kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

リーメンシュナイダーを巡る旅 2012ドイツ旅行記③

2012-09-29 | 美術
ローテンブルクはロマンチック街道一の人気のスポット。街は城塞の中だけならほんの2、30分もあれば端から端まで周れそうな規模である。前日に滞在したヴュルツブルクもそうだったが、このローテンブルクも9月のドイツとは思えないほど暑かった。街を歩くにもペットボトルの水が欠かせないほど。歩くのも大儀になってきた。
そのような予想外の暑さに負けてしまったわけではないが、残念だったのは聖ヤコブ教会のリーメンシュナイダー作「聖血の祭壇」にたどり着けなかったこと。どうも聖ヤコブ教会を訪れたとき、教会は開放している場所が制限されていて「聖血の祭壇」へはその日は行けなかったのだ。とても残念だが、ヨーロッパの教会や美術館等ではよくあること。事前のお知らせもなかったり、あっても、サイトではドイツ語だけで見つけられなかったのかもしれない。
昼間の暑さを避けて一旦ホテルで休んであらためて旧市街の町中へ。思い直して、福田緑さんに教えていただいたリーメンシュナイダーの作品のある小さな教会を二つ。フランシスコ教会は『地球の歩き方』では教会の場所だけ記載されていてなんの説明もない観光地ではない地元の教会。そこにあるのが「聖フランシスコ祭壇」。聖フランシスコは福田さんによれば「聖フランキスクス」という名でイタリアはアッシジの裕福な生まれ。鳥と会話できたという(『祈りの彫刻 リーマンシュナイダーを歩く』(丸善プラネット 2008年)。13世紀初頭に活動した聖フランシスコは伝説も多く、ジョットの祭壇画にも頻出する。その聖フランシスコが驚いている様は、福田さん前掲書によればキリストと同じ聖痕がついている。そこまではよく分からなかったが、相方のレオ修道士が聖フランシスコの様に頭を抱えているので、おそらくはキリスト受難の場面を同時的に看取したのであろうが、詳細は不明である。福田さんのおっしゃるようにリーメンシュナイダーにしては少し、「ずいぶん明るい感じ」ではるが、彩色されていること、表情が他の代表的作品に比して峻厳に見えなかったことによるかもしれない。しかし、聖フランシスコはイタリア以外では描かれたことは少ないらしく(ジェイムズ・ホール『西洋美術解読事典』)、そのような聖フランシスコ像を分かりやすく(聖痕や腰帯は典型)、イタリア外で彫り表わそうとしたリーメンシュナイダーの仕事の誠実さにあらためて思い馳せてしまうのである。
フランシスコ教会から北へ5分ほど。城外すぐの聖ヴォルフガング教会はさらにひなびたところ。所在無げにたばこを吸っていたおじさんが、私たちが訪れてきたのを見ると受付に変身。誰もいない。打ちつけの修復作業中(?)の建物内にほこりで汚れた椅子。はたして、信者が毎日あるいは毎週礼拝しているのだろうか。残念ながら「これがリーメンシュナイダーの!」という感動的作品ではなく、ありきたりの祭壇像であった。よく見るとリーメンシュナイダーの作かどうかも筆者には見分ける技量もなく、見過ごしそうなものである。ただ、生涯にあれだけの彫像を遺したリーメンシュナイダーであるから、目見開かされる作品ばかりでもないのも事実である。むしろ作品全体においては教会に納められた祭壇(像)のほうが少ないので、リーメンシュナイダー自身の事情(ちなみにこの聖ヴォルフガング祭壇は福田さんによれば1514年作で盛期とは言えない)、教会側、そして時代状況などさまざま事情により、秀作が納められる条件にはなかったのかもしれない。
ローテンブルクは人気のある町だけであって、日本人観光客も多かったが、街の雰囲気を楽しむ以外はそれほど大きな観光名所があるわけでもない。どうも街の規模以上に土産物屋が乱立していて、さながら倉敷のよう。倉敷ほど俗化しているとも思えないが、聖ヤコブ教会をはじめ、そこにある美術作品を楽しめないとローテンブルクそのもので過ごす時間はむしろもてあますのではないか。ときに大勢でやってくるバスツアーが、ロマンチック街道一の美しい街を2時間そこらで去っていくその理由も分かった、小さなリーメンシュナイダーと出会いであった。(聖フランシスコ祭壇)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リーメンシュナイダーを巡る旅 2012ドイツ旅行記②

2012-09-23 | 美術
リーメンシュナイダーは「中世最後の彫刻家」と言われる(『リーメンシュナイダー 中世最後の彫刻家』高柳誠著)。なぜそう呼ばれるのであろうか。まず「中世」。ヨーロッパではルネサンス以前、15世紀頃までを指すが、日本では安土桃山と江戸時代を近世という呼び方をしており、中世というとえらく古い時代のように思える。もちろんヨーロッパでも中世は古い時代に違いないのであるが、ルネサンスの時代は同時に、マルティン・ルターにはじまる宗教改革、後にプロテスタントと呼ばれるキリスト教原理主義が勃興した時代であり、美術史的にはそれ以前の豪勢な教会建築・教会美術が廃れていく時代でもある。であるから、15世紀末から16世紀初頭に活躍したリーメンシュナイダーの仕事は大変貴重であり、彼の後に、キリスト教を主題とした重々しく、壮大な彫刻はあまり造られなかったという点でまさしく「中世の彫刻家」なのである。
ヴュルツブルクを出て、ローテンブルクに向かう途中で小さな街クレクリンゲンを訪れたのは、リーメンシュナイダーの傑作「聖母マリアの祭壇」に見えるためである。ヘルゴット教会は街自体も小さいのに、その市街地からさらに2キロほど離れたところにある。ただ、教会のそばにヨーロッパバスの停留所があり、訪れる人は訪れる場所であるらしい。雰囲気のある墓碑が立つ墓地を横目に教会に向かう。小さな建物の入口は空いていて、受付兼販売係の女性が、私たちの姿を見るとあわてて教会内に入り「ウエルカム」という。入口をくぐり、ああここで入場料を払うのだなと思い、財布を空け、振り返ると息を吞み、声をあげた。「これが…」。
教会は本当に小さい。信者が座り、跪く席は100もないのではないか。神父の説教席も立派ではない。しかし、教会の中央にそびえる祭壇は、祭壇が教会のためにあるのではなく、教会が祭壇を風雪から守るためにこしらえられたことが分かるようだ。この空間すべてが祭壇のためにあり、訪れる人はこの祭壇に最大限の敬意を払い、神聖な教会内部であるという以前に、この祭壇の前では一言も発してはならないのだ。「すばらしい」と心の中で小さくつぶやく以外には。
高さ9メートル20センチ、幅4メートルの菩提樹の祭壇は、世界中無数にある祭壇の中でも屈指の美しさと厳粛なたたずまいを備えているに違いない。もちろん他のすぐれた祭壇を知っているわけではないが、例えばヤン・ファン・エイクのゲント祭壇画は「聖母マリア」より60年ほど古いが、その色合いの素晴らしさに惹かれてしまうが、「聖母マリア」は木目そのままである。
「マリア祭壇」は、中央の昇天するマリア像とその下方に12使徒、上方の厨子は昇天したマリアと左右に神とキリストの「聖母戴冠」、左右の翼は左下に「受胎告知」、左上はマリアの「エリザベト訪問」、右上は「イエス誕生」、右下に「神殿参拝」。この祭壇でイエスの誕生以前から、昇天までマリアの物語の全てが語られている。マリアの悲嘆を示すキリスト磔刑や降架の図がないのは、この祭壇が「マリア祭壇」であって、イエスの祭壇ではないためだろう。
ブロックあるいは翼一つひとつの美しさに言及するのは筆者の力に余るし、また、陳腐なことばを重ねるくらいなら、この「マリア祭壇」全体に圧倒された余韻をできるだけ伝えた方がよいと思う。その細かな細工は言うに及ばず、マリアも、12使徒もきちんと彫り分けられた表情に出会うとき、ことばなどいらない。なぜこれほど厳かであるのか、生真面目ほど美しくあるのか。そして彼らはことばを発している以上にことばを超えているように思えるのか。
リーメンシュナイダーの塑像はすべて目を見開き、その目が多くを語っているように見える。それは、キリスト教が定着して1200年、強大な教会権力が腐敗していく中で、ルターらの宗教改革前夜、信仰に生きるとはイエスとマリアの物語以上でも以下でもなく、また信仰に生きた人に思いを馳せること(リーメンシュナイダーには聖人像作品も多い)、そしてきらびやかな、大金を集め贅を尽くした教会ではなく、地元の村の小さな教会で祈ることだけであったのではないか。
プロテスタントという枠組みが次第に生成していく中で、祈りの原点に戻れとカソリックの時代(もちろんカソリックという呼び名はないが)に「最後の」彫刻家として生きたリーメンシュナイダー。そのノミの跡は冷たく、そして温かく想像力を刺激してやまない。(聖母マリアの祭壇)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リーメンシュナイダーを巡る旅  2012ドイツ旅行記①

2012-09-17 | 美術

まず、今回ティルマン・リーメンシュナイダーの作品を辿る旅となったきっかけの一つであり、膨大な量の彼の作品を網羅・整理し、たくさんの情報を提供してくださった福田緑氏に感謝したい。(福田さんのサイト「リーメンシュナイダーを歩く」も必見  
 http://www.geocities.jp/midfk4915/j_top.html)
今回の旅は、いつものようにヨーロッパの比較的都会の美術館を周るのではなく、リーメンシュナイダーの作品を安置する地方の美術館や教会を目指したため、レンタカーを借り自分で移動することにした。これが結構大変で、日本でもあまり運転しない自分が左ハンドルで右側通行することになろうとは。しかし左ハンドルは、違和感があったのは最初だけでそれほど苦ではなかったが、AT車を希望したため、予約していたレベルでの車の空きがなく(ドイツではミッション車が主流)、グレードアップしてくれたのが問題だった。スウェーデンはVOLVOにしてくれたのだが、これが大きい。背が低く、短足のわが身は日本でレンタカーを借りる時も比較的小さな車種にしているし、果たしてアクセルに足が届くだろうか…。なんとか席を前にずらして足は届いたのだが、車幅感覚が最後までつかめなかった。車の右側をぶつけそうになったことも何度か。しかし選んだ道、さあ、リーメンシュナイダー 祈りの彫刻に会いに行こう!
リーメンシュナイダーが市長まで務めたロマンチック街道の起点ヴュルツブルク。マリエンベルク要塞の一角がマインフランケン博物館となっており、ここにはリーメンシュナイダーだけの展示室がある。
80点もほどのリーメンシュナイダー作品に囲まれる至福は想像しがたいかもしれないが、一部屋すべてがただ一人の作品というのは、たとえばオルセーでドガの部屋があるとか、ロートレックの間があるとか、絵画の世界では普通だが、彫刻では珍しいのではないか。チューリッヒ美術館にはジャコメッティの部屋があるが、ここは中世彫刻、マリアをはじめキリスト教にかかわる作品ばかりである。しかも、後の時代に教会に寄進した貴族らの彫像といったものは一切なく、すべて聖人である。そして岩彫りもあるが、その多くは木彫、菩提樹である。木彫の美しさ、温かさ、清貧さといったらいいだろうか、その峻厳性はすぐれた木彫りの仏像多く持つ日本では理解されるだろうか。というのは、言うまでもなく西欧は石の文化。リーメンシュナイダーが活躍した15世紀末から16世紀初頭といえば、イタリアルネサンスの盛期が花開く直前、すでに彫刻は石が主流だったからだ。そして、日本では室町時代、戦国時代。どんな仏師や仏像も思い浮かばないところが悲しいが、少なくともリーメンシュナイダーに匹敵するほどの作品数とその崇高性を超える彫刻家がいたとは思えない。
改めてマインフランケン美術館の部屋に踏み出せば、正面にアダムとエヴァ像。その少年・少女性が感じられる若々しさと楽園を追われる前の好奇心と戸惑い、人類の起源を背負うにはあまりにも弱弱しい躯体に、後世の人類たるこちらの方から手を差し伸べたくなる脆さ。もっとも砂岩でできていて屋外にあったため浸食が激しかったものを今日マインフランケンに移設したというから、その脆き様相は表情ばかりのせいではないのかもしれない。けれど、リーメンシュナイダーがこの作品をもって認められ、ヴュルツブルクの市参事(市会議員みたいなものか?)後に市長に選ばれるのであるから記念碑的な先品には違いない。
マインフランケンのこの部屋にはアダムとエヴァ像以外にも惹きつけられる作品がたくさんある。一つひとつ紹介したいが、その能力がないのがまた悲しい。(続く)(アダム像とエヴァ像)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする