日本で印象派の人気が高いのは、印象派が西洋絵画の中で神話やキリスト教の題材から離れたからであって、そういった基盤を持たない日本人には取っつきやすいからという説明が可能だ。ところが、美術館に行くのが好き、絵を見るのが趣味という人であっても現代アートは取っつきにくいらしい。その代表格の一人がジャクソン・ポロックである。
ポロックのドローイングは、絵に興味のない人にとっては単なる落書きである。いや、落書きはところどころ意味のある具象も垣間見えたりするが、ポロックの作品はただ絵の具をぶちまけただけにしか見えない、だろう。しかし、「絵の具をぶちまけた」とは思わずに、じっくり見てみよう。そう、現れてくるのは、計算され尽くした美しさとも言うべき、画面いっぱいの均衡、どこに焦点があるのではない、画面全てが焦点である。まるで銀河のような果てしなさ。
ところで、ポロック自身は、計算して描いているのではないという。ポロックはもちろん、40~50年代アメリカを席巻した抽象表現主義と言われる画家たちは、多かれ少なかれ、シュールレアリズムの洗礼、影響を受けており、シュールレアリズムがその特徴としたオートマティズム=自動筆記、無意識のままに手を動かしてそれで描いていく、を想起させる作品も多い。しかし、ポロックは断固として無意識を否定し、同時に、意識下であることも否定する。アクション・ペンティングの出現である。キャンバス地をストレッチャー(木枠または板地)から剥がし、イーゼルから降ろし、地面に広げ、様々な大きさの筆を持ち替え、垂らしていく(ドリッピング)。そのときキャンバスに上下、左右はない。ポロック自身が、キャンバスのあちらか側からこちら側から、筆を振るい、時にキャンバスに踏み込み、絵画の天地左右を無視していく。そのポロックが1940年代末から50年代初頭にかけてこれら技法を自らもの、己自身以外に追随を許さいなものとして完遂し、作品の完成度をあげたのはちょうど、彼がアルコール依存症から抜け出し、平静であった頃。
15歳かそこらでアルコールが手放せなくなったポロックは、その後幾度もアルコール依存の危機に陥った。が、年上の画家リー・クラズナーと結婚し、ニューヨークという都会から離れ、禁酒に成功し、田舎に引きこもり制作に没頭できる環境にあってこれらオール・オーヴァー(画面の一点ではなく全体として均質的に目を向けさせる描き方)を完成させたのだ。
考えてみれば、絵画には必ずと言っていいほどアクセントがある。キリスト教絵画や神話においてはイエスなど人物や出来事、北方ルネサンス以降の風俗画、バロック、ロココ、新古典主義、ロマン主義と印象派以前においても重要な部分とそうでない部分のコントラストを重要視していたし、印象派においても中心的な対象に自然目が向くように描かれている。しかし、ポロックの絵画は描く対象を放棄した。絵画とは、キャンバスを彩るドローイングとは、重点的部分とそうでない部分が存在してはいけないように、キャンバスの方向性をも無視して。
しかし、混沌とした絵筆の書き殴りは、とてつもなく計算されつくした均衡で、見る者を魅了する。その均衡が計算ではなく画家の一瞬の衝動の発露であるとしても。たとえばヤン・ファン・エイクのゲント祭壇画のよう緻密に描かれた宗教画にしばし見入ることは予想の範囲内としても、同じように、ポロックのドリッピングにも、その緻密さに見入ってしまう。それほどまでにポロックの抽象表現主義は、もはや「抽象」ではないのかもしれない。
オール・オーヴァーで成功をおさめたポロックは、次に具象を含め、違う表現方法を模索していたようだ。しかし、模索の努力より、アルコール依存が克ってしまった。飲酒の上、自動車事故で亡くなるまでの2年間はまったく絵が描けなかった。享年44歳。
絵画におけるすぐにわかる「意味」を捨象した抽象画で、これほどまで見る者を惹きつけて止まない天才は、早すぎる死とも称されるが、いや、ポロックはもう十分なし遂げたのだ。ほら、筆から滴らせただけのと見えるドローイングに「秋のリズム」が聞こえてくるではないか。
(秋のリズム NYメトロポリタン美術館蔵 残念ながら本展には出展されてない)
ポロックのドローイングは、絵に興味のない人にとっては単なる落書きである。いや、落書きはところどころ意味のある具象も垣間見えたりするが、ポロックの作品はただ絵の具をぶちまけただけにしか見えない、だろう。しかし、「絵の具をぶちまけた」とは思わずに、じっくり見てみよう。そう、現れてくるのは、計算され尽くした美しさとも言うべき、画面いっぱいの均衡、どこに焦点があるのではない、画面全てが焦点である。まるで銀河のような果てしなさ。
ところで、ポロック自身は、計算して描いているのではないという。ポロックはもちろん、40~50年代アメリカを席巻した抽象表現主義と言われる画家たちは、多かれ少なかれ、シュールレアリズムの洗礼、影響を受けており、シュールレアリズムがその特徴としたオートマティズム=自動筆記、無意識のままに手を動かしてそれで描いていく、を想起させる作品も多い。しかし、ポロックは断固として無意識を否定し、同時に、意識下であることも否定する。アクション・ペンティングの出現である。キャンバス地をストレッチャー(木枠または板地)から剥がし、イーゼルから降ろし、地面に広げ、様々な大きさの筆を持ち替え、垂らしていく(ドリッピング)。そのときキャンバスに上下、左右はない。ポロック自身が、キャンバスのあちらか側からこちら側から、筆を振るい、時にキャンバスに踏み込み、絵画の天地左右を無視していく。そのポロックが1940年代末から50年代初頭にかけてこれら技法を自らもの、己自身以外に追随を許さいなものとして完遂し、作品の完成度をあげたのはちょうど、彼がアルコール依存症から抜け出し、平静であった頃。
15歳かそこらでアルコールが手放せなくなったポロックは、その後幾度もアルコール依存の危機に陥った。が、年上の画家リー・クラズナーと結婚し、ニューヨークという都会から離れ、禁酒に成功し、田舎に引きこもり制作に没頭できる環境にあってこれらオール・オーヴァー(画面の一点ではなく全体として均質的に目を向けさせる描き方)を完成させたのだ。
考えてみれば、絵画には必ずと言っていいほどアクセントがある。キリスト教絵画や神話においてはイエスなど人物や出来事、北方ルネサンス以降の風俗画、バロック、ロココ、新古典主義、ロマン主義と印象派以前においても重要な部分とそうでない部分のコントラストを重要視していたし、印象派においても中心的な対象に自然目が向くように描かれている。しかし、ポロックの絵画は描く対象を放棄した。絵画とは、キャンバスを彩るドローイングとは、重点的部分とそうでない部分が存在してはいけないように、キャンバスの方向性をも無視して。
しかし、混沌とした絵筆の書き殴りは、とてつもなく計算されつくした均衡で、見る者を魅了する。その均衡が計算ではなく画家の一瞬の衝動の発露であるとしても。たとえばヤン・ファン・エイクのゲント祭壇画のよう緻密に描かれた宗教画にしばし見入ることは予想の範囲内としても、同じように、ポロックのドリッピングにも、その緻密さに見入ってしまう。それほどまでにポロックの抽象表現主義は、もはや「抽象」ではないのかもしれない。
オール・オーヴァーで成功をおさめたポロックは、次に具象を含め、違う表現方法を模索していたようだ。しかし、模索の努力より、アルコール依存が克ってしまった。飲酒の上、自動車事故で亡くなるまでの2年間はまったく絵が描けなかった。享年44歳。
絵画におけるすぐにわかる「意味」を捨象した抽象画で、これほどまで見る者を惹きつけて止まない天才は、早すぎる死とも称されるが、いや、ポロックはもう十分なし遂げたのだ。ほら、筆から滴らせただけのと見えるドローイングに「秋のリズム」が聞こえてくるではないか。
(秋のリズム NYメトロポリタン美術館蔵 残念ながら本展には出展されてない)