ポンピドゥー・センターは正確にいうと美術館のみならず舞台芸術や映像、研修センターなどを含む複合施設であって、その中の国立近代美術館は一セクションに過ぎない。しかし、パリ市民でない限りポンピドゥー イコール美術館である。
ルーブルが印象主義前、オルセーが印象主義、そしてポンピドゥーがその後ときっちり棲み分けがなされているパリの三大国立美術館のなかで、おそらくポンピドゥーが一番知名度も低く、観光客が訪れないところであろう。しかし、世界中の近代・現代美術館 - MoMA、テートモダン、ピナコーテク・モデルニ ― と比べても最大級の規模である、と思う。だから以前パリに行った時もオルセーには行かずポンピドゥーには行ったことがある。
現代美術館である限り、収蔵(候補)作品は日々増えていく運命にある。そのなかで何を収蔵あるいは展示し、鑑賞者にプレゼンするかが問われている。数年前ポンピドゥーを訪れたときは女性作家に焦点をあてた特別展をしていて、ニキ・ド・サンファルの巨大な作品などあり満喫したが、今回兵庫県立美術館に来た作品群はニキよりも新しいものが多く、意欲的、挑戦的である。
展示作品の中、日本で一般に知られている作家は少ない。強いていえばゲルハルト・リヒターやサイ・トゥオンブリー、ピエール・スーラージュなど戦前生まれの人たちであろう。この人たちは言わばドローイングの名手である。リヒターの大きな筆で描いた後わざと横に刷ったような、まるで心電図か何かのような流れるドローイングは有名だが、トゥオンブリーは抽象表現主義の大家。ポロックなど天地左右が不明な絵画は抽象表現主義の特徴だがトゥオンブリーの作品も、どちらを上にしてもいいように見える。だから隅々まで筆を走らせた繊細さこそ、これらドローイングの本道としてすばらしい。ドローイングというと大きな筆で無計画に書き殴ったもの、というのがまだまだ現代美術全般に対するものも含め、その印象ではないだろうか。しかし、ポロック、トゥオンブリーを見れば分かるように綿密に計算され、どの方向からの視線にも耐えうる迫力に違いない。
50~60年代がドローイングの時代であれば、その後はインスタレーション、そしてビデオ等映像を中心とした見せ方の時代である。今回出展された作家は総じて若い。平面作品でいえば、無機質な工場風景画、疎外感を露わにしたヴィルヘルム・サスナレウは72年生まれ、モンドリアンを思わせる単色のブロックの張り合わせだけで複雑な立体図を想起せしめたファラー・アタッシは81年生まれである。映像ではアルプスの山並みとチェロで対話するツェ・スーメイは73年生まれ、のぞき見を罪悪感なく経験させたレアンドロ・エルリッヒも73年生まれ、水中で舞う女性の衣が見飽きさせないジャナイナ・チェッペ(この作品が今回お気に入り!)も73年生まれ。インスタレーションでは見る者の触覚や嗅覚まで喚起させるエルネスト・ネトは64年生まれである。それほどポンピドゥー・センターが日々、現代美術に“現代的に”向きあい、現代の地位を失わない探究と好奇の姿勢を持ち続けているからであろう。
一つひとつの作品の面白さを解説するのは難しいが、じっくり見れば味わい深い作品ばかりである。現代美術という巨大で何を描こうとしているのかよく分からないから短時間で流してきたという人こそ見てほしい、見れば見るほど不思議なコンセプトにあふれている世界を。たとえそれがパリの何百分の一しかでないとしても。(エルネスト・ネト「私たちはあの時ちょうどここで立ち止まった」2002)
ルーブルが印象主義前、オルセーが印象主義、そしてポンピドゥーがその後ときっちり棲み分けがなされているパリの三大国立美術館のなかで、おそらくポンピドゥーが一番知名度も低く、観光客が訪れないところであろう。しかし、世界中の近代・現代美術館 - MoMA、テートモダン、ピナコーテク・モデルニ ― と比べても最大級の規模である、と思う。だから以前パリに行った時もオルセーには行かずポンピドゥーには行ったことがある。
現代美術館である限り、収蔵(候補)作品は日々増えていく運命にある。そのなかで何を収蔵あるいは展示し、鑑賞者にプレゼンするかが問われている。数年前ポンピドゥーを訪れたときは女性作家に焦点をあてた特別展をしていて、ニキ・ド・サンファルの巨大な作品などあり満喫したが、今回兵庫県立美術館に来た作品群はニキよりも新しいものが多く、意欲的、挑戦的である。
展示作品の中、日本で一般に知られている作家は少ない。強いていえばゲルハルト・リヒターやサイ・トゥオンブリー、ピエール・スーラージュなど戦前生まれの人たちであろう。この人たちは言わばドローイングの名手である。リヒターの大きな筆で描いた後わざと横に刷ったような、まるで心電図か何かのような流れるドローイングは有名だが、トゥオンブリーは抽象表現主義の大家。ポロックなど天地左右が不明な絵画は抽象表現主義の特徴だがトゥオンブリーの作品も、どちらを上にしてもいいように見える。だから隅々まで筆を走らせた繊細さこそ、これらドローイングの本道としてすばらしい。ドローイングというと大きな筆で無計画に書き殴ったもの、というのがまだまだ現代美術全般に対するものも含め、その印象ではないだろうか。しかし、ポロック、トゥオンブリーを見れば分かるように綿密に計算され、どの方向からの視線にも耐えうる迫力に違いない。
50~60年代がドローイングの時代であれば、その後はインスタレーション、そしてビデオ等映像を中心とした見せ方の時代である。今回出展された作家は総じて若い。平面作品でいえば、無機質な工場風景画、疎外感を露わにしたヴィルヘルム・サスナレウは72年生まれ、モンドリアンを思わせる単色のブロックの張り合わせだけで複雑な立体図を想起せしめたファラー・アタッシは81年生まれである。映像ではアルプスの山並みとチェロで対話するツェ・スーメイは73年生まれ、のぞき見を罪悪感なく経験させたレアンドロ・エルリッヒも73年生まれ、水中で舞う女性の衣が見飽きさせないジャナイナ・チェッペ(この作品が今回お気に入り!)も73年生まれ。インスタレーションでは見る者の触覚や嗅覚まで喚起させるエルネスト・ネトは64年生まれである。それほどポンピドゥー・センターが日々、現代美術に“現代的に”向きあい、現代の地位を失わない探究と好奇の姿勢を持ち続けているからであろう。
一つひとつの作品の面白さを解説するのは難しいが、じっくり見れば味わい深い作品ばかりである。現代美術という巨大で何を描こうとしているのかよく分からないから短時間で流してきたという人こそ見てほしい、見れば見るほど不思議なコンセプトにあふれている世界を。たとえそれがパリの何百分の一しかでないとしても。(エルネスト・ネト「私たちはあの時ちょうどここで立ち止まった」2002)