「理解する」とはどういうことだろうか。たとえば日本では印象派以降の絵画や、それより古いフェルメールなどは描いている対象などが「理解できる」が、西洋絵画の本流、キリスト教絵画は理解できないからそれほど人気はない。あるいは、近代以降の抽象芸術は同じく「理解できない」から受け入れられない。もちろんダ・ヴィンチの「聖アンナと聖母子」であるとか、ピカソの「アヴィニョンの娘たち」であるとかはあまりにも有名なので、キリスト教や抽象芸術に造詣がなくともありたがって鑑賞するが、それとて「理解している」とは言い難い。そしてそもそも芸術、特に美術に「理解」は必要なのか。
アール・ブリュットとはフランスのジャン・デュビュッフェが命名した主に知的障がい者や精神障がい者など正規の美術教育を受けたことがない人たちの創作活動を指す。そこには「作り手が鑑賞者を意識することなく、自らのためだけに制作したのであるから、それを展示する行為には矛盾があるのではないかとの批判が一部にはある」。(本展図録より 兵庫県立美術館学芸員服部正氏の「はじめに」)しかし、根本的に見られることを欲しない表現活動(美術)に一度触れた者は、商業ベースに乗るかどうかは人によるとしても、放ってはおかないだろう、アール・ブリュットを。
アール・ブリュットは「生の芸術」と訳される。「生」を「せい」と読むか、「なま」と読むか、はたまた「き」と読むか。「き」と読むのが、一般的ともされるが「せい」ではだめなのか、「なま」ではだめなのか。要するに、正式な美術教育を受けていない、ことを指すために「き」と呼び、いわば手垢のついていない、処女地のような芸術と言い表したいのだろう。
ルボシュ・プルニーもアンナ・ゼマーンコヴァーもそういった意味では「き」を十分に感じさせる。プルニーは人体解剖に異様なまでと思えるほど興味をもち、自身の像もカップルも、ファミリーもすべて細かな血管で結ばれている。ときに性器を強調したそのさまは、「き」ではなく「せい」にとてつもなく興味があるようにさえ思える。ただ、性器を強調しようが、自らの肉体に縫い針を打とうが、人体に興味があったことの結晶であり、血管を紡いでいるよう見えて、そこにはあたたかなつながりさえ感じられる。カラフルさも含めてそこにはグロテスクさはない。それは、アール・ブリュットの本質、見せるためのドローイングではなく、自分ための歴史記述であるからなのだろう。ゼマーンコヴァーの画業はうって変わって、大地に根付く植物など、生き物への畏敬にあふれている。それは時に植物を超えて、おどろおどろした妖怪、奇怪な食虫植物とも見え、ジョージア・オキーフのエネルギー倍加した絢爛豪華な造形にあふれている。そして、プルニーにしてもゼマーンコヴァーにしても、ヒンズーやチベットの細密画も違う意味で脱帽の人間技とは思えない細かな筆さばきに驚嘆するばかりだ。
展覧会と同時開催(上映)の映画「天空の赤―アール・ブリュット試論」は、アール・ブリュットのコレクター、ブリュノ・ドゥシャルムがアール・ブリュットの作家たち、それらを評する人たちを描いたドキュメンタリーだが、そこに出演するのはおよそ常人の想像の域を超えている。しかし、精神障がいや知的障がい、発達障がいなどと「障がい」ひとくくりでアール・ブリュットが語り尽くせるほど、その奥が浅くはないことを思い知らされる。
スイスはローザンヌのアール・ブリュット美術館はジャン・デュビュッフェが母国フランスでのアール・ブリュットに対する理解のなさやごたごたですべてを寄付した曰くあり、興味深い美術館だが、規模は小さい。しかし、先述の細密画や大胆な造形など、それがアール・ブリュットとは分からないほど「美術」世界に溶け込んだ作品の数々で日本人作家のものも多い。美術を評価するのはだれか、理解するのはだれか。それは作り手を高みで見ているあいだは正当な立ち位置にはなり得ないことを示しているのが、今回の「解剖と変容」展の感想である。(ルボシュ・プルニー「無題」)
アール・ブリュットとはフランスのジャン・デュビュッフェが命名した主に知的障がい者や精神障がい者など正規の美術教育を受けたことがない人たちの創作活動を指す。そこには「作り手が鑑賞者を意識することなく、自らのためだけに制作したのであるから、それを展示する行為には矛盾があるのではないかとの批判が一部にはある」。(本展図録より 兵庫県立美術館学芸員服部正氏の「はじめに」)しかし、根本的に見られることを欲しない表現活動(美術)に一度触れた者は、商業ベースに乗るかどうかは人によるとしても、放ってはおかないだろう、アール・ブリュットを。
アール・ブリュットは「生の芸術」と訳される。「生」を「せい」と読むか、「なま」と読むか、はたまた「き」と読むか。「き」と読むのが、一般的ともされるが「せい」ではだめなのか、「なま」ではだめなのか。要するに、正式な美術教育を受けていない、ことを指すために「き」と呼び、いわば手垢のついていない、処女地のような芸術と言い表したいのだろう。
ルボシュ・プルニーもアンナ・ゼマーンコヴァーもそういった意味では「き」を十分に感じさせる。プルニーは人体解剖に異様なまでと思えるほど興味をもち、自身の像もカップルも、ファミリーもすべて細かな血管で結ばれている。ときに性器を強調したそのさまは、「き」ではなく「せい」にとてつもなく興味があるようにさえ思える。ただ、性器を強調しようが、自らの肉体に縫い針を打とうが、人体に興味があったことの結晶であり、血管を紡いでいるよう見えて、そこにはあたたかなつながりさえ感じられる。カラフルさも含めてそこにはグロテスクさはない。それは、アール・ブリュットの本質、見せるためのドローイングではなく、自分ための歴史記述であるからなのだろう。ゼマーンコヴァーの画業はうって変わって、大地に根付く植物など、生き物への畏敬にあふれている。それは時に植物を超えて、おどろおどろした妖怪、奇怪な食虫植物とも見え、ジョージア・オキーフのエネルギー倍加した絢爛豪華な造形にあふれている。そして、プルニーにしてもゼマーンコヴァーにしても、ヒンズーやチベットの細密画も違う意味で脱帽の人間技とは思えない細かな筆さばきに驚嘆するばかりだ。
展覧会と同時開催(上映)の映画「天空の赤―アール・ブリュット試論」は、アール・ブリュットのコレクター、ブリュノ・ドゥシャルムがアール・ブリュットの作家たち、それらを評する人たちを描いたドキュメンタリーだが、そこに出演するのはおよそ常人の想像の域を超えている。しかし、精神障がいや知的障がい、発達障がいなどと「障がい」ひとくくりでアール・ブリュットが語り尽くせるほど、その奥が浅くはないことを思い知らされる。
スイスはローザンヌのアール・ブリュット美術館はジャン・デュビュッフェが母国フランスでのアール・ブリュットに対する理解のなさやごたごたですべてを寄付した曰くあり、興味深い美術館だが、規模は小さい。しかし、先述の細密画や大胆な造形など、それがアール・ブリュットとは分からないほど「美術」世界に溶け込んだ作品の数々で日本人作家のものも多い。美術を評価するのはだれか、理解するのはだれか。それは作り手を高みで見ているあいだは正当な立ち位置にはなり得ないことを示しているのが、今回の「解剖と変容」展の感想である。(ルボシュ・プルニー「無題」)