オマー・シャリフといえば「アラビアのロレンス」「ドクトル・ジバゴ」。恥ずかしながら内容は全く覚えていない。その彼が80、90年代はほとんど映画に出なかったのは、エジプト生まれのアラブ系が主役をはるような作品がなかったこともあるらしい。イスラムといえば原理主義、自爆テロル、あるいは女性差別など民主主義のなさと、その前近代性、狂信性が喧伝されることが多いが、イスラム世界も広い。インドネシアでは女性首相を戴いていたし、飲酒にも緩やかという。そして「我が故郷の歌」にもあったように「喜捨」の精神は今どき、キリスト教や仏教をいただいている先進国には見られない美徳ではないか。イブラヒムおじさんはイスラムの中でもスーフィーという神秘主義者。その彼が愛でる不幸な少年はユダヤ人。イスラムがユダヤ人に手を差し伸べるなんて素敵ではないか。アッバス首相は自爆テロルを牽制し、和平を主唱しているがシャロンの政策こそ変わらねばなるまい。少年の名はモイーズ。モーゼから来ていることにも納得。理想主義であるけれどインフィデル(異教徒)が互いに手を携えあう優しい作品だ。
京都国立近代美術館は、向かいの京都市美術館が印象派など一般受けの催しが多いのに対し、あくまで近代以降に焦点を当てていて素敵だ。昨年の堀内正和展など行こうと思う人以外は行かないだろう企画も結構多い。強迫神経症とまみえる草間の仕事は、芸術に生きる人間が凡人には理解しがたい繊細さ、緻密さとある種のこだわりを見せつける恰好の材料だろう。草間といえば、ニューヨークに拠点を持ち、これでもかと言うほどの無数の水玉(平面も立体インスタレーションも)や、精子を模ったとしか思えない造形が思い浮かぶ。あたりまえだが、草間が現在のような無数の点の世界を拡げる以前は普通の人体デッサンや肖像画的なものを描いていて、草間のドローイングに対する基本姿勢と基本的技術の高さを証明している。「少女時代から幻覚・幻聴といった体験にみまわれ」(加藤義夫「朝日新聞」1.28.)た草間の精神世界が今、楽しいほど破天荒、大規模なインスタレーションによって見るものの想像の範疇として体験できる。