希望のない映画が好きだ。ケン・ローチ「マイ・ネーム・イズ・ジョー」、テオ・アンゲロプロス「エレニの旅」、エラン・リクリス「シリアの花嫁」…。これらはいずれも「希望がない」とは一言で言い表せない作品かもしれない。けれど、今後、もう主人公が次の希望を見出すことなんて想像できないラストに打ちのめされて(シリアの花嫁など、ヒロインは撃ち殺されるであろうとところで終わる)、とても「希望」など持つことを許されないように見えたのだ。
イタリア映画「人生、ここにあり!」の原題は「Si puo fare(やれば できるさ)」。オバマ大統領が大統領選で連呼した「Yes we can」を思い出させるようなフレーズだが、オバマ大統領のようなアジテーションではない。できることから始めれば、心に病をもつ者の集まりでも自立、自営、自活、そして企業展開までできるのであるから。
面白いのは、労働組合運動の「過激派」であるネッロが左遷されて送り込まれた先、「共同組合180」が市場に打って出て、自分たちの存在と自由、そして権利を、「普通の」権利を獲得しようとする構造。というのは、労働組合の中でも左派はより資本主義を否定しがちであるし、障がい者の解放は社会主義的発想でしかないと考えていた身にとって、イタリアの労協(労働者協同組合)はとても新鮮であるから。「労働者」も「協同組合」もわかるが、労働者は「労働組合」をつくるものであって、「協同組合」は「生産者」か「消費者」だろう。しかしイタリアでは、「協同組合」方式で、精神病院(または、精神病院が廃止されて以降は病院の精神病棟)の一角に障がい者の作業現場を設けて、入院している者ではなくて、同じ労働者としてなんらかの労働に従事している者としての位置づけであったから。これは、1978年イタリアで制定されたバザリア法=精神病院根絶法を根拠に、精神障がい者は被収容者ではなく、健常者と同じ労働者として地域で生きることを高らかに宣言した後であったが、現実はどうか。同法が実施されたあとも、180(バザリア法の法律番号)は封筒に切手貼りという単純、精神病院時の軽作業、慈善事業となんら変わらない日常で、180の責任者たる精神科医師は、彼らを薬で抑えておかないと何をしでかすか分からないと考えていて、組合員は無気力、無反応の毎日。これでは、バザリア法の理念を現実化できていない、組合員は労働者らしく…。ネッロは過激な改革者の本領を発揮して?組合員を床貼りの仕事に従事させようとするが、予定通り資材が運び込まれず、廃材で床貼りをはじめた組合員は。
あとは、とんとん拍子の成功例のように描かれているが、もちろん、悲劇もある。自由と普通の生活を手に入れた若い組合員ジージョが床貼りで訪れた家の女性に恋をし、パーティーにまで招かれたが、トラブルに。トラブルの原因について女性が「(精神病者であるジージョと)普通に接してしまった私のせいだ」と聞き、絶望したジージョは自ら命を絶つ。精神障がい者の自殺率は高いという。しかし、そもそも、精神障がい者が自らの障がいゆえに自死する社会こそ問題では。
1998年12月。イタリアは精神病院を完全になくした。バザリア法から20年。先進的なイタリアでさえ、理念が現実化するのに20年かかったのだ。そして本作は実話に基づいている。現在、一時的に入院する精神障がい者はいるが、もちろん閉鎖、隔離、長期ではないという。イタリア語通訳の田丸公美子さんが本作を見て、エンディングクレッジットで「今、イタリアには2500以上の協同組合があり、ほぼ3万人に及ぶ異なる能力を持つ組合員に働く場を提供しています」にある「異なる能力を持つ」という表現に感動したという。
日本では「精神病」患者は70万人、ベッド数は35万床という。前述の自死者のなかには年間3万5000人もの自殺者を出しているこの国の数字に当然含まれているだろう。
もう21年前の本になる。群馬は宇都宮病院で閉鎖病棟をなくした石川信義医師の実践(『心病める人たち』岩波新書)は、その後どれくらい広がったであろうか。「異なる能力を持つ」人たちとの共存は、現在能力主義が行き着くところまで、行き着き、精神病ではなくても容易に切り捨てられる社会で、あらためて能力あるなしそのものが問われない社会を希求していると思える。
ユーロ圏の劣等生、経済破たんも遠くないと揶揄されるイタリアを、円高の日本ははたして嗤えるだろうか。冒頭希望のない映画が好きと述べたが、やはり、希望はあったほうがいい。はたしてこの国でそれが可能かどうは別であるが。
イタリア映画「人生、ここにあり!」の原題は「Si puo fare(やれば できるさ)」。オバマ大統領が大統領選で連呼した「Yes we can」を思い出させるようなフレーズだが、オバマ大統領のようなアジテーションではない。できることから始めれば、心に病をもつ者の集まりでも自立、自営、自活、そして企業展開までできるのであるから。
面白いのは、労働組合運動の「過激派」であるネッロが左遷されて送り込まれた先、「共同組合180」が市場に打って出て、自分たちの存在と自由、そして権利を、「普通の」権利を獲得しようとする構造。というのは、労働組合の中でも左派はより資本主義を否定しがちであるし、障がい者の解放は社会主義的発想でしかないと考えていた身にとって、イタリアの労協(労働者協同組合)はとても新鮮であるから。「労働者」も「協同組合」もわかるが、労働者は「労働組合」をつくるものであって、「協同組合」は「生産者」か「消費者」だろう。しかしイタリアでは、「協同組合」方式で、精神病院(または、精神病院が廃止されて以降は病院の精神病棟)の一角に障がい者の作業現場を設けて、入院している者ではなくて、同じ労働者としてなんらかの労働に従事している者としての位置づけであったから。これは、1978年イタリアで制定されたバザリア法=精神病院根絶法を根拠に、精神障がい者は被収容者ではなく、健常者と同じ労働者として地域で生きることを高らかに宣言した後であったが、現実はどうか。同法が実施されたあとも、180(バザリア法の法律番号)は封筒に切手貼りという単純、精神病院時の軽作業、慈善事業となんら変わらない日常で、180の責任者たる精神科医師は、彼らを薬で抑えておかないと何をしでかすか分からないと考えていて、組合員は無気力、無反応の毎日。これでは、バザリア法の理念を現実化できていない、組合員は労働者らしく…。ネッロは過激な改革者の本領を発揮して?組合員を床貼りの仕事に従事させようとするが、予定通り資材が運び込まれず、廃材で床貼りをはじめた組合員は。
あとは、とんとん拍子の成功例のように描かれているが、もちろん、悲劇もある。自由と普通の生活を手に入れた若い組合員ジージョが床貼りで訪れた家の女性に恋をし、パーティーにまで招かれたが、トラブルに。トラブルの原因について女性が「(精神病者であるジージョと)普通に接してしまった私のせいだ」と聞き、絶望したジージョは自ら命を絶つ。精神障がい者の自殺率は高いという。しかし、そもそも、精神障がい者が自らの障がいゆえに自死する社会こそ問題では。
1998年12月。イタリアは精神病院を完全になくした。バザリア法から20年。先進的なイタリアでさえ、理念が現実化するのに20年かかったのだ。そして本作は実話に基づいている。現在、一時的に入院する精神障がい者はいるが、もちろん閉鎖、隔離、長期ではないという。イタリア語通訳の田丸公美子さんが本作を見て、エンディングクレッジットで「今、イタリアには2500以上の協同組合があり、ほぼ3万人に及ぶ異なる能力を持つ組合員に働く場を提供しています」にある「異なる能力を持つ」という表現に感動したという。
日本では「精神病」患者は70万人、ベッド数は35万床という。前述の自死者のなかには年間3万5000人もの自殺者を出しているこの国の数字に当然含まれているだろう。
もう21年前の本になる。群馬は宇都宮病院で閉鎖病棟をなくした石川信義医師の実践(『心病める人たち』岩波新書)は、その後どれくらい広がったであろうか。「異なる能力を持つ」人たちとの共存は、現在能力主義が行き着くところまで、行き着き、精神病ではなくても容易に切り捨てられる社会で、あらためて能力あるなしそのものが問われない社会を希求していると思える。
ユーロ圏の劣等生、経済破たんも遠くないと揶揄されるイタリアを、円高の日本ははたして嗤えるだろうか。冒頭希望のない映画が好きと述べたが、やはり、希望はあったほうがいい。はたしてこの国でそれが可能かどうは別であるが。