キツイ労働者ものを撮ってきたケン・ローチとしては甘いかもしれない、ちょっと理想主義的かもしれない。けれど「マイ・ネーム・イズ・ジョー」や「ブレッド&ローズ」を書いてきたポール・ラヴァティの脚本は全然非現実的ではないし、そして美しい。ストーリーは至って簡単。パキスタン移民の青年カシムと身寄りのないアイルランド移住者ロシーンは付き合うが、イスラム世界に生きるカシムの家族は絶対に許さない。カシムには親が決めた会ったことのない結婚相手さえいる。カシムの姉は、カシムの異教徒との付き合いで自分の結婚が破綻し、策まで労してロシーンをカシムから離そうとする。カシムの唯一の理解者は末の妹、親の反対を押し切って、ジャーナリストへの道を歩むため下宿、遠い大学へ進学しようとするタハラだけだ。しかし、親、特に母とイスラム社会の共同性、因習を断ち切れないカシムも必ずしもロシーンにはっきりとした態度をとっていたわけではない。
家父長制。父親の絶対的な権威、それに従属するだけの母親と、共同体、家族の存在の前に個人の思いなど一顧だにされない価値観。近代的自我の発祥が妨げられる要因がカシムらパキスタン移民の日常に大きくのしかかっているとしても、移民として差別され、ネイティブとして助け合い懸命に生きてきた彼らの拠り所をもちろんイギリス社会の寛容性に求めることはできない。そう、不寛容だからだ。隣の島から移住してきたロシーンにとっても事情は似ている。アイルランドに多いカソリックの厳しすぎる道徳観、男女観、結婚観の前に個人の恋愛の自由も仕事も認められないのであるから。
ただ、個人の解放には「◯◯からの解放」と「◯◯への解放」があって、カシムやロシーンにとって宗教、旧慣やそれらから発する呪縛からの解放がまずあって、次に誰もが出自やそれまで属していた価値共同体によって差別されない社会への解放がある。そう、ローチが描きたかったのは「への解放」だろう。ただし、ローチは単純に家父長制を体現するイスラム系移民の近代的自我とは相容れない価値観や、女性の結婚や生き方を極端に縛るカソリック的宗教観、不合理性を簡単に旧いものとして断罪するようなことはしない。まず、そのような価値観、宗教観の中でもがきながら生きている不十分な一人一人を見よと問うているのである。
そして「解放」は同時に「変革」を内包する。その変革は社会的変革が目指されていたとしても、本来は自己変革から始まるものであって、自己変革なしに社会変革などありえず、そのためにはいろいろな個人をやさしく見守る必要がある。
カシムの親はインドとの紛争からパキスタンを逃れてきて、商いで身を粉にして働き一定の地位、財産を築いてきたのだろう。そうなるためにはイギリス、それも古い労働者の町グラスゴーで同じパキスタン移民社会の大きな共助関係があったはずだ。しかし、時代は変わってゆく。カシムの姉は旧慣側であるが、妹はその閉鎖社会を打ち破る側に回ろうとしている。
グローバル社会とは、何もアメリカが自国文化/価値観をすべて押しつけ、諾としない者には銃をも突きつけるというのではなく、異人種、異民族とどう付き合っていくかを手探りの中で解決点を見いだしていくことである。大陸側であるフランスやオランダ、ドイツなどではイギリスよりもっとその手探りに時間、お金、人手をかけていて、争いない社会を模索しているのかもしれない。ヨーロッパのシチズンシップ(citezenship=市民権)の誕生と発展は、EU後も「変革」の兆しとして展開し続けている(『ヨーロッパ市民の誕生 ー開かれたシティズンシップへー』宮島喬(岩波新書 2004年))。
分かり合えるためにやさしく手を差し伸べて、そしてやさしくキスをして。
家父長制。父親の絶対的な権威、それに従属するだけの母親と、共同体、家族の存在の前に個人の思いなど一顧だにされない価値観。近代的自我の発祥が妨げられる要因がカシムらパキスタン移民の日常に大きくのしかかっているとしても、移民として差別され、ネイティブとして助け合い懸命に生きてきた彼らの拠り所をもちろんイギリス社会の寛容性に求めることはできない。そう、不寛容だからだ。隣の島から移住してきたロシーンにとっても事情は似ている。アイルランドに多いカソリックの厳しすぎる道徳観、男女観、結婚観の前に個人の恋愛の自由も仕事も認められないのであるから。
ただ、個人の解放には「◯◯からの解放」と「◯◯への解放」があって、カシムやロシーンにとって宗教、旧慣やそれらから発する呪縛からの解放がまずあって、次に誰もが出自やそれまで属していた価値共同体によって差別されない社会への解放がある。そう、ローチが描きたかったのは「への解放」だろう。ただし、ローチは単純に家父長制を体現するイスラム系移民の近代的自我とは相容れない価値観や、女性の結婚や生き方を極端に縛るカソリック的宗教観、不合理性を簡単に旧いものとして断罪するようなことはしない。まず、そのような価値観、宗教観の中でもがきながら生きている不十分な一人一人を見よと問うているのである。
そして「解放」は同時に「変革」を内包する。その変革は社会的変革が目指されていたとしても、本来は自己変革から始まるものであって、自己変革なしに社会変革などありえず、そのためにはいろいろな個人をやさしく見守る必要がある。
カシムの親はインドとの紛争からパキスタンを逃れてきて、商いで身を粉にして働き一定の地位、財産を築いてきたのだろう。そうなるためにはイギリス、それも古い労働者の町グラスゴーで同じパキスタン移民社会の大きな共助関係があったはずだ。しかし、時代は変わってゆく。カシムの姉は旧慣側であるが、妹はその閉鎖社会を打ち破る側に回ろうとしている。
グローバル社会とは、何もアメリカが自国文化/価値観をすべて押しつけ、諾としない者には銃をも突きつけるというのではなく、異人種、異民族とどう付き合っていくかを手探りの中で解決点を見いだしていくことである。大陸側であるフランスやオランダ、ドイツなどではイギリスよりもっとその手探りに時間、お金、人手をかけていて、争いない社会を模索しているのかもしれない。ヨーロッパのシチズンシップ(citezenship=市民権)の誕生と発展は、EU後も「変革」の兆しとして展開し続けている(『ヨーロッパ市民の誕生 ー開かれたシティズンシップへー』宮島喬(岩波新書 2004年))。
分かり合えるためにやさしく手を差し伸べて、そしてやさしくキスをして。