自分自身を振り返ってみても恋愛で舞い上がってしまえば、冷静な判断や全体的・長期的な視野など持てなくなるということはあると思う。そして16歳という、大人に一番近い年齢の子どもにとって、大人の世界を見せてくれ、なんでも叶えてくれる年上というのははまりやすい対象この上ない。
原作は英国きっての人気記者、辛口コラムニストのリン・バーバーの回想録であるという。その実体験を基に、「アバウト・ア・ボーイ」の作家ニック・ホーンビィが脚色、「幸せになるためのイタリア語講座」のデンマーク人女性監督ロネ・シェルフィグがメガホンをとった。そして本作の魅力は16歳の高校生が、大人の世界を知るにつれ美しい大人の女に変わっていく様を演じ、同時に若さ故の苦い青春の蹉跌を描いた主演のキャリー・マリガンその人である。
もちろん本作は青春期の失敗と再生の物語ではあるが、1961年という時代設定、50年前のイギリスの女性の働き方や自立といったフェミニズム的観点を内包した作品である。主人公のジェニーはフランス文化に憧れ、シャンソンを聴き、将来はフランス人になるというのが夢。しかし、現在は学歴のない父親から「オックスフォードに行け」と勉強の毎日。しかも、入学に有利だからとチェロを弾くことをすすめるが、クラシック音楽を聴くことは「無駄だ」という俗物である。雨の日に出会った、いけてるおじさんデイヴィッドに大人の世界を見せつけられ、学業を投げ出し、彼に夢中になる。パリ旅行でバージンも捨て、求婚されると学校も止めてしまう。学歴でないなら金持ち男を捕まえろとあっさり娘の変心を認める父親だが…。デイヴィッドは妻帯者で子どももおり、幾度も同じような事件をおこし、妻には見捨てられていることが分かったとき、ジェニーは。
結局ジェニーがオカタイだけで「女性として」おもしろく生きていないと軽蔑していた英文学教師の口添えがあって、復学でき、その後は勉強一筋、オックスフォードに入学。おぼこい彼もできたが、自分の経験や本心は絶対明かさないと将来にすすむこととなる。
とここまで書くと、ビターだがハッピーエンドか、で終わるところだが、ジェニーのよいのは最終的には自分で判断し、軌道修正も含めて自分の道を切り開いていくところ。ジェニーが校長に退学を告げに行くシーン。校長(エマ・トンプソン!)が「大学まで行けば教師になれる。公務員になれる」と諭すが、一度華やかな世界を知ったジェニーには全く通じない。たしかに60年代のイギリス女性のすすむべき道はかなり選択肢がなかったに違いない。それを分かっていないジェニーは自分で稼ぐのではなく虚飾の世界で生き抜こうとしたかに見える。しかし、夢破れた、信じていたものに裏切られたと分かったとき、ジェニーは静かにその悲しみを引き受け、新しい道を模索する姿は十分自立的な女性像と言える。
デイヴィッドの詐欺仲間の友人ダニーの彼女ヘレンは「ラテン人しか話さないラテン語なんていらないわよね」と話すほど無知であるが、ジェニーの専攻は英文学。さきの教師の授業では「ジェーン・エア」の一節がさかんに取り上げられるが、どのような伴侶を得るかが女性の生き方を支配していた時代から少しも変わっていない20世紀イギリスの現実に実は苛立っていた、そのような現実を直視したくなかったジェニーは十分フェミニストであったのだろう。
しかしフェミニストは思想だけではない生き方そのものという本質が語られるために、20世紀の終わりにも「カレンダーガールズ」(ヘレン・ミュラン主演)を待たなければならなかったイギリス社会の、いや、他の国でも平等や自立といった普遍的概念の「普遍化」には長い時間がかかることを改めて思い起こされる。
女性の精神的自立を描いた英文学といえばジェイン・オースティンの諸作品があるが、書籍も画面で読む時代。紙ベースのほうが、より自立を深く考えることができそうだと考えるのは、旧遺物的発想か。
ちなみに原題は「AN EDUCATION」。「ある教育」である。
原作は英国きっての人気記者、辛口コラムニストのリン・バーバーの回想録であるという。その実体験を基に、「アバウト・ア・ボーイ」の作家ニック・ホーンビィが脚色、「幸せになるためのイタリア語講座」のデンマーク人女性監督ロネ・シェルフィグがメガホンをとった。そして本作の魅力は16歳の高校生が、大人の世界を知るにつれ美しい大人の女に変わっていく様を演じ、同時に若さ故の苦い青春の蹉跌を描いた主演のキャリー・マリガンその人である。
もちろん本作は青春期の失敗と再生の物語ではあるが、1961年という時代設定、50年前のイギリスの女性の働き方や自立といったフェミニズム的観点を内包した作品である。主人公のジェニーはフランス文化に憧れ、シャンソンを聴き、将来はフランス人になるというのが夢。しかし、現在は学歴のない父親から「オックスフォードに行け」と勉強の毎日。しかも、入学に有利だからとチェロを弾くことをすすめるが、クラシック音楽を聴くことは「無駄だ」という俗物である。雨の日に出会った、いけてるおじさんデイヴィッドに大人の世界を見せつけられ、学業を投げ出し、彼に夢中になる。パリ旅行でバージンも捨て、求婚されると学校も止めてしまう。学歴でないなら金持ち男を捕まえろとあっさり娘の変心を認める父親だが…。デイヴィッドは妻帯者で子どももおり、幾度も同じような事件をおこし、妻には見捨てられていることが分かったとき、ジェニーは。
結局ジェニーがオカタイだけで「女性として」おもしろく生きていないと軽蔑していた英文学教師の口添えがあって、復学でき、その後は勉強一筋、オックスフォードに入学。おぼこい彼もできたが、自分の経験や本心は絶対明かさないと将来にすすむこととなる。
とここまで書くと、ビターだがハッピーエンドか、で終わるところだが、ジェニーのよいのは最終的には自分で判断し、軌道修正も含めて自分の道を切り開いていくところ。ジェニーが校長に退学を告げに行くシーン。校長(エマ・トンプソン!)が「大学まで行けば教師になれる。公務員になれる」と諭すが、一度華やかな世界を知ったジェニーには全く通じない。たしかに60年代のイギリス女性のすすむべき道はかなり選択肢がなかったに違いない。それを分かっていないジェニーは自分で稼ぐのではなく虚飾の世界で生き抜こうとしたかに見える。しかし、夢破れた、信じていたものに裏切られたと分かったとき、ジェニーは静かにその悲しみを引き受け、新しい道を模索する姿は十分自立的な女性像と言える。
デイヴィッドの詐欺仲間の友人ダニーの彼女ヘレンは「ラテン人しか話さないラテン語なんていらないわよね」と話すほど無知であるが、ジェニーの専攻は英文学。さきの教師の授業では「ジェーン・エア」の一節がさかんに取り上げられるが、どのような伴侶を得るかが女性の生き方を支配していた時代から少しも変わっていない20世紀イギリスの現実に実は苛立っていた、そのような現実を直視したくなかったジェニーは十分フェミニストであったのだろう。
しかしフェミニストは思想だけではない生き方そのものという本質が語られるために、20世紀の終わりにも「カレンダーガールズ」(ヘレン・ミュラン主演)を待たなければならなかったイギリス社会の、いや、他の国でも平等や自立といった普遍的概念の「普遍化」には長い時間がかかることを改めて思い起こされる。
女性の精神的自立を描いた英文学といえばジェイン・オースティンの諸作品があるが、書籍も画面で読む時代。紙ベースのほうが、より自立を深く考えることができそうだと考えるのは、旧遺物的発想か。
ちなみに原題は「AN EDUCATION」。「ある教育」である。