ルネサンスというとどうしてもレオナル・ド・ダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロのいわゆる3大巨匠ばかり取り上げられて、日本のルネサンス人気もそれらに収斂しがちであるが、これら3人が活躍した15世紀前後はルネサンスの「盛期」であって、その「盛期」が生まれるための前段階はそれほど関心が持たれていないように思う。ルネサンス「盛期」の前段階とは初期ルネサンスとくくられる15世紀初頭から中ごろである。ルネサンスの端緒については諸説あるが、イタリアルネサンスのそれこそ、萌芽というべき14世紀のジョットはベネチア近郊のパドヴァに大きな仕事を残したし(スクロヴェーニ礼拝堂)、ピエロ・デッラ・フランチェスカはサンセポルクロという小都市で活動した。フィレンツェはルサンスが花咲いた地であって、ルネサンス総体の土地ではないのだ。ピエロ・デッラ・フランチェスカは、画家と同時に数学者であって、だから綿密な遠近法を確立したのであろうと思う。ピエロ・デッラ・フランチェスカの仕事は、それまでお決まりであった大事な主題を大きく描くという、実際に見える様相とは大きく違った宗教画に、奥行きを与えた画期的なものだった。そのピエロ・デッラ・フランチェスカに大いに刺激された20世紀の画家がいた。バルテュスである。
バルテュスというとどうしても、偏見としてのロリコン表象であるが、それはある意味当たっているし、同時にバルテュスを説明するには不十分であると思う。まあ、観念としてのロリコンで何が悪いというのもあるが、バルテュスはあくまでロリコン表象と「見える」のであって、ロリコンかどうか(というか「ロリコン」の定義が、バルテュスの描いた時代とは異なりもはや明らかではない)は問題ではない。というのは、バルテュスの興味は「少女」の可能性であり、性志向の対象それではない、と思いたいからだ。
ぎりぎりなのだ。バルテュスの作品の多くに現れる一糸まとわぬ女性の裸体より、少女が足を開いてパンツ丸見えの肢体でまどろむ様の方がよっぽどエロチックであると思うのは、これら男性視線故である。そこには窃視の危うさのため、実際の性妄想(妄想自体が実際ではないが)がほとんど妄想までもういかない、妙に乾いた女性一般像になってしまうという見せ方である。例えば純なマリアが絵画の一素材として現れたとき。ピエロ・デッラ・フランチェスカである。
バルテュスはイタリア旅行でピエロ・デッラ・フランチェスカの作品に大きく感銘を受けたという。ピエロ・デッラ・フランチェスカの仕事は、それまでの宗教画に比べると格段に訴求力がある。しかし妙に覚めているのも事実だ。遠近法とは、物語を物語らしく見せるために、時間の前後をはっきり示したものであるが、同時に一つひとつの物語を感情的に訴えるものでない。そして、時間的説明を明確にしようとするあまり、逆に平板に見えてしまうことさえある。数学者でもあったピエロ・デッラ・フランチェスカはこの「感情的」にはむしろ興味がなかったのかもしれない。聖書にあらわれる一場面を切り取った場面が遠近法によって「感情的」に成功したのは、盛期ルネサンスのレオナルドの「最後の晩餐」などで明らかある。
そういう眼で見るとバルテュスの絵もエロチックを描いているのであろうのに、妙に「感情的」とはほど遠い。時代もあろう。バルテュスが活躍した20世紀初頭はシュールレアリズム絵画が花咲いた時代でもある。だから、バルテュスの作品はどこか、レジェなどキュビズム、マグリットをも想起させる。バルテュスは2度の兵役を経験しながら命長らえた。彼が生きた同じ時代に活動した、例えばドイツ表現主義の若い才能マッケやマルクらは戦争で亡くなった。戦争で命落とすことなく、生きて描いたバルテュスは、それがロリコンと物議をかもしたとしてしても生きて描いてよかったと思う。(夢見るテレーズ)
バルテュスというとどうしても、偏見としてのロリコン表象であるが、それはある意味当たっているし、同時にバルテュスを説明するには不十分であると思う。まあ、観念としてのロリコンで何が悪いというのもあるが、バルテュスはあくまでロリコン表象と「見える」のであって、ロリコンかどうか(というか「ロリコン」の定義が、バルテュスの描いた時代とは異なりもはや明らかではない)は問題ではない。というのは、バルテュスの興味は「少女」の可能性であり、性志向の対象それではない、と思いたいからだ。
ぎりぎりなのだ。バルテュスの作品の多くに現れる一糸まとわぬ女性の裸体より、少女が足を開いてパンツ丸見えの肢体でまどろむ様の方がよっぽどエロチックであると思うのは、これら男性視線故である。そこには窃視の危うさのため、実際の性妄想(妄想自体が実際ではないが)がほとんど妄想までもういかない、妙に乾いた女性一般像になってしまうという見せ方である。例えば純なマリアが絵画の一素材として現れたとき。ピエロ・デッラ・フランチェスカである。
バルテュスはイタリア旅行でピエロ・デッラ・フランチェスカの作品に大きく感銘を受けたという。ピエロ・デッラ・フランチェスカの仕事は、それまでの宗教画に比べると格段に訴求力がある。しかし妙に覚めているのも事実だ。遠近法とは、物語を物語らしく見せるために、時間の前後をはっきり示したものであるが、同時に一つひとつの物語を感情的に訴えるものでない。そして、時間的説明を明確にしようとするあまり、逆に平板に見えてしまうことさえある。数学者でもあったピエロ・デッラ・フランチェスカはこの「感情的」にはむしろ興味がなかったのかもしれない。聖書にあらわれる一場面を切り取った場面が遠近法によって「感情的」に成功したのは、盛期ルネサンスのレオナルドの「最後の晩餐」などで明らかある。
そういう眼で見るとバルテュスの絵もエロチックを描いているのであろうのに、妙に「感情的」とはほど遠い。時代もあろう。バルテュスが活躍した20世紀初頭はシュールレアリズム絵画が花咲いた時代でもある。だから、バルテュスの作品はどこか、レジェなどキュビズム、マグリットをも想起させる。バルテュスは2度の兵役を経験しながら命長らえた。彼が生きた同じ時代に活動した、例えばドイツ表現主義の若い才能マッケやマルクらは戦争で亡くなった。戦争で命落とすことなく、生きて描いたバルテュスは、それがロリコンと物議をかもしたとしてしても生きて描いてよかったと思う。(夢見るテレーズ)