kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

少しビターな自立の物語   17歳の肖像

2010-05-30 | 映画
自分自身を振り返ってみても恋愛で舞い上がってしまえば、冷静な判断や全体的・長期的な視野など持てなくなるということはあると思う。そして16歳という、大人に一番近い年齢の子どもにとって、大人の世界を見せてくれ、なんでも叶えてくれる年上というのははまりやすい対象この上ない。
原作は英国きっての人気記者、辛口コラムニストのリン・バーバーの回想録であるという。その実体験を基に、「アバウト・ア・ボーイ」の作家ニック・ホーンビィが脚色、「幸せになるためのイタリア語講座」のデンマーク人女性監督ロネ・シェルフィグがメガホンをとった。そして本作の魅力は16歳の高校生が、大人の世界を知るにつれ美しい大人の女に変わっていく様を演じ、同時に若さ故の苦い青春の蹉跌を描いた主演のキャリー・マリガンその人である。
もちろん本作は青春期の失敗と再生の物語ではあるが、1961年という時代設定、50年前のイギリスの女性の働き方や自立といったフェミニズム的観点を内包した作品である。主人公のジェニーはフランス文化に憧れ、シャンソンを聴き、将来はフランス人になるというのが夢。しかし、現在は学歴のない父親から「オックスフォードに行け」と勉強の毎日。しかも、入学に有利だからとチェロを弾くことをすすめるが、クラシック音楽を聴くことは「無駄だ」という俗物である。雨の日に出会った、いけてるおじさんデイヴィッドに大人の世界を見せつけられ、学業を投げ出し、彼に夢中になる。パリ旅行でバージンも捨て、求婚されると学校も止めてしまう。学歴でないなら金持ち男を捕まえろとあっさり娘の変心を認める父親だが…。デイヴィッドは妻帯者で子どももおり、幾度も同じような事件をおこし、妻には見捨てられていることが分かったとき、ジェニーは。
結局ジェニーがオカタイだけで「女性として」おもしろく生きていないと軽蔑していた英文学教師の口添えがあって、復学でき、その後は勉強一筋、オックスフォードに入学。おぼこい彼もできたが、自分の経験や本心は絶対明かさないと将来にすすむこととなる。
とここまで書くと、ビターだがハッピーエンドか、で終わるところだが、ジェニーのよいのは最終的には自分で判断し、軌道修正も含めて自分の道を切り開いていくところ。ジェニーが校長に退学を告げに行くシーン。校長(エマ・トンプソン!)が「大学まで行けば教師になれる。公務員になれる」と諭すが、一度華やかな世界を知ったジェニーには全く通じない。たしかに60年代のイギリス女性のすすむべき道はかなり選択肢がなかったに違いない。それを分かっていないジェニーは自分で稼ぐのではなく虚飾の世界で生き抜こうとしたかに見える。しかし、夢破れた、信じていたものに裏切られたと分かったとき、ジェニーは静かにその悲しみを引き受け、新しい道を模索する姿は十分自立的な女性像と言える。
デイヴィッドの詐欺仲間の友人ダニーの彼女ヘレンは「ラテン人しか話さないラテン語なんていらないわよね」と話すほど無知であるが、ジェニーの専攻は英文学。さきの教師の授業では「ジェーン・エア」の一節がさかんに取り上げられるが、どのような伴侶を得るかが女性の生き方を支配していた時代から少しも変わっていない20世紀イギリスの現実に実は苛立っていた、そのような現実を直視したくなかったジェニーは十分フェミニストであったのだろう。
しかしフェミニストは思想だけではない生き方そのものという本質が語られるために、20世紀の終わりにも「カレンダーガールズ」(ヘレン・ミュラン主演)を待たなければならなかったイギリス社会の、いや、他の国でも平等や自立といった普遍的概念の「普遍化」には長い時間がかかることを改めて思い起こされる。
女性の精神的自立を描いた英文学といえばジェイン・オースティンの諸作品があるが、書籍も画面で読む時代。紙ベースのほうが、より自立を深く考えることができそうだと考えるのは、旧遺物的発想か。
ちなみに原題は「AN EDUCATION」。「ある教育」である。
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音楽が連れてくる 最高のエンタテイメント  オーケストラ!

2010-05-05 | 映画
「歌は世界を変える」であるとか「音楽は世界を変える」といった言い回しは、政治や経済、軍事力といった実際に世界を変えるであろう要因に比して情緒的すぎてあまり好きではない。しかし音楽は少なくとも個人を変える力は持っているのだろう。
 「オーケストラ!」は荒唐無稽、あり得ないお話である。パリは有名劇場シャトレ座から、2週間先の公演依頼を支配人室で偶然見つけた清掃人フィリポフは仲間を集めてボリショイ管弦楽団になりすまし、パリで公演しようというのだから。フィリポフは実は30年前のソ連時代、天才指揮者と讃えられた名指揮者だったが、ある事件で楽団を追放され、以後清掃人の身に。そして、彼がシャトレ座公演の演目に選んだのがチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、そしてソリストに選んだのが若手のスターヴァイオリニストであるアンヌ=マリー・ジャケ。フィリポフがチャイコフスキーを選んだのも、マリーを指名したのも訳がある。それは30年前の出来事と密接に関係があるのだ。
 この作品は映画解説(佐藤忠男)によると喜劇であり、悲劇であり、社会派であり、大メロドラマであるという。喜劇の部分は言うまでもない。30年も音楽活動から離れていたフィリポフや仲間たちが今更そんな大舞台で演奏できるのか、楽器もそろわない中でのドタバタ、リハーサルそっちのけでパリでキャビアの行商に励む団員たちなど喜劇の要素はたっぷり。悲劇とは、音楽をこよなく愛したフィリポフらが30年前楽団を追われたことや、マリーが両親を知らず育ったことなど。そして社会派。
 旧ソ連時代ユダヤ人排斥が長く続いていた。ペレストロイカ以前、ブレジネフはユダヤ人を信用せず様々な職域から排斥、弾圧したという。スターリン時代の有無を言わさない「粛正」ほどではなかったとの評価もあるが、別に罪を犯したわけではないユダヤ人をシベリアに抑留するのは非人道的圧政以外の何ものでもない。本作はこのブレジネフ時代の政策を批判しつつ、ロシアになってからも旧共産党時代を懐かしむアナクロニズムにも批判の眼を向けている。フィリポフに手を貸すソ連時代のボリショイ劇場支配人ガヴリーロフ(彼こそが直接フィリポフらもを追い出した張本人)は、フィリポフの情熱に負けたわけでも音楽を市民の手に取りもどそうとしたわけでもない。落ち目のフランス共産党のかつての同志とともに、シャトレ座で共産党復権を謳い上げるためだった。また、資金不足に悩むフィリポフらを援助するのは天然ガスの利権をバックに経済界を牛耳るロシアン・マフィア。金がすべての現在のロシアの姿をも描いている。
 大メロドラマとは、マリーが実はフィリポフが放団される原因となった、彼が守ろうとして追放、シベリアに抑留され、酷寒の地で命を落とした団員夫婦の一粒種であったということ。フィリポフはその若くして死んだソリスト レアに究極のチャイコフスキー演奏を求めていた。それが、クライマックスの偽ボリショイ楽団とマリーの演奏の中で明らかになっていくところ。チャイコフスキー・ヴァイオリン協奏曲ニ長調(作品35)が12分間にわたって演奏される中、フィリポフの脳裏に、マリーの、なぜ彼が自分を選らんだのか分かった様に、最初バラバラであった演奏が見事なハーモニーを奏でるまでに盛り上がっていく様子は圧巻だ。
 ロマ(ジプシー)の描かれ方など少しティピカルすぎるし、いくらアンダーな世界が支配するロシアとはいえ、空港で偽のパスポートとビザを用意するなど「そんなわけは…」と突っ込みたくなる部分も多々あるが、そこはご愛敬。本作は実はフランス映画であって、ルーマニア生まれのラデュ・ミヘレイアニュ監督によって撮られたが、フィリポフを始め主要キャストはロシアの名優たちだが、赤の広場のシーン以外はすべてルーマニアとフランスでの撮影という。それらを不自然に感じさせないところがスタッフの手腕といったところであるが、バイリンガルであるとか、ヴァイオリン演奏であるとかキャストは大変だったであろう。けれど、国を超えて、言葉を超えて、時空を超えて分かち合えるのは音楽の持つ大きな力の一つ。
 ブレジネフの罪はもちろん、フィリポフの後悔、マリーの蟠りは消えることはない。しかし、同時に音楽というそれ自体には罪のないものを通して(その使われ方や、その制作過程で迫害や差別はもちろんある)、過去の事実の直視と真実への探求心が止むことはない。喜劇と悲劇と社会派とメロドラマ。エンタテイメントの要素が詰まった快作に出会えた。さあ、噎ぶヴァイオリンの響きにうっとりしよう。
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