kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

本当の「絶望」が「壁」を壊す   オマールの壁

2016-06-29 | 映画

前作「パラダイス・ナウ」ではいわゆる「自爆テロル」実行者に選ばれたパレスチナ青年の日常と彼らをとりまく群像劇を描いて見せた。そこでは「殉教」を選ぶ「大義」に重きが置かれていた(理想郷はそこにある パラダイス・ナウ http://blog.goo.ne.jp/kenro5/s/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%B9)。しかし同時に「殉教」までせずとも、日々圧迫の元凶であるイスラエル側に一泡吹かせてやろう、一矢報いてやろうという思いは多くのパレスチナ人に共有されるものだろう。

オマールは高さ8メートルの分離壁をよじ登り、仲間と彼女に会いに行く。ふだんはパン焼職人としてなんとか食いつないでいるが、幼馴染のタレク、アムジャドと練っているのは検問所のイスラエル兵を襲うこと。タレクの妹ナディアと恋仲にあるが、タレクに結婚したいと言いだせないでいる。ある日イスラエル兵に不合理な(そもそも占領自体が不合理、非合理の極みである)仕打ちを受けたオマールは「今日、襲おう」と2人に持ち掛ける。見事アムジャドがイスラエル兵の狙撃に成功するが、秘密警察にオマールは捕まってしまう。拷問、そして「協力者」にならないかと持ち掛けられ、解き放たれるが、それ故非占領、パレスチナ人居住区で「内通者」「裏切り者」と目される。裏をかいて、取引した捜査官らの襲撃を迎え撃とうとするが。

全編緊張感にあふれている。そしてオマールとナディアとの恋の行方も見放せない。しかし、日本の作品名にある「壁」とあるように(原題は「オマール」)その壁は物質的、具体的な壁を表しているだけではない。オマールに「協力者」を持ちかけ、それ故仲間との間に生まれる「壁」、貞操と家父長制が厳しいイスラム社会でナディアとの結婚に暗雲が指す「壁」。そして、オマール自身、自身の本当の気持ちと誰を信じ、信じてはいけないのか、何を信じ、信じてはいけないのかとともに、そういった答えを欲しない、逡巡する自己内の「壁」。仲間のあいだで「こいつがスパイではないか」と疑うことは、相手もそう疑っているということだ。最初捕えられた時、オマールは「自白はしない」と言いきった。その「自白しない」言説自体が「自白」になり「懲役70年」となるから無茶苦茶だ。しかし、オマールの「(それは)変わらないのか?」の問いに弁護士は「占領が続く限り」。

「壁」は絶望の象徴である。絶望した若者は―若者に限らないけれど―なんらかで、自己の命を失うことに躊躇を覚えない。それが「自爆テロル」であったとしても。

しかし、オマールにはナディアと結婚するという夢がある。占領下の夢。これは逆説である。夢とは、自己を束縛しないことを意味するのに、さまざまな「壁」の中でも思い描く夢とは。オマールは、自分を「裏切り者」に仕立て上げ、結果的にナディアとの仲も裂き、パレスチナ社会での自分の立ち位置を貶めた狡猾なイスラエル秘密警察捜査官ラミを、射殺するが同時に抹殺される。

「壁」に明日はない。そして明日を作らない、考えさせない。けれど、生きている。佐高信は、安倍改憲政権の時代にリベラル派の「絶望」が足りないといった。「絶望」と「生きている」ことの両立が大事で、そして「オマールの壁」は観る者を奮いだたさせる。

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世界を知り、世界とつながるとは  世界報道写真展2016

2016-06-19 | Weblog

先日、高遠菜穂子さん(2004年にイラクでボランティア活動中に武装勢力に拉致され、猛烈な「自己責任」バッシングを受けた。同じく拉致された今井紀明さんとともに、その後を描いた作品「ファルージャ」については、http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/e5e3dade79e798c4de5c1f08b57b0532参照)のお話を聞く機会があった。つい最近、高遠さんが現在もイラク市民支援の拠点としていてファルージャが、IS(イスラム国)からイラク政府軍が奪還したと報道があったばかりだが、この2年間ファルージャには入れていないという。高遠さんによれば、イラクのシーア派政権が「スンニ派狩り」として残虐非道の限りをつくしているという。政権は、IS討伐のためとファルージャの街を兵糧攻めにする、ISと関係のなかったスンニ派市民が、政権軍への対抗のためISに参加する。魔の連鎖である。

高遠さんは、スンニ派狩りのひどさや空爆の実態を映像など示して説明する。スンニ派の宗教指導者が突然連れ去られ、目玉をくりぬかれ、内臓を取り出された後胸や腹を縫い付けられた死体で発見される。病院が破壊され、医療スタッフも、器具も薬剤も圧倒的に足りないなか、瀕死の人たちが横たわる。

イラク戦争の時、米軍が劣化ウラン弾を使用したため市民に重篤な後遺症が出ているのは有名だが、同時に、「照明弾であって殺りく兵器ではない」と説明され大量に使用された白リン弾。その白リン弾によって黒焦げになった遺体や全身やけどを負った市民の姿も。

高遠さんが言いたかったのは、米軍(アメリカ)やそれに追随した日本の自衛隊、フセイン政権後のイラク政権やISを告発することではない。戦争の実相と、それを伝え、知ることの大切さだ。日本では高遠さんのときは自己責任バッシング、後藤健二さんと湯川遥菜さんが拉致・殺害されたときにも日本政府は有効な手立てを打てず、また、日本人が拉致されたときだけ中東情勢を大きく報じるだけ。普段、戦火に逃げ惑い、難渋の生活を強いられている人々を報道することない、日本の無関心、内向き志向こそ問題だとするのである。

「高校生の集まりに呼ばれた時には、英語が身につく方法知ってる? みんなが持ってるスマホのアプリに、世界のニュース報道を入れて、聞いていれば英語力が身につくし、世界に触れてるってかっこいいでしょ」「今日の集まりのような年配の人が多い会では、お孫さんにスマホで英語を聞いてるって教えてあげてください。孫に「えっ! おじいちゃん英語分かるの?」って言われたら「まあね」」と笑いを取りながら、世界に触れることの大事さを、今後自衛隊が海外に派兵され、殺し、殺される状況が来た時の覚悟と冷静な現状認識を持つためにも大事であると。「海外派兵後の覚悟」「現状認識」が今般の「安保法制議論に徹底的に欠けている」と、柳澤協二さんや伊勢崎賢治さんらも重ねて指摘しているところだ。

世界報道写真展では、世界で起こっていること、あることを写真という言わば「静止画像」で切り取って見せているが、そこには圧倒的な物語がある。その1枚によって、写っている人々、写っていない人々への想像力を掻き立て、暴力や民主主義、ときに小さな愛さえにも思いを馳せさせる。

今回、社会部門などで、シリア内戦とシリアやアフリカからのヨーロッパ難民を取り上げたものが多かった。それほど、世界をゆるがしている出来事に冷淡に無関心にさえ見えるこの国の報道。報道の自由度が世界で72位とされたこの国の中央誌を飾るのはアイドルグループの解散劇であるとか、不倫とか。恥ずかしい。(シリア内戦で傷つく子どもや、子の亡骸を抱き悲嘆にくれる父親(右上))

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