kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

古い物語のなかの新しき試み  「ラファエル前派からウィリアム・モリスへ」展

2011-02-27 | 美術
自慢ではないが、引っ越しした際にカーテンを新調し、ウィリアム・モリスの「フルーツ」をしつらえた。季節を問わず、派手すぎることもなく結構気に入っていて、客人が来た際には見せびらかしている(かかっているだけだが)。モリスが主導したアーツ&クラフト運動が、柳宗悦らの民芸運動に連なったのは有名だが、モリス以前はどうか。
ラファエル前派は、当時アカデミー画壇が信奉していたイタリアルネサンス盛期のラファエルより初期ルネサンスの美に価値を置く意味で名づけられた。ジョン・エヴァレット・ミレイ、ウィリアム・ホルマン・ハントそしてダンテ・ゲブリエル・ロセッティらの若者が活動を始めた。その思想的支柱、彼らを支えたのは文芸家、批評家のジョン・ラスキンである。
ゴシックを礼賛したラスキンだが、ロセッティらを強力に推挙した。ラスキンの支持を得たラファエル前派は、アカデミーの古い歴史絵巻や、当時フランス画壇で中心をなしていたロマン主義とも一線を画し、人気を博していく。だが、ミレイがラスキンの妻と恋仲になり、ラスキン夫妻の壮絶な離婚劇など、ラファエル前派は長続きしない。前衛的な試みに憑かれた若者ゆえに離散するのも速かったのかしれない。「前衛的な試み」と記したが、ラファエル前派の画題や方法論は実は前衛的ではない。
フランス画壇がロマン主義から、屋外に出て絵を描きだした時代。実写を旨とするバルビゾン派からやがて印象派と連なる時代に、ラファエル前派が好んだ画題はシェイクスピアをはじめとする旧い物語の世界である。さらにパリ画壇では印象派も古く、後期印象派やポスト印象派と言われるセザンヌをはじめキュビズムの萌芽の時代、ラファエル前派の画題は聖書までさかのぼる。もっとも、フランスとてみんながみんな印象派に流れたわけではないし、アカデミーの権威がなくなったわけでもない。そして、イギリスでは印象派以前にターナーといったすぐれたロマン主義の画家がいたし、ラファエル前派からアーツ&クラフト運動のデザインと親和性があるヴィクトリア美術は、イギリス画壇の中心を常に占めていたわけではない。要は、王制を廃したフランスと王制を存続したイギリスとの違いも含めて、アカデミーをはじめとする中央画壇が、ラスキンを代表する革新への理解を欠き、また、どちらにもに対するそれなりの支持が拮抗していた近代市民社会の揺籃が、劇的に発する時代を明確に示していた、ということなのであろう。
今回、驚いたというか、新鮮であったのはラファエル前派の作品の多くが水彩で描かれていたということ。印象派がカンバスに油彩という絵画の、いわば「定型」を墨守したのに比べて紙に水彩とはあまりにも弱弱しい。しかし、考えてみれば、バルビゾン派が自然を描くとき、戸外に出ることはあってもどこかアカデミー的な屋内絵画であったのに比べて、イギリスではターナーの時代から「写生」の文化が根付いていたのも知れない。ラファエル前派が歴史物語を描く際もどこか「写生」的である。
アカデミーに干されたことを恨み、結局はラファエル前派と距離を置き、最終的にはアカデミーの会長におさまったミレイと違い、歴史物語を描くことにこだわったラファエル前派の後期後継者エドワード・コリー・バーン=ジョーンズの描く細密な姿絵は、どこかカナレットなどロココの筆を彷彿とさせる。
その細密さはモリスのデザインにも受け継がれていくが、それは、ロココのそれではもちろんないし、スーラなどの科学的、幾何学的な分析ゆえの非人間的のそれでもない。どこか、あたたかい風合いは、雨の多い容易ならざる自然との親和性との解説も可能だが、ここはラファエル前派には属しなかったがその最強の後継者とされるウォーターハウスの神話画がどこか人間的であることをもってして、ラファエル前派の遺産を喜びとすることにしよう。(ロセッティ「祝福されし乙女」)
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「養子」という「適合」の試練   愛する人

2011-02-06 | 映画
英語のadaptは「適合させる」とか「順応させる」、「調整する」などの意味であるが、形容詞のadaptedになると「…に適した」となり、adapted childで「養子」である。映画の中で養子を得、初めての子育てで混乱するルーシーが母親に「そもそも養子なんて不自然、無理」との泣き言をもらすシーンがあるが、子どもを持つことについて養子は確かに不自然ではあろう。しかし、血縁関係があるから愛せるか、うまくいくかは「自然」とは言い難いし、ある意味関係のないことだ。
「適合させる」「順応させる」のが養子の意味としてふさわしいかどうか別にして、養子縁組というのはやはり「適合させ」て「順応させる」ものであろうし、養子が小さければ小さいほど、その「適合」や「順応」は養親の側ばかりが負うものであろう。養子の側も適応できればよいが、自身が養子であることを知ったとき、実親に対してどう思うだろうか。
物語はオムニバスのように進み、14歳で娘を出産したカレンが、娘を母親に養子に出され、その母を恨んだまま母は亡くなり、その娘エリザベスの忘れ形見(を育てているのがルーシー)と出会うところで終わるといういわばできすぎた展開ではある。そして、ロスアンジェルスという土地柄、カラードや黒人も普通に登場するが、見たところ皆ローワーではない。カレンは理学療法士でフルタイム、ルーシーも実家の?ケーキ屋、エリザベスに至ってはやり手の弁護士である。そのあたり、現実的でない気もするが(ロスアンジェルスの感想は、アメリカ西海岸美術紀行3  2010年1月記( http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/a28d4fbacd4e0ff9a6c3ca114eec4b8c)で記した)が、白人より黒人、ヒスパニック系、コリアン、チャイニーズ系が多い土地柄であるので、人種的には配慮されていると思うが、要するに養子を求めたり、自立的に自らの子を養子に出したり(ルーシーに出産後すぐに養子に出すと約束していた黒人の大学生レイ)する層はある程度ローワーではないのだろう。そして、養子を斡旋するのがキリスト教系施設であるのが見てとれるように、信仰に熱心であるかどうか別にして、キリスト教的価値観がある程度自然に受け入れられている地域ならではの特色かもしれない。そのあたりは日本と事情が違うのかも。ヒスパニック系の多くはカソリック地域出身。養子について教会などキリスト教団体をとおすことが一般的なのかもしれない。一方で、レイがルーシーに「神を信じるか」などとしつこく問うシーンは哲学的でもあって、まだ「自分の子ども」という観念が、出産という事実に優っているレイの姿を象徴的に物語っている。観念ではなく、自分の子どもを認識したレイは結局ルーシーにわが子を養子に出すことを拒否するが、子どもを持つ、育てるという事実が理屈ではなく、実態、実感として迫ってくる好例であろう。しかし、その実感を深く感じさせないためにカレンの母親は、カレンの子どもをすぐにカレンから引き離した。そ罪悪感に苛まれていた母はカレンにその呵責を伝えることができないまま死に、カレンは母親の本当の声を聞かないまま母を失う。そして、養子であることで肉親を、いや、心情的に深い人間関係を拒否して生きてきたエリザベスはわが子を産み落とした後亡くなってしまう。まるで、人間関係を拒否してきた自己を罰するかのように。
結局、血縁でないこと、なんらかの理由でその関係を失った、知った人は血縁を求め、血縁である人にとってはそうまでして血縁にこだわる理由が分からなかったりする。しかし、大養子社会のアメリカでは、養子は普通のことでもある。アンジェリーナ・ジョリーやマドンナなど有名人が養子をとることも多い。そして、一方、自己の出自や自分の子どもがどうなったか知りたいという気持ちが沸き起こることも想像できる。
ステップ・ファミリー。アメリカに限らず、欧米で両親が離婚、結婚を繰り返し、血の繋がっていない親と暮らす子どもたち少なからずステップ・ファミリーを経験するが、それはそのような家族形態が当たり前であるという前提で成り立っている部分もあるし、血のつながりに重きを置いていない背景もあるだろう。そういう意味では本作は、育ての親か、産の親かといった古い論争をはじめ、自己のルーツ探しとしての癒しとは何かという近代的人間が生きていくうえでのアイデンティティ(探し)をも考えさせられる映画を超えた作品である。
日本映画「生まれる」を最近、法律的婚姻関係を前提とし、男性をさきに紹介するジェンダーバイアスを辛口で紹介したが(ジェンダーの視点も必要  でも見てほしい「生まれる」 http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/98a0a7a63e1fab66e547a70ab831d715)、血縁を前提とした生のあり方が基本の日本では、本作の問題提起する地平はまだ容易に近いものとは言えないのではないか。そういう意味では向井千秋さんとか野田聖子さんとか、日本的子どもの持ち方自体また違った視点で見えてくるものがあるよう思える。
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