kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

一点に拘泥しない完璧さ  ジャクソン・ポロックのオール・オーヴァー

2011-11-21 | 美術
日本で印象派の人気が高いのは、印象派が西洋絵画の中で神話やキリスト教の題材から離れたからであって、そういった基盤を持たない日本人には取っつきやすいからという説明が可能だ。ところが、美術館に行くのが好き、絵を見るのが趣味という人であっても現代アートは取っつきにくいらしい。その代表格の一人がジャクソン・ポロックである。
ポロックのドローイングは、絵に興味のない人にとっては単なる落書きである。いや、落書きはところどころ意味のある具象も垣間見えたりするが、ポロックの作品はただ絵の具をぶちまけただけにしか見えない、だろう。しかし、「絵の具をぶちまけた」とは思わずに、じっくり見てみよう。そう、現れてくるのは、計算され尽くした美しさとも言うべき、画面いっぱいの均衡、どこに焦点があるのではない、画面全てが焦点である。まるで銀河のような果てしなさ。
ところで、ポロック自身は、計算して描いているのではないという。ポロックはもちろん、40~50年代アメリカを席巻した抽象表現主義と言われる画家たちは、多かれ少なかれ、シュールレアリズムの洗礼、影響を受けており、シュールレアリズムがその特徴としたオートマティズム=自動筆記、無意識のままに手を動かしてそれで描いていく、を想起させる作品も多い。しかし、ポロックは断固として無意識を否定し、同時に、意識下であることも否定する。アクション・ペンティングの出現である。キャンバス地をストレッチャー(木枠または板地)から剥がし、イーゼルから降ろし、地面に広げ、様々な大きさの筆を持ち替え、垂らしていく(ドリッピング)。そのときキャンバスに上下、左右はない。ポロック自身が、キャンバスのあちらか側からこちら側から、筆を振るい、時にキャンバスに踏み込み、絵画の天地左右を無視していく。そのポロックが1940年代末から50年代初頭にかけてこれら技法を自らもの、己自身以外に追随を許さいなものとして完遂し、作品の完成度をあげたのはちょうど、彼がアルコール依存症から抜け出し、平静であった頃。
15歳かそこらでアルコールが手放せなくなったポロックは、その後幾度もアルコール依存の危機に陥った。が、年上の画家リー・クラズナーと結婚し、ニューヨークという都会から離れ、禁酒に成功し、田舎に引きこもり制作に没頭できる環境にあってこれらオール・オーヴァー(画面の一点ではなく全体として均質的に目を向けさせる描き方)を完成させたのだ。
考えてみれば、絵画には必ずと言っていいほどアクセントがある。キリスト教絵画や神話においてはイエスなど人物や出来事、北方ルネサンス以降の風俗画、バロック、ロココ、新古典主義、ロマン主義と印象派以前においても重要な部分とそうでない部分のコントラストを重要視していたし、印象派においても中心的な対象に自然目が向くように描かれている。しかし、ポロックの絵画は描く対象を放棄した。絵画とは、キャンバスを彩るドローイングとは、重点的部分とそうでない部分が存在してはいけないように、キャンバスの方向性をも無視して。
しかし、混沌とした絵筆の書き殴りは、とてつもなく計算されつくした均衡で、見る者を魅了する。その均衡が計算ではなく画家の一瞬の衝動の発露であるとしても。たとえばヤン・ファン・エイクのゲント祭壇画のよう緻密に描かれた宗教画にしばし見入ることは予想の範囲内としても、同じように、ポロックのドリッピングにも、その緻密さに見入ってしまう。それほどまでにポロックの抽象表現主義は、もはや「抽象」ではないのかもしれない。
オール・オーヴァーで成功をおさめたポロックは、次に具象を含め、違う表現方法を模索していたようだ。しかし、模索の努力より、アルコール依存が克ってしまった。飲酒の上、自動車事故で亡くなるまでの2年間はまったく絵が描けなかった。享年44歳。
絵画におけるすぐにわかる「意味」を捨象した抽象画で、これほどまで見る者を惹きつけて止まない天才は、早すぎる死とも称されるが、いや、ポロックはもう十分なし遂げたのだ。ほら、筆から滴らせただけのと見えるドローイングに「秋のリズム」が聞こえてくるではないか。
(秋のリズム NYメトロポリタン美術館蔵 残念ながら本展には出展されてない)
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ボレロ復活  シルヴィ・ギエムwith東京バレエ団

2011-11-05 | 舞台
信仰心はとんとないが、宗教的厳かさに満ちあふれている作品にはしばし感涙してしまう。ミケランジェロ「ピエタ」、ヤン・ファン・エイク「神秘の子羊」…。そして今回、シルヴィ・ギエムの「ボレロ」。前2者はまぎれもなく宗教作品であるが、ギエムの「ボレロ」は一介のダンスにすぎない。いや、「一介の」などとは言えないのがギエムのすごいところである。
伝説の名演となった東京バレエ団での「ボレロ」を、ギエムは2005年を最後に踊らなくなった。その理由を知る由もないが、東日本大震災を見て、日本にファンが多い、ギエムが、そのボレロの封印を解き、再び踊ることになった。そのわけをギエムは「震災前にこの作品を通して結ばれた私と日本の観客との絆を再確認するため、そして日本を心から愛していたベジャールの魂を日本に連れてくるため(中略)「ボレロ」は過去の思いでとともにあり、心を奮い立たせてくれる強いエネルギーを与えてくれる作品。だから未来へ前進しなければならないいま、「ボレロ」を踊るのはとても重要だと思う」。(新藤弘子 公演パンフレット)説明は要らないだろう。震災がボレロで解決するわけではもちろんないが、ギエムなりにダンサー、アーティストとして何ができるか考えたのだろう。福島原発事故を目の当たりにして来日を中止した芸術家が多い中、ギエムは来ることを選んだのだ。
19歳でパリ・オペラ座のエトワール、ヌレエフの秘蔵っ子、数々の名演は言うに及ばず、その元となる類希な身体能力、「超」超絶技巧…。ギエムを表現することは容易いが、ギエムのその時々のパフォーマンスを説明するのはそれほど容易くはない。しかしこれだけは言えるだろう。あの研ぎすまされた肉体、それは、まるで乳房以外はすべて筋肉で、皮膚のすべてが筋肉と化したあの作品。そうギエムの身体そのものが作品で、その作品を使って新たな作品、パフォーマンスを生もうとするのだから、それはもう贅沢というほかない。
ギエムのアートを見て涙が落ちたのは、美しかったからの一言につきる。ボレロは作品の成り行き自体が、妖艶な美神にひれ伏す男どもか、孤高のシャーマンを崇める凡俗どもかと表されるが、ギエムはシャーマンであり美神である。美神=ミューズは、安置されることによりその美神性を確認することになるが、ギエムは進化する肉体であり、その伝説は進化する(まさに「進化する伝説」 シルヴィ・ギエム http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/49ab52fd043341d9fd82d1b063ce307b)。繊細にしてヨーロッパ人らしく大柄な、というより、カマキリのように長い手足、を自由に操るとき、暗闇にその四肢で無駄なく弧を描くとき、ギエムはもう人ではない、アートの結晶である。時空を超えたアートの完成品に出会うとき、この一瞬あるいはその時々の美しさを感受したとき、その美を表現する前に涙は落つることをゆるしてほしい。(ポスターは2005年公演のもの。ただし、ギエムの鮮烈さはなんら変わらない)
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美術館を野生化する 榎忠展に見る「鉄」の重さと美しさ

2011-11-01 | 美術
阪神間では具体美術協会を代表格として60年代美術界を席巻した流れがある。「具体」は最近亡くなった元永安正など、もう鬼籍に入っている人が多く、過去のものとも見えるがそうではない。それは、現在兵庫県立美術館の常設展として「2011年度コレクション展Ⅱ 収蔵するたび 作品ふえるね」で今回「具体」やグループ「ZERO」の時代の作品を紹介しているが、それらが全然古めかしくないことから明らかだ。特に展示室の中で63年の作品ばかり集めたのは圧巻で、元永はもちろんのこと、白髪一雄、桑山忠明ら「具体」の作品が展示されているが、60年近く前にこれほどの前衛があったこと、また、それらが今展示していても全然違和感がないことが驚きだ。そして「ZERO」を創設したのが榎忠である。
「ZERO」の活動は、絵画に止まらなかった。いや、絵画以外の方法でパフォーマンスを繰り広げたことは有名で、エノチュウが70年の万博のシンボルを胸に焼き付け、銀座の街を走りまわったり、髪の毛を「半刈り」にしてハンガリーに行こうとしたのは今でも笑えてしまう。ZEROは、具体のようにキャンパスにこだわらなかった、インスタレーションが中心であったために今日その成果を伺い知ることは、ほとんでできないが、それゆえ、エノチュウのとんでもない発想は、伝説となっている。パフォーマンスでは、エノチュウが女装、ローズに扮してバーを開く「Bar Rose Chu」はさきの銀座駆け抜けなどとともにハプニングの先駆けで、関西では具体以後、グループ「位」などのハプニング性に重きを置いたパフォーマンスのまさに王道の一つであったのかもしれない。しかし、もともと長田の鉄工所の工員であったエノチュウは「鉄」にこだわる作品を次々に発表し、活動領域はパフォーマンスからインスタレーションや重厚な物体作品へとシフトしていく。その到達点の一つが《PRM-1200》だろう。
《PRM-1200》とは、旋盤の機械が毎分1200回転することを意味し、エノチュウが廃品の金属部品を旋盤でさまざまな形に磨き上げ、まるで未来都市のように積み上げていった根気と執念の作品。会場そのたびごとにエノチュウが設営するため、二つと同じ作品はなく、筆者は、エノチュウがまだこれほど知られていなかったときに大阪のキリンプラザ(も今はもうない)で初めてまみえた代物だ。また、2年前の神戸ビエンナーレでも特別出品しているが、今回はこれまでで最大のもの。圧倒される、のひとことである。
金属にこだわるエノチュウは「薬莢」や大砲、「AR-15」(アメリカ製の銃)や「AK-47」(同じく旧ソ連製の銃)といった戦争を想起させる作品も多い。エノチュウはその昔、自分にアートがなければ無差別殺人みたいな何をしでかすか分からないとも言っていたそうだが、理由のよく分からない暴発の情念がアートに結晶して本当によかったとともに、まだ、軍事兵器にこだわる危険性がエノチュウをして、殺戮という結果しかもたらさない戦争というものを表現者としてどう考えているのか、詳しく知りたいところではある。
変な言い方だが、エノチュウにかかれば薬莢も大砲もそして機関銃も美しい。それらが、殺戮兵器としてではなく、一回の鉄の塊としてむしろ人間性を排した無機質に徹しているからだろう。《PRM-1200》にいたっては神々しくさえあったのは、鉄の職人エノチュウが、あのとてつもなく重い材料も彼にかかればどうにでも加工できる柔軟な素材と変身するからではないか。鉄工所を定年退職して現在はアーティスト一本のエノチュウ。初の本格的個展ではたして「美術館を野生化」できたであろうか。(《PRM-1200》)

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