kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

バロック絵画の萌芽 配置と色遣いに見るエル・グレコ展

2012-10-21 | 美術
スペインの古都トレドは、雨模様の上、お昼に入ったバールでぼられたこともあり、あまりいい思い出がない。しかし、エル・グレコを見るには訪問しなければならない土地だ。
マニエリスムの代表的作家と言われるグレコも、ギリシア出身ということもあり、ギリシア時代はビザンチン様式のイコン画を描いていた。今回は1点しか展示されていなかったが、カソリックの国スペインは、バルセロナのカタルーニャ美術館など中世壁画の宝庫で、ビザンチン様式とどこか近しい雰囲気が好んで描かれたのであろうことが見てとれ興味深い。
グレコはギリシアからイタリアに出て、そこでルネサンスの巨匠、ラフェエルらの画業に触れ、ヴェネツィアで当時の偉大な画家ティントレットの影響を大きく受けたという。なるほど、ティントレットの大げさな表現画風は、遠近法を確立したルネサンスから大げささという点ではその頂点に達したとも言えるバロック期のちょうど中間に位置することがよく分かる。ただ、マニエリスムは「マンネリズム」とも評されるようにルネサンスからバロック期の過渡期として、貴族が金に飽かせて必要以上にデフォルメされた絵を好んだという蔑称の対象という評価とは別に、レオナルド、ミケランジェロらが提唱した古典的調和に対する反動という評価もあるらしい(『世界の美術』河出書房新社 2009年)。
マニエリスムは宮廷様式美という点では神話を描いたパルミジャニーノやプロンツィーノ、そして摩訶不思議な絵画の代表とされるアルチンボルドなどいかにも宮廷に飾れば似合いそうだが、グレコのあの極端に縦に引き伸ばされた構図は宮廷より教会に似合いそうである。事実、グレコは礼拝堂の祭壇画も多く手掛けていて、そのことが本展でよく分かった。そして本展での発見(というほどでもないが)がほかにもある。グレコはマリアが登場する受胎告知、聖家族や聖母戴冠などを多く描いているが、マリアの表情がどれもあまり上手く描けているとは思えないのだ。もちろんマリアが受胎告知を受けたのが14歳、イエスを産んだのが15歳だそうなのであどけない表情であることに間違いはないだろう。ただし、このあどけないと感じるのも現在を起点にしているが。そしてマリアと言えば、中世絵画では大人びて神聖、わりと冷淡な表情であったのが(たとえばジョット)、初期ルネサンスでは重大な告知を受ける際の厳かな表情(フラ・アンジェリコ)を経て、後世に聖母子の決定版を確立したラファエロなどに比してかなり稚拙に見えるのだ。肖像画を多く描いたグレコであるが、キリスト教を主題にした集団が登場する画題では、全体的な構成に力を発揮した分、あまり得意ではなかった分野もあるのかもしれない。構成という点ではキリストを民衆より配置的に下に描くなど(聖衣剥奪)、かなり大胆、画期的な試みであったという。トレドに定住したグレコはこの地で傑作を数多く生み出し、やがてあの細長い人物フォルムとともにそれまでの赤に加えて青を多用し、グレコと言えば青を定着させたように思える。
青が特徴的な画家と言えば、シャガール、カンディンスキーなど近代の画家ではいるが、フェルメールよりおよそ150年前に高価な青をふんだんに使用できたのは、その安定した地位と貴族らの庇護があったからに違いない。余談になるが高価なターコイズ・ブルーを多用し、子だくさんだったフェルメールは破産して、死後、家族が作品を多く手放さねばならなかったのとは大違いである。
本展の目玉、最後を飾る高さ3メートルの「無原罪のお宿り」は、さきにマリアの表情はあまり上手くないと描いたが、マリアを身ごもるアンナの表情はいい。そして、やがてバロック期で華麗に花開いた天井画の萌芽を見るようで、アンナを取り巻く天使、ちょっと不気味なプットー(頭部と翼だけで天空をたくさん飛んでいるあれ)など構図、色の配置もすばらしい。そして、ルーベンスを代表とするバロック期の豊満な肉体美以前、これらほっそりとしたフォルムが新鮮に感じられるのは、ルネサンスと同様に400年残ったグレコの偉業のなせる業に違いない。(無原罪のお宿り)
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リーメンシュナイダーを巡る旅 2012ドイツ旅行記⑥

2012-10-07 | 美術
旅の終わりはベルリンである。ドイツの首都、最大の都市、現代美術のメッカという呼称はさておき、今回の目当ては10年間も改修で閉館していたボーデ美術館(博物館)である。旧東ベルリンに位置する世界遺産「博物館島」。その一角を占めるボーデ美術館は、初代キュレーターの名前を冠したそうであるが、一介の旅人にとっては、名前の由来より立派な建物の由来こそ惹かれる。ボーデ博物館の建物が完成したのは1904年。ヨーロッパの美術館は古い建物が多いが、博物館島は、これでもかというくらいに荘厳な美術館が並び、その中でボーデはひときわ美しい。というのは他の建物は規模や重厚さでボーデを凌ぐが、ボーデの曲線はちょうどシュプレー川の中州のとがった部分にあわせて三角形の、それでいて先端は丸みを帯びた優美な姿であるからだ。10年以上前、はじめてベルリンを訪れた時、ボーデは改修中で先端の丸い建物に沿って建築用の足場とシートがかけられていたのを覚えている。いつになったら見られるのだろうかと。
中世彫刻、ビザンチン美術、北方ルネサンス…。感嘆のコレクション。そしてリーメンシュナイダーの彫刻群。筆者にリーメンシュナイダーの魅力を教えて下さった福田緑さんは(本ブログ 2012ドイツ旅行記①参照
 http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/dbe0a1c74ebe850888aa77534c34a862)ボーデの「福音史家ヨハネ」をお気に入りの作品とあげていらっしゃるが、全面的に賛同する。福音史家ヨハネは四使徒像(他にマタイ、マルコ、ルカ)の一体だが、ヨハネにまつわるおはなし=優おとこ!の美形であること、どこか線が弱く、繊細に見えること、若かったこともありイエスにこよなく可愛がられていたことなど=をあますところなく表現しているように見える。そして、ヨハネにかぎらないが、リーメンシュナイダーに特徴的などこか、愁いを帯びた表情は、後のキリスト教の数多い受難を物語っているようにも見え、ヨハネによる「黙示録」で最後はユダヤ(教)に打ち勝ち、エルサレムの地を全うしたと言えど、現代的にうがった見方をすればこのエルサレムの争奪戦こそヨハネの愁いの本質であったのではなどと余計な想像力をはたらかせてしまうほど、深い感慨をもたらすのである。
ボーデにはリーメンシュナイダーにしては可愛らしく、聖人が登場しない「歌い、演奏する天使」もある。おそらくは、祭壇や聖壇の一部としての拵えられたものかもしれないが、独立の作品としても好もしい。ほかにも勇壮な「竜と闘う聖ゲオルグ」など、ある意味、ヴュルツブルクのマインフランケン博物館やミュンヘンのバイエルン国立美術館など聖像が多いのに比べると、聖像はもちろん、その周辺・民衆の姿を彫りこんだ作品も多く、リーメンシュナイダーを巡る旅の最後にふさわしく、さまざまなリーメンシュナイダー作品に出会えて本当に幸せである(2012年9月現在、「歌い、演奏する天使」も「竜と戦う聖ゲオルグ」も日本で展示中ある=福田緑氏(http://www.geocities.jp/midfk4915/h_georg.html))。もちろん、リーメンシュナイダーの真骨頂は聖壇であると思うし、ヘルゴット教会でマリア祭壇との出会いに電撃が走ったと感じたように、その荘厳さ、大げさに言うならより神に近い領域に足を踏み入れたという意味では、個々の作品は聖壇にはかなわない。けれど、使徒一人ひとりの像、それらを取りまく天使や楡の木その他の装飾、そして聖人の細かな表情一つひとつがリーメンシュナイダーの技量と魅力を伝えているのではあるまいか。聖壇という総合芸術以前の小さな手仕事が、500年の時空を超え、私たちを魅了してやまない理由がそこにある。
リーメンシュナイダーを巡る旅は一応このボーデ博物館で終了したが、ベルリンで必ず訪れる最良の場所、ゲマルデガルリー(絵画館)も紹介しておきたい。博物館島を離れ、ポツダムプラッツ近所の文化フォーラムという新しい文化総合施設の一角にあるゲマルデガルリーは、何度か紹介しているが、13世紀の中世にはじまりヤンファンエイク、ブリューゲルやクラナッハ、デューラーなどドイツ・北方ルネサンスの逸品がてんこ盛り。ここに来るといつも「ああ、ヨーロッパ、キリスト教美術を堪能しに来てよかった」とにんまりしてしまうのだ。次に来るのはいつだろうか。ゲマルデガルリーは、筆者にキリスト教美術の魅力をおしえてくれた先生であることに変わりはない。(了)(福音史家ヨハネ)

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リーメンシュナイダーを巡る旅 2012ドイツ旅行記⑤

2012-10-03 | 美術
ロマンチック街道を抜けている間はフランケンワインの名勝地ということもあり、ビールよりワインという感じであったが、ミュンヘンはウインナソーセージとビール! 残念ながら、ミュンヘンは一泊なので、料理よりバイエルン・ナショナル博物館が第一の目的。以前訪れたときにはリーメンシュナイダーのことを知らなかったので、アルテ・ピナコテークなどミュンヘン美術館街をまわっただけだった。
バイエルン・N博物館は、ミュンヘンを訪れた日本人をはじめおそらく観光客は訪れないところ。市の中心街マリエンプラッツからも少し離れていて(本当に少しだが)、 そこに足を延ばす人はいないだろう場所。ところが、これがすごい! ヨーロッパの美術館は日本人にはあまり知られていない、人気のないところでもかなりの規模であり油断ならないところが多い。バイエルン・N博物館も例外ではない。最初入った旧館とおぼしきところはリーメンシュナイダーもたった一点で、10分ほどでまわれる小さな規模。ところが、入口がすぐには分からなかった隣の本館か新館はとてつもない広さ。そこに陳列されている中世彫刻は、リーメンシュナイダーでなくとも魅入られる。15世紀末から16世紀初頭に活躍したリーメンシュナイダーをはるかにしのぐ古さ。13世紀、12世紀まである。木彫のキリスト像などはもちろん稚拙だが、何とも言えない雰囲気がある。それは、文字の読めない、印刷技術のなかった時代にいかに人々にキリスト教を教え広めようとしたか、教会や修道院などの壁に絵を描いた布教の苦難を彷彿とさせる。もちろん、現代まで残存している12世紀のキリスト像は民衆のために彫られ、日常の信仰の対象となったものではないだろう。そうであればとっくに朽ち落ちているか、略奪や薪の糧にされていてこのような完全な形で残っているとは思えないからだ。
とまれ、信仰が絶対であった時代の苦難のキリスト像はやはり美しい。おそらくは14世紀あるいはルネサンス以降、キリスト像とはこうあるべきという規範=それは、痩せこけた表情にとどまらない、磔刑にさらされる全身苦悩の、それでいてきれいな身体という決まり事=に至る中世彫刻の一つの変遷が見て取れるからである。リーメンシュナイダーと違わない時代に生きたデューラーが、自身の肖像画を後世のキリスト像として定着させたとき、キリスト像はすでに民衆の中に固定されていたのである。そこにいたる民の思うキリスト像が確立されていくのが12世紀頃までとするならば、リーメンシュナイダーの仕事は、定着したキリスト(像や他の聖人ら)の完成形を日々教会に集う信者(この時代、キリスト教信仰のない村人など考えられない)に対し、さらにその峻厳さゆえに信仰を深める役割を果たしたことは想像にかたくない。
バイエルン・N博物館でリーメンシュナイダー作品といえばやはり「天使に支えられる聖マグダレーナ」であろう。マグダレーナはもちろんマグラダのマリアのこと。「遊び女」すなわち娼婦から「悔い改め」、信仰に生き、磔刑後のキリスト復活に居合わせたというマグラダのマリアは、キリスト教美術の中でおそらくキリストの母マリアの次に描かれた女性。バイエルン・Nのそれは「神は一糸まとわぬ聖女のために毛髪(あるいは毛)でその身をおおわしめた」(植田重雄『リーメンシュナイダーの世界』)。古さと経年劣化の故か毛髪にも毛皮にも見えないマグダレーナ像は、その縮れ様がグロテスクで筆者は少し苦手である。しかし、この細かな襞を彫り上げたリーメンシュナイダーの技量には感嘆せざるを得ない。この繊細な襞一つひとつによって、15世紀の民はマグダレーナの物語を深く心に刻んでいったのであろうから。(聖ニクラウス バイエルン・ナショナル博物館)
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リーメンシュナイダーを巡る旅 2012ドイツ旅行記④

2012-10-01 | 美術
ロマンチック街道の終点フュッセンにたどり着く前に世界遺産ヴィース教会に寄った。18世紀初頭農婦が譲り受けたキリスト像が突然涙を流したという奇跡を聞きつけて巡礼者が押し寄せたため、小さな教会がバロック形式のフレスコ天井画を擁した教会に生まれ変わったというもの。
主祭壇の「鞭打たれるキリスト像」は美術作品としては特に見るべきものはない。まあ、キリスト教の奇跡にまつわる聖像は、そのほとんどが美術的価値よりその「奇跡」そのものが重要で、多くは名もない農夫などが貰い受け、あるいは、捨て置かれたものを大事にしたためなどとの謂れがある。そしてキリスト像あるいはマリア像から流れる涙。それ以前に聖母マリアが現れたり、病気が癒されたり。
現在では多くの巡礼者を誘う聖地となっているところばかりで、有名なのはフランスのルルド。ルルドはいつかは行ってみたいと思っているが、筆者は「聖地」の謂れそのものよりも教会建築の方が興味があるので、ヴィース教会の天井画には圧倒された。複雑な天井画はバルコニーから下を覗きこむ天使など天空にのびる奥行きが感じられるが、実はこれが騙し絵。精巧な筆致はフレスコ画の画法がきわめて困難をきわめたことを忘れさせるほど見とれてしまう。そして、バロックはこれでなくてはと思わせるのがまたいい。大げささと繊細さと。遠く時間をかけて訪れる価値の多い場所だけに観光客も大勢いた。
フュッセンを目指したのはガラでもなく、ノイシュヴァンシュタイン城を訪れるため。シンデレラ城のモデルとなったところなど、およそ筆者にはふさわしくないが、オーストリアとの国境付近の山に壮麗なお城を建てたのはバイエルン国王ルートヴィッヒ2世。ルートヴィッヒはバイエルンの地に次々に美しい城を擁するが、城で過ごした期間はとても短いらしい。施政より耽美に生きたルートヴィッヒの遺産は、その謎の死後すぐに押し寄せた観光客によって、城が後々まで大事にされた費用をも生み出したことだろう。しかし、時代はドイツが膨大な戦後補償を余儀なくされた第1次世界大戦がはじまる前、19世紀も末のことであった。
フュッセンは、ノイシュヴァンシュタイン城の玄関口以上の特徴がある街ではない。着いたのが夕方近かったため、歩いていける博物館やらも結局行かなかったが、街自体はこじんまりしているものの商店街はそれなりのにぎわいを見せ、ドイツはどこでもそうだが清潔な感じだ。ここまで来ると観光客も、ロマンチック街道自体がそうかもしれないが、西洋人の富裕な年配層が多そう。
翌日ホーエンシュヴァンガウ城、ノイシュヴァンシュタイン城そしてリンダーホーフ城と回ったが、前日とうって変わって、一日中雨で寒いのなんの。コートが手放せなくなった。ドイツの9月は普通は寒いもの、ヴュルツブルクやローテンブルクが異常だったということ。雨で運転にも慎重に、リンダーホーフ城が思いのほか遠かったこともあり、十分過ごすことはできなかったが、リンダーホーフ城は庭も立派で天気がよければ半日ぶらぶらしたくなるところ。ノイシュヴァンシュタイン城など山城はどうしても庭がさびしい。ヴェルサイユをはじめ平城の魅力は庭にある。まだまだ知らない宮殿、お城をいっぱい訪れたいものだ。この日はリーメンシュナイダーには出会わず仕舞だったが、目指すはドイツ3番目の都会ミュンヘン。疲れるドライブも終わりだ。明日はバイエルン博物館のリーメンシュナイダーに会いに行こう。(ヴィース教会)
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