kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

平板さはエロチズムを駆逐する? バルテュス展

2014-07-20 | 美術
ルネサンスというとどうしてもレオナル・ド・ダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロのいわゆる3大巨匠ばかり取り上げられて、日本のルネサンス人気もそれらに収斂しがちであるが、これら3人が活躍した15世紀前後はルネサンスの「盛期」であって、その「盛期」が生まれるための前段階はそれほど関心が持たれていないように思う。ルネサンス「盛期」の前段階とは初期ルネサンスとくくられる15世紀初頭から中ごろである。ルネサンスの端緒については諸説あるが、イタリアルネサンスのそれこそ、萌芽というべき14世紀のジョットはベネチア近郊のパドヴァに大きな仕事を残したし(スクロヴェーニ礼拝堂)、ピエロ・デッラ・フランチェスカはサンセポルクロという小都市で活動した。フィレンツェはルサンスが花咲いた地であって、ルネサンス総体の土地ではないのだ。ピエロ・デッラ・フランチェスカは、画家と同時に数学者であって、だから綿密な遠近法を確立したのであろうと思う。ピエロ・デッラ・フランチェスカの仕事は、それまでお決まりであった大事な主題を大きく描くという、実際に見える様相とは大きく違った宗教画に、奥行きを与えた画期的なものだった。そのピエロ・デッラ・フランチェスカに大いに刺激された20世紀の画家がいた。バルテュスである。
バルテュスというとどうしても、偏見としてのロリコン表象であるが、それはある意味当たっているし、同時にバルテュスを説明するには不十分であると思う。まあ、観念としてのロリコンで何が悪いというのもあるが、バルテュスはあくまでロリコン表象と「見える」のであって、ロリコンかどうか(というか「ロリコン」の定義が、バルテュスの描いた時代とは異なりもはや明らかではない)は問題ではない。というのは、バルテュスの興味は「少女」の可能性であり、性志向の対象それではない、と思いたいからだ。
ぎりぎりなのだ。バルテュスの作品の多くに現れる一糸まとわぬ女性の裸体より、少女が足を開いてパンツ丸見えの肢体でまどろむ様の方がよっぽどエロチックであると思うのは、これら男性視線故である。そこには窃視の危うさのため、実際の性妄想(妄想自体が実際ではないが)がほとんど妄想までもういかない、妙に乾いた女性一般像になってしまうという見せ方である。例えば純なマリアが絵画の一素材として現れたとき。ピエロ・デッラ・フランチェスカである。
バルテュスはイタリア旅行でピエロ・デッラ・フランチェスカの作品に大きく感銘を受けたという。ピエロ・デッラ・フランチェスカの仕事は、それまでの宗教画に比べると格段に訴求力がある。しかし妙に覚めているのも事実だ。遠近法とは、物語を物語らしく見せるために、時間の前後をはっきり示したものであるが、同時に一つひとつの物語を感情的に訴えるものでない。そして、時間的説明を明確にしようとするあまり、逆に平板に見えてしまうことさえある。数学者でもあったピエロ・デッラ・フランチェスカはこの「感情的」にはむしろ興味がなかったのかもしれない。聖書にあらわれる一場面を切り取った場面が遠近法によって「感情的」に成功したのは、盛期ルネサンスのレオナルドの「最後の晩餐」などで明らかある。
そういう眼で見るとバルテュスの絵もエロチックを描いているのであろうのに、妙に「感情的」とはほど遠い。時代もあろう。バルテュスが活躍した20世紀初頭はシュールレアリズム絵画が花咲いた時代でもある。だから、バルテュスの作品はどこか、レジェなどキュビズム、マグリットをも想起させる。バルテュスは2度の兵役を経験しながら命長らえた。彼が生きた同じ時代に活動した、例えばドイツ表現主義の若い才能マッケやマルクらは戦争で亡くなった。戦争で命落とすことなく、生きて描いたバルテュスは、それがロリコンと物議をかもしたとしてしても生きて描いてよかったと思う。(夢見るテレーズ)
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西洋美術の流れを堪能 ポルディ・ペッツォーリ美術館展(あべのハルカス美術館)

2014-07-06 | 美術
イタリア美術が、その時代によって興隆した地域が変遷したのは周知のことである。ローマがルネサンス美術の中心となったのはミケランジェロやラファエロがヴァチカンの仕事をしたからであって、長いルネサンスの息吹の中では一部に過ぎない。けれど、ルネサンスというとフィレンツェかローマ。少なくとも観光地としてのイタリア・ルネサンスを見る目はそれ以外には少ない。
ところが日本でも大人気のダ・ヴィンチは、フィレンツェでは工房修業時代を含め、のちの成功譚としての時代ではない(ダ・ヴィンチのフィレンツェ時代の偉業は後世の発見・評価によるところが大きい。)。むしろダ・ヴィンチがその名を馳せたのはミラノの時代である。それは「最後の晩餐」で明らかだ。教会の食堂壁画として描かれた作品は、幾度の受難にもかかわらず今世紀まで遺った。そして500年の時空を超え世界遺産として愛でられている。それはさておき、イタリア美術の真骨頂はフィレンツェ、ローマだけではない。ということを言いたかったのだ。ミラノ、ヴェネチア、シエナ…。
今回、日本ではなじみの薄いミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館の収蔵品が公開されたことをうれしく思うとともに、西洋美術に対する関心がここまで広がったのかと感慨深く思う。というのは、一口に西洋美術といっても、多くの日本人は印象派かそれ以降の近代美術、あるいは宗教画とは思われていないフェルメールやレンブラントなどの風俗画を好んでいて、宗教美術は「分からない」とファンが激減するからだ。しかし、ダ・ヴインチ人気などでキリスト教美術に対する理解が増し、ファンが増えたのも事実だ。中でも「受胎告知」や「最後の晩餐」、「聖母子」などはあまりにも題材として有名で、ダ・ヴィンチ以外の作者のものであっても何が描かれているか分かるので、多くの人にとってそれなりに楽しめる。これら新約聖書の世界までは理解できるとしても、キリスト教以前となる旧約聖書の世界、キリスト教関連のお話であっても、イエスやマリア以外の聖人となればよっぽどの知識がないとお手上げである。かくいう筆者も聖フランチェスコなどはなんとなく分かるが、聖カタリナとくると誰だっけ?となる。
そういう意味で、今回ポルディ・ペッツォーリ展では、聖母子などのお決まりの題材から、この(アレクサンドリアの)聖カタリナ、聖ヒエロニムス、さらにはキリスト教美術の中でも特に日本では縁遠い中世の祭壇画などもあり、より広い意味で西洋美術を楽しむことができるだろう。
ミラノの貴族であったポルディ・ペッツォーリが19世紀私邸を美術館として遺すまでのコレクションが上記中世美術から、イタリア・ルネサンス、北方ルネサンス、バロックそして工芸品、タピストリーまで揃えた見事なものであったこと、そして少ない展示のなかで西洋美術の一部を堪能できたと感じさせるセレクトであったことが本展を成功に導いているのだろう。ただ、ミラノの美術館に実際足を運んだものとして、館の雰囲気と収蔵品の見事さは本展では実感できないとも思う。
ミラノには、ポルディ・ペッツォーリ美術館のほかに本展でも紹介されているヴェネチア派の作品が多く所蔵されているブレラ美術館、フランスゴシックとは趣の違う大聖堂、そして「最後の晩餐」を擁するサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会もある。モードに関心のない美術好きにも訪れたい街ではある。(「貴婦人の肖像」ピエロ・デル・ポッライウォーロ 1470頃)
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