本展の主催の一つBunkamuraザ・ミュージアムの上席学芸員宮澤政男さんが日本(人)のベルギーに対する貧弱な知識・理解を述べている。「ベルギー語は?」などと。チョコレートやワッフルなど表面的には現代の主要商品以外にあまり知られていない(まあ、小子も含めてヨーロッパに対する表面的理解はそのようなものだが)国で、ボスからマグリット、現代のファーブルまで「奇想」の画家、作家の系図は連綿と続いているという。
「ベルギー」という国自体がなかった時代、ヒエロニムス・ボスのキリスト教の教訓(七つの大罪)にあふれた世界はベルギーというオランダやドイツなどプロテスタントの勃興した世界にもフランスやイタリアなどカトリックが相変わらず勢力を誇っていた世界にも受け入れられたであろう。それはキリスト教の重視する人間の行為に対する戒めをとても分かりやすく、また、厳しく描いているからである。「傲慢」「嫉妬」「激怒」「怠惰」「貪欲」「大食」「邪淫」をそれぞれ擬人像で版画にしたヒエロニムス・コックは、その構成の巧みさ、細部の緻密さをボスにあやかってと記しているそうであるが、一つひとつの題材はボスを参考にしたピーテル・ブリューゲル(父)の細密描写そのものである。もちろん擬人像であるから実際の描写ではなく、「奇想」であるが、フランドルにおける細密描写の巧緻は15世紀はじめのヤン・ファン・エイクの画業ですでに確立されており、ボスが黎明ではない。ヤン・ファン・エイクの傑作「ゲント祭壇画(神秘の子羊)」は、キリスト教での重要な儀式、子羊を生贄にささげ、神職らが隊列する壮大な画面構成からなるが、もちろん実際に行われた様子を描いたものではないだろう。そしてどこか超現実を感じさせる描写は「奇想」の系譜に入れてもおかしくない。
しかし、ボス、ブリューゲルの系譜は圧倒的で、とても大罪を犯した人が天国に行けない恐ろしい世界を描いているにも関わらず、どこかユーモアがあり親しみやすい。そこが、筋肉ムキムキのキリストが人々を天国と地獄にばっさりと切り分けたイタリアルネサンスのミケランジェロと大いに違うところである。そしてムキムキ系を引き継いだ17世紀のルーベンスが描く世界もまた細密さも併せ持っている。微妙な画風を継承するフランドル(ベルギー)という地がフランスとプロイセンやオランダといった大国に挟まれた故に花咲いたとの解説もあるが、筆者にはそれは分からない。ただ冒頭で紹介したようにベルギー語などないのに、国で話されている言葉は、北はフランドル語(オランダ語)、南はワロン語(フランス語)ときれいに二分されており、それでも不自由のない世界というのが長く続いた小国の知恵であるのは確かだろう(もっとも、近年は右派勢力の台頭で、言葉の地域に沿った分離独立の機運が高まっているのは、現在のヨーロッパ世界の保守主義と排外主義と無縁ではない。)。
20世紀になりデルボーとマグリットは「奇想」の典型と紹介される。たしかにデルボー、マグリットの描く世界は現実にはあり得ない。鉄道と裸体の女性たち、青空が中身になっている鳩など、想像世界でしか考えられない対象を次々に「現実化」した彼らはおそらく、現実でなく超現実をもってして現実を説明しようとしたのではないかとも思える。それは何ゆえか? デルボーやマグリットに訊いてみるしかないが、これだけは言えるだろう。そもそも言語で区別できない、人種で区別できない、なにをもって区別とするかのか、を歴史上問われてきた地域で、その混とんを超現実の発生との説明は無意味であると。なぜなら、美術をふくめ芸術の世界は、簡単には説明できないものを生み出してきたゆえに芸術足り得てきたのであるから。(ボス工房「トゥヌグダルスの幻視」)