kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

「聖母子像」から親しみやすい「母子」像へ  メアリー・カサット展

2016-11-21 | 美術

さすがに「女流」画家という言い方は減り、きちんと「女性」画家と言うようになったが、まだまだだ。「男性」画家といちいち言わないのは、日本人にとって、西洋人の名前だけでは男女分からからというのもあるだろう。けれど、人が男性か女性かといった属性、あくまで属性である、で分けるならば「男性」画家とことわるべきであるのにそれはない。少なくとも「メアリー」ならそもそも「女性」画家とことわる必要もない。

しかし、メアリー・カサットが生きた時代、女性はアカデミーにも入学できず、サロンに出展できず、独学、女性ゆえ数々の困難に直面した。メアリー・カサットが裕福な家庭に生まれたゆえ、画業だけで成功したのは明らかだが、その資金的背景でドガに教えを乞い、画壇に続けることができたのが大きい。

印象派はサロンの趣味や選考過程に反旗を翻したが、サロンそのものに反対したわけではない。ドガのようにサロン解体を叫ぶ画家は少数派で、モネやピサロのようにサロンでの評価に未練を持っていた画家も多い。サロンはもちろんそうであるが、時代ゆえ、印象派の仲間でも女性画家が正当に評価されていたかどうかは不明である。結婚を機に筆をおいた女性画家も多いし、印象派随一の女性画家ベアト・モリゾでさえ、モネの弟と結婚したあとの作品は少ない。

カサットはそのような時代にあってもドガや他の印象派の画家らの手法を吸収し、自己のスタイルを確立したと言えるだろう。それは手法そのものもあるが、画題である。生涯独身であったカサットは自身の子どもももうけていない。しかし、キリスト教絵画の重要画題である聖母子を現代風にアレンジしたかのごとく普通の母と子どもを描き続けた。描くその視線には、慈しみがみて取れる。印象派はルノワールに代表されるように都会の風俗や人々を描き、野外の光を追い求めてジベルニーに庭までつくったモネにしても、大聖堂など建築物を描いたりしている。カサットの師事したドガは、言うまでもなくバレエの裏方に通い詰め、踊り子に執着した。カサットの描く母子は、キリスト教の母子像ではなく、そこいらにまみえる母と子である。そして、技術的には、当時の印象派の画家たちが好んだジャポニズム(=浮世絵)あり、現実のモデルをそのまま描く写実主義あり、である。母が子をやさしくあやす、大事に抱きかかえる、そのような姿を描き続けたカサット。印象派がサロンの求める史劇や神話の世界を否定し、日常の世界、自分らの手の届く世界を描いたにもかかわらず、「女子ども」を描く画家はいなかった。ルノワールのように女や子どもを別々に描いた者はいたとしても。

アメリカという自身の出身である新興国から最大限の評価を得、アメリカに「凱旋」的に受けいれられ、シカゴ万国博覧会の壁画を任されるが、「果実をとろうとする子ども」などカサット得意の優しい母子像は受け入れられなかったという。それ自体が先述の聖母子像であるカサットの選んだ画題は、キリスト教絵画の歴史のないアメリカでは理解、共有する価値観がなかったのだろう。

レンブラントが肖像画の達人と呼ばれた時代、よっぽど高貴な人を除いて対象はすべて男性であった。少なくとも名前がある人は。名前がないという言う意味では同じかもしれないが、カサットの描く母子にはもちろん固有名はない。固有名がないからこそ生まれる普遍性を、女性が画家として生きるのに困難な時代をカサットは観取していたのかもしれない。それは技量をも超える普遍性として。「女性」画家として成功したカサット。その存在の重要性を改めて考えさせるのだ。(カサット「浜辺で遊ぶ子どもたち」)

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「受け継ぐ者たちへ」真に受け継ぐやり方とは   「奇跡の教室」

2016-11-12 | 映画

フランスは揺れている。映画の冒頭、学校にムスリムの生徒がスカーフを被ってやってくる。バカロレア(高校卒業・大学受験資格国家試験)の合格証明書を取りに来ただけなのに「校内ではスカーフを取」るよう教師に言われ、揉める。在校時はスカーフをはずしていたのに。フランスのライシテ(世俗主義)は公の場で徹底的に宗教性を排する。学校でイスラム教の象徴であるスカーフは許されないし、十字架も隠せと言われる。それは宗教的権威や王制を否定した共和制の証と伝統なのであろう。しかしトリコロールの青「自由」は、自由であれというあまり、時に規制の方向へ走る。スカーフが学校でムスリムを多数派にするわけでもないし、ましてやイスラム原理主義の温床になるとも思えない。自由が不自由を生み出すジレンマ、これもまた民主主義的共和制の苦悶の姿でもあるのだろう。

パリ郊外の移民の多い地域クレテイユのレオン・ブルム高校の1年生ゲゲン先生のクラスは荒れ放題。授業中に化粧はするわ、ヘッドフォンを離さないは、授業妨害、けんかも。アフリカ系、アラブ系、日系の子もいる。成績は最低、無断欠席も多く「問題クラス」。歴史地理と美術史を教える担任のゲゲン先生は、生徒らに目標と一緒に作り出すことの大切さを教えようと提案する。「ホロコーストでの子ども、若者のことを調べてコンクールで発表しよう」と。もともと授業もきちんと聞いていないし、「調べる」訓練もしていない生徒らは興味も持たず、あるいは「できるわけがない」。そもそも彼らには家庭での学習環境が整っていない。アル中の母親を持つレアは将来「生活保護で生きる」とい言い放つ。けれど、みんなが少しずつゲゲン先生の情熱と生徒に対する信頼に気づき、熱心に調べ始めたころにはレアも変わる。強制収容所経験のある、ユダヤ出身の政治家シモーヌ・ヴェイユの自伝を読んではまりこんでいくのだ。極め付けはアウシュビッツからの生還者レオン・ズィゲルが生徒らに自身の経験を語った場面。いくらインターネットでサクサクと調べても、文献で読んでも感じられなかったホロコーストの実態を、証言者の語りに、真実の訴えに、あれだけ落ち着きなく騒いでいた子どもらが沈黙、引き込まれ涙する。生徒の「宗教があなたを生き残らせたのですか?」という質問にズィゲルは答える。「いえ、私は無神論者です。がんばったことを後で自慢しようと思ったこと、それが支えでした」。なんのことはない、ズィゲルもいいかっこをしたかったブルム校の生徒と同じ10代の普通の子どもだったのだ。

出来すぎだが、レオン・ブルム校の生徒とゲゲン先生の発表はコンクールで一等賞をとる。けばけばの化粧だったレアは、コンクールのプレゼンテーションですっぴん、堂々とグループの成果を述べる。しかし本作はノンフィクションであるところがすばらしい。ゲゲン先生は名前こそ違うが、高校も生徒も実在で、ゲゲン先生のモデルとなった教員は今もその高校の教壇にたっている。

生徒の中アラブ系で、次第に熱心なイスラム教徒と変化していく男子は、同じくアフリカ系ムスリムと諍いをおこす。「なぜ、モスクに来なかったのか」。名前もムスリム的に変え、ユダヤ人虐殺を指弾することは、イスラエル称揚につながるとグループ学習に距離をおく。結局彼は、共同作業はするが、コンクールの発表・表彰式には参加しなかった。一方、人種を超えて共同作業の価値を知った生徒は街中でムスリム差別に直面する。さらに学習の中で分かったのは、ナチスドイツに支配され、傀儡となったときのフランスはすすんでユダヤ人やその子どもを強制収容所送りとして差し出したことも。

自信と目標、学び続けることの大事さを知った彼ら彼女らはゲゲン先生のクラスを離れた後も、バカレロアで優秀な成績でとおった者が多いという。しかし、度重なる「テロ」で分断がすすむフランスでは、来年の大統領選で極右・排外主義の国民戦線のマリー・ルペンが勝ち抜くこともあり得る様相。すでに日本ではグローバルスタンダード的には「極右」の安倍政権が盤石。先ごろアメリカではレイシストのトランプ大統領が誕生した。EUを離脱したイギリスに、オーストリア、ハンガリーなど排外・右翼政権の誕生がヨーロッパを席巻している。

なにごとにも、とことん議論を尽くし、「自由」と「平等」、「寛容」を旨とするフランスのそれら価値は「教室」から生まれ、育まれる。軍国少女、戦後その反省から民主教育にまい進した北村小夜さんは、「戦争(軍国主義)は教室から生まれる」と指摘した。「奇跡の教室」の原題は「受け継ぐ者たちへ」。受け継いでほしいし、受け継いでいいと思ってもらえるほどの引継ぎが、戦争を知る者と、その橋渡しを紡いだ世代の責任である。

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