である。実話に基づいたストーリーが飽きさせないのはエミリー・ワトソンの演技に尽きる。もともと舞台出身のワトソンは、「奇跡の海」で狂気の役柄を演じ、多くの賞をとった。その後も、「ほんとうのジャクリーヌ・デュプレ」や「アンジェラの灰」「ミス・ポター」など印象に残る演技をこなしている。そして今回、正義感あつく、行動力と粘り強さを兼ね備えたソーシャルワーカー役。今回の演技でまたいくつかの賞を受賞、ノミネートされているが、ほとんど出ずっぱり、多くの台詞、社会的意義の高い仕事に就き、母、妻を演じたワトソンは高く評価されてよい。
本作の見所を二つ。まず、捨てられたと思っている子どもたちの「私は何者か」という素朴な問いを社会問題にまでつなげ、調べ始めるマーガレット(ワトソン)の地位。ソーシャルワーカーという職業が高い地位として認められていること、それは2年間という期限付きながら、その仕事に没頭できるだけの資金や態勢が保障されていることからも分かる。また、日本でソーシャルワーカーというと「社会福祉士」や「介護福祉士」として、障がい者、老人、被虐待児童のいる家庭に対するケアなどのイメージが強いが、イギリスのソーシャルワーカーは、それ以上に権限が与えられているというイメージがある。最初、マーガレットが、育児環境に欠ける母親のもとから生まれたばかりの赤ちゃんを引き離すシーンがあるが、これ以外にも、グループカウンセリング、個々の相談に応じるなどその領域は多岐にわたり、また尊敬もされているのがわかる。翻って、日本で児童虐待が明らかになると「ジソウ(児童相談所)は何をしていたんだ!」との非難の声があがったりするが、ジソウの権限のなさ、人手の足りなさ、すさまじい過重労働の実態を見ての言葉とも思えない。
さて、もう一つの見所は「自己の出自を知る権利」。児童移民は本人や親の同意を得ずに勝手に、しかも秘密にオーストラリアなど旧領に大量の子どもを送り込み、その後の子どもの処遇にも無関心、いや、強制労働や性虐待を受けた子どものケアもなく、棄民政策の国家犯罪性は指弾されてよい。しかし、自分を知る権利は児童移民の場合適用されようが、日本のAID(非配偶者間人工授精)などのようにもともと親が誰であるかを分からないことを前提に生まれてくる子どもの場合は複雑である。しかも自分は誰(の子)であるかを知るということは、知ることによって大きな打撃を受けることもあるし(レイプ被害によって生まれた場合など)、知ったからといって現実の自分は何が変わるわけでもないというきわめて冷めた側面もある。そして結局自分は何者かという問いは倫理的、宗教的ニュアンスが強く、個人の納得の問題ということができる。であるから、マーガレットは責任追及より、自分を知る手助けをしたいという思いが強く、また、理解者も増えたのであろう。もっとも、オーストラリアで虐待された子どもたちの体験を聞き、自身もPTSDにさらされるなど危険な目に遭っており、生半可な気持ちでは対峙できないことは明らかだ。
ともあれ、本作撮影中にオーストラリア政府もイギリス政府も児童移民について公式に謝罪した。自国の暗い部分も直視することが、尊敬できる民主主義国家の条件と思われるのだが、さてこの国は?
ゆりかごから墓場までのイギリスでほんのつい最近1970年代まで、組織的に行われていた国家犯罪、それが児童移民である。実話に基づいたストーリーが飽きさせないのはエミリー・ワトソンの演技に尽きる。もともと舞台出身のワトソンは、「奇跡の海」で狂気の役柄を演じ、多くの賞をとった。その後も、「ほんとうのジャクリーヌ・デュプレ」や「アンジェラの灰」「ミス・ポター」など印象に残る演技をこなしている。そして今回、正義感あつく、行動力と粘り強さを兼ね備えたソーシャルワーカー役。今回の演技でまたいくつかの賞を受賞、ノミネートされているが、ほとんど出ずっぱり、多くの台詞、社会的意義の高い仕事に就き、母、妻を演じたワトソンは高く評価されてよい。
本作の見所を二つ。まず、捨てられたと思っている子どもたちの「私は何者か」という素朴な問いを社会問題にまでつなげ、調べ始めるマーガレット(ワトソン)の地位。ソーシャルワーカーという職業が高い地位として認められていること、それは2年間という期限付きながら、その仕事に没頭できるだけの資金や態勢が保障されていることからも分かる。また、日本でソーシャルワーカーというと「社会福祉士」や「介護福祉士」として、障がい者、老人、被虐待児童のいる家庭に対するケアなどのイメージが強いが、イギリスのソーシャルワーカーは、それ以上に権限が与えられているというイメージがある。最初、マーガレットが、育児環境に欠ける母親のもとから生まれたばかりの赤ちゃんを引き離すシーンがあるが、これ以外にも、グループカウンセリング、個々の相談に応じるなどその領域は多岐にわたり、また尊敬もされているのがわかる。翻って、日本で児童虐待が明らかになると「ジソウ(児童相談所)は何をしていたんだ!」との非難の声があがったりするが、ジソウの権限のなさ、人手の足りなさ、すさまじい過重労働の実態を見ての言葉とも思えない。
さて、もう一つの見所は「自己の出自を知る権利」。児童移民は本人や親の同意を得ずに勝手に、しかも秘密にオーストラリアなど旧領に大量の子どもを送り込み、その後の子どもの処遇にも無関心、いや、強制労働や性虐待を受けた子どものケアもなく、棄民政策の国家犯罪性は指弾されてよい。しかし、自分を知る権利は児童移民の場合適用されようが、日本のAID(非配偶者間人工授精)などのようにもともと親が誰であるかを分からないことを前提に生まれてくる子どもの場合は複雑である。しかも自分は誰(の子)であるかを知るということは、知ることによって大きな打撃を受けることもあるし(レイプ被害によって生まれた場合など)、知ったからといって現実の自分は何が変わるわけでもないというきわめて冷めた側面もある。そして結局自分は何者かという問いは倫理的、宗教的ニュアンスが強く、個人の納得の問題ということができる。であるから、マーガレットは責任追及より、自分を知る手助けをしたいという思いが強く、また、理解者も増えたのであろう。もっとも、オーストラリアで虐待された子どもたちの体験を聞き、自身もPTSDにさらされるなど危険な目に遭っており、生半可な気持ちでは対峙できないことは明らかだ。
ともあれ、本作撮影中にオーストラリア政府もイギリス政府も児童移民について公式に謝罪した。自国の暗い部分も直視することが、尊敬できる民主主義国家の条件と思われるのだが、さてこの国は?