ヨーロッパの街が好もしいのはトラム(路面電車)が走っていることである。しかしロンドンやパリほどの大都会になると走っていない(厳密に言うとパリにも路面電車はあるが、郊外で観光客が載る機会はない)。しかし両都市と並ぶ巨大都市のベルリンでは、旧東ベルリン地区で今も市民の足となっている。路面電車はいい。街の雰囲気も人の流れもゆっくりと見られる。
ケイト・ウィンスレット演じるハンナは路面電車の車掌である。残念ながら路面電車は本作の重要なモチーフではない。むしろ驚いたのは、ハンナが非識字者であっても車掌の仕事につくことはできたということだ。よく働くハンナは事務職に昇格すると聞いて逃げ出す。同時にマイケルの前からも。
10年以上前に読んだベルンハルト・シュリンクの原作「朗読者」は、非識字者のハンナがナチスの元親衛隊でユダヤ人虐殺に関わっていたこと、そしてマイケル(名前は忘れていたが、ドイツ人で「マイケル」に違和感はあるが)にとって痛い、いや、読む者にとって痛い物語であったこと以外は正直なところあまり覚えていない。
大上段に論ずるなら戦争責任は誰にあるのか?が問われていて、同時にファシズムは降りかかってきたものなのか?主体的に担っている人がいるからファシズムたり得たのか?が問われている。
映画はむしろ、少年の恋とその喪失故のトラウマ、そのトラウマを凌ぐほどの厳しい現実と事実にスポットをあて、マイケルがそのトラウマのつき合い方と解消を娘に過去を話すことで希望の未来を描くことで終わっている。原作にはないシーンである。
「朗読者」に愛がなかったとは言わない。しかし、少年期の「愛」とは、初めてセックスをした相手に抱くそれに投影されがちであることは容易に想像できる。年齢を経、セックス経験も豊富になればそれが「愛」に直結することは少ないかもしれないが、では「愛」とは何か? むしろマイケルの「愛」は、ハンナと濃厚な時間を過ごした時ではなく、収監されたハンナに「朗読者」に徹し、テープを送ることでハンナを理解、その思いを伝えようとしたことが自体が「愛」なのではあるまいか。
ドイツにおけるナチの戦争犯罪に対する追及は、映画で描かれているように裁判を通じてその清算が続いている。問題はヒムラーやアイヒマンなどの大物ではなく圧倒的多数である無知、あるいは貧しさ故のナチ加担者の処遇である。ハンナは自己の戦争犯罪よりも(それを「戦争犯罪」と論理的な言葉として認識してはいない。)、ただ、自分ら看守が上からの指示のみに動いていたあげく教会爆撃=炎上で300人のユダヤ人が亡くなったこと、に対する(人道的)感傷からか教会に参集した時に涙する本源的な感情の発露を現している。しかし、ハンナは裁判長に問う「あなたならどうしますか?」。
そう「あなたならどうしますか?」があまりにも問われてこなかったのだ。ナチの時代のドイツ人に留まらない。日本でもそうである。「一億総懺悔」と思わされた根本原因としての「本土玉砕」を思っていた(ふりをしていた)あなたはどうなのですか? ということである。
マイケルはハンナとの「愛」、それ故の自己のその後の人生の“非”順風満帆性、を自己総括するがために戦争と向き合うということを選んだことが大切で、実はそれで幸せになる人はそんなに多くない。
戦争は歴史ではなく自分の個人史と繋がっていること。であるからこそ、個人史から歴史への想像力が広がる契機としての「朗読者」であり続けること。それはマイケルではない。加害も被害も戦争を経験した国あるいは地域の一人ひとりとして考え続けなければならない試練なのだ。
ケイト・ウィンスレット演じるハンナは路面電車の車掌である。残念ながら路面電車は本作の重要なモチーフではない。むしろ驚いたのは、ハンナが非識字者であっても車掌の仕事につくことはできたということだ。よく働くハンナは事務職に昇格すると聞いて逃げ出す。同時にマイケルの前からも。
10年以上前に読んだベルンハルト・シュリンクの原作「朗読者」は、非識字者のハンナがナチスの元親衛隊でユダヤ人虐殺に関わっていたこと、そしてマイケル(名前は忘れていたが、ドイツ人で「マイケル」に違和感はあるが)にとって痛い、いや、読む者にとって痛い物語であったこと以外は正直なところあまり覚えていない。
大上段に論ずるなら戦争責任は誰にあるのか?が問われていて、同時にファシズムは降りかかってきたものなのか?主体的に担っている人がいるからファシズムたり得たのか?が問われている。
映画はむしろ、少年の恋とその喪失故のトラウマ、そのトラウマを凌ぐほどの厳しい現実と事実にスポットをあて、マイケルがそのトラウマのつき合い方と解消を娘に過去を話すことで希望の未来を描くことで終わっている。原作にはないシーンである。
「朗読者」に愛がなかったとは言わない。しかし、少年期の「愛」とは、初めてセックスをした相手に抱くそれに投影されがちであることは容易に想像できる。年齢を経、セックス経験も豊富になればそれが「愛」に直結することは少ないかもしれないが、では「愛」とは何か? むしろマイケルの「愛」は、ハンナと濃厚な時間を過ごした時ではなく、収監されたハンナに「朗読者」に徹し、テープを送ることでハンナを理解、その思いを伝えようとしたことが自体が「愛」なのではあるまいか。
ドイツにおけるナチの戦争犯罪に対する追及は、映画で描かれているように裁判を通じてその清算が続いている。問題はヒムラーやアイヒマンなどの大物ではなく圧倒的多数である無知、あるいは貧しさ故のナチ加担者の処遇である。ハンナは自己の戦争犯罪よりも(それを「戦争犯罪」と論理的な言葉として認識してはいない。)、ただ、自分ら看守が上からの指示のみに動いていたあげく教会爆撃=炎上で300人のユダヤ人が亡くなったこと、に対する(人道的)感傷からか教会に参集した時に涙する本源的な感情の発露を現している。しかし、ハンナは裁判長に問う「あなたならどうしますか?」。
そう「あなたならどうしますか?」があまりにも問われてこなかったのだ。ナチの時代のドイツ人に留まらない。日本でもそうである。「一億総懺悔」と思わされた根本原因としての「本土玉砕」を思っていた(ふりをしていた)あなたはどうなのですか? ということである。
マイケルはハンナとの「愛」、それ故の自己のその後の人生の“非”順風満帆性、を自己総括するがために戦争と向き合うということを選んだことが大切で、実はそれで幸せになる人はそんなに多くない。
戦争は歴史ではなく自分の個人史と繋がっていること。であるからこそ、個人史から歴史への想像力が広がる契機としての「朗読者」であり続けること。それはマイケルではない。加害も被害も戦争を経験した国あるいは地域の一人ひとりとして考え続けなければならない試練なのだ。