さすがに「女流」画家という言い方は減り、きちんと「女性」画家と言うようになったが、まだまだだ。「男性」画家といちいち言わないのは、日本人にとって、西洋人の名前だけでは男女分からからというのもあるだろう。けれど、人が男性か女性かといった属性、あくまで属性である、で分けるならば「男性」画家とことわるべきであるのにそれはない。少なくとも「メアリー」ならそもそも「女性」画家とことわる必要もない。
しかし、メアリー・カサットが生きた時代、女性はアカデミーにも入学できず、サロンに出展できず、独学、女性ゆえ数々の困難に直面した。メアリー・カサットが裕福な家庭に生まれたゆえ、画業だけで成功したのは明らかだが、その資金的背景でドガに教えを乞い、画壇に続けることができたのが大きい。
印象派はサロンの趣味や選考過程に反旗を翻したが、サロンそのものに反対したわけではない。ドガのようにサロン解体を叫ぶ画家は少数派で、モネやピサロのようにサロンでの評価に未練を持っていた画家も多い。サロンはもちろんそうであるが、時代ゆえ、印象派の仲間でも女性画家が正当に評価されていたかどうかは不明である。結婚を機に筆をおいた女性画家も多いし、印象派随一の女性画家ベアト・モリゾでさえ、モネの弟と結婚したあとの作品は少ない。
カサットはそのような時代にあってもドガや他の印象派の画家らの手法を吸収し、自己のスタイルを確立したと言えるだろう。それは手法そのものもあるが、画題である。生涯独身であったカサットは自身の子どもももうけていない。しかし、キリスト教絵画の重要画題である聖母子を現代風にアレンジしたかのごとく普通の母と子どもを描き続けた。描くその視線には、慈しみがみて取れる。印象派はルノワールに代表されるように都会の風俗や人々を描き、野外の光を追い求めてジベルニーに庭までつくったモネにしても、大聖堂など建築物を描いたりしている。カサットの師事したドガは、言うまでもなくバレエの裏方に通い詰め、踊り子に執着した。カサットの描く母子は、キリスト教の母子像ではなく、そこいらにまみえる母と子である。そして、技術的には、当時の印象派の画家たちが好んだジャポニズム(=浮世絵)あり、現実のモデルをそのまま描く写実主義あり、である。母が子をやさしくあやす、大事に抱きかかえる、そのような姿を描き続けたカサット。印象派がサロンの求める史劇や神話の世界を否定し、日常の世界、自分らの手の届く世界を描いたにもかかわらず、「女子ども」を描く画家はいなかった。ルノワールのように女や子どもを別々に描いた者はいたとしても。
アメリカという自身の出身である新興国から最大限の評価を得、アメリカに「凱旋」的に受けいれられ、シカゴ万国博覧会の壁画を任されるが、「果実をとろうとする子ども」などカサット得意の優しい母子像は受け入れられなかったという。それ自体が先述の聖母子像であるカサットの選んだ画題は、キリスト教絵画の歴史のないアメリカでは理解、共有する価値観がなかったのだろう。
レンブラントが肖像画の達人と呼ばれた時代、よっぽど高貴な人を除いて対象はすべて男性であった。少なくとも名前がある人は。名前がないという言う意味では同じかもしれないが、カサットの描く母子にはもちろん固有名はない。固有名がないからこそ生まれる普遍性を、女性が画家として生きるのに困難な時代をカサットは観取していたのかもしれない。それは技量をも超える普遍性として。「女性」画家として成功したカサット。その存在の重要性を改めて考えさせるのだ。(カサット「浜辺で遊ぶ子どもたち」)