現役裁判官が国を訴えるということで、話題になっている竹内浩史津地方裁判所判事。竹内さんの言う「裁判官の良心」は明確である。民事裁判官の経験が長い竹内さんなりに「正直」「誠実」「勤勉」を重要な要素とする。この3点なら別に裁判官に求められるというより人間として求められるのと同じではないかと指摘されそうだ。が、本書ではその前提として「思想・良心の自由」(憲法19条)の「良心」とは全く同じではなくて、わざわざ「すべて裁判官は。その良心に従い独立してその職権を行」うと(憲法76条3項)あることから、「良心的裁判官」たるべき規範を改めて強調していると見る。「良心的裁判官」については、本書に何度も出てくるので、その言を確かめていただくこととして、その反対に位置する「ヒラメ裁判官」(上だけ見ている裁判官)の存在とそれを生み出す最高裁判所事務総局(その他)の「裁判をしない裁判官」という組織構造の問題点を鋭くついているのが本書の肝と言うべきだろう。
読後の印象はとても分かりやすいと言うことだ。現職裁判官らが結成した日本裁判官ネットワークが過去に出版した裁判所を憂える書籍では、どなたも硬すぎるくらい真面目に、少し控え目に書かれているように思えて、隔靴掻痒の感が少なからずあったが、本書は明快、遠慮はない。少なくとも過去の類例の書に比べて裁判所に怖気付いて?しているようには見えない。
折しも岡口基一仙台高等裁判所判事が、SNSへの投稿によって弾劾裁判にかけられ、罷免されると言う「暴挙」が起きた(2024年4月3日)。罷免判決に至るその論理構成には疑義が多々あるが、要は、「裁判官たる者、自由に発言していいわけではない」と言っているに等しい。竹内さんは、弾劾裁判で岡口さんの表現行為が罷免事由にあたるものではないと「裁判官の市民的自由」の論点から証人にもなったが、判決では一顧だにされなかった。そして著者によれば、裁判官でSNSを使用する人は自身と匿名のお一人だけになってしまったと言う。著者が憂える裁判官を目指す者がますます減るのではと危惧される不自由さの象徴である。
「裁判をしない裁判官」優遇、意思決定の歪さなど、その弊害は弁護士時代より裁判官経験の方が長くなった竹内さんの具体的なエピソードの数々で(時の所長等顕名にしているところも好もしい)納得することができるだろう。そこで、少しだけ注文もある。女性の方が心の優しい人が多いから裁判官向きだとするところや(80頁)、裁判官が男性の場合を前提として、官舎で夫の出世話でいたたまれなくなる妻の話であるとか(168頁)、ジェンダー感覚が少し古いのではないだろうか。最高裁判事の年齢を問題にしている点からも、裁判所におけるその不均衡を積極的に取り上げて欲しかった。
ところで、本書でどちらかというと「リベラル」系として名を挙げている泉徳治裁判官と金築誠志裁判官(いずれも最高裁判事)。1994年4月に司法修習を優秀な成績で終え、裁判官への任官を目指していた神坂直樹さんが「任官拒否」された際の判断機関、「裁判をしない裁判官」として最高裁事務総局人事局長だったのが泉裁判官、任用課長だったのが金築裁判官である。神坂さんは任官拒否の理由は思想差別であるとして、行政訴訟、国賠訴訟を争ったが、どちらも敗訴している。その訴訟では裁判官任用の経緯を明らかにするため泉、金築裁判官の証人採用を求めていたが、理由もなく採用されなかった。いくら判決や退官後の言論で「リベラル」であっても「裁判をしない裁判官」であるときはそのリベラルさを発揮できないという構造的問題があると言うことか。
本書は、一部の書店で平積みになるなど、大変な売れ行きとのことだ。散見される誤植の類も増販で訂正されることを望む。(『「裁判官の良心」とはなにか』2024 LABO)