はっきり言って、言いっ放しの「ネトウヨ」にいちいち対応するのは面倒臭い。多分言いっ放しの根拠など何もないんだろうけれど、それを検証するなど。でも前著『九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』(ころから 2014年)で関東大震災での朝鮮人虐殺の実相を細かに跡付けて見せた著者の姿勢からは当然、そして「よく書いてくれた」である。
「ネトウヨ」を中心に右派言論で喧伝される「関東大震災で朝鮮人虐殺はなかった」の元々のネタ本は、工藤美代子著『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(2009年 産経新聞出版)である。ところが、工藤氏の夫の加藤康男氏執筆で刊行された『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった』(2014年 WAC)は「同一の本でありながら再版にあたって著者名が変更されるという奇怪なことになっている」(79頁)。内容はほぼ同一なので、両書をあわせて『なかった』といい、逐一検証していくのが本書の肝である。
そもそも本書がなぜ「トリック」なのか。それは、『なかった』で描かれる朝鮮人虐殺の反対論証の前提となる文献引用がことごとく恣意的、意図的であるからだ。『なかった』が最大の論拠とする震災直後の新聞は確かに朝鮮人が暴動などと報道している。しかしすぐにそれが誤報であったことを認めているが、『なかった』はそれには触れない。そしてその時期以降民間人による朝鮮人虐殺があったことを伺わせる報道もあるが、『なかった』にはそれにも触れない。しかも新聞などの原典引用をする場合全文そのまま引用が当然であるのに、『なかった』はつまみ食いで前述を補強する。要するに『なかった』は実証主義的に朝鮮人虐殺はなかったことを立証するといいながら、結論ありきのために史資料の引用自体が偏っているのだ。あるいは出展の出元が工藤氏の近親者なの言説だけなど。けれど『なかった』読者がよもやそんな引用方法はしていないだろうと信じる。当たり前だ。まがりなりにも現物の史資料を前提としての論証なら、その史資料引用が恣意的などと一般読者は思わないからだ。工藤は歴史研究者ではないが、著名なノンフィクション作家だと思われている。その逐一の誤謬を指摘する加藤の作業は、武田砂鉄も指摘するように度を越しているというか、ただただ頭が下がる。個々の誤りを色まで変えてアンダーライン、吹き出しなどで解説する丁寧な表示もありがたい。
ところで、虐殺否定論はいろいろな方面でその威力を発揮していることは恐ろしい。小池百合子東京都知事が2017年に朝鮮人虐殺犠牲者追悼式典への追悼文送付を取り止めた件は、その効果!が現れている。小池都知事は関東大震災での全ての犠牲者に追悼の意を表しているからと、を理由にしているが、朝鮮人虐殺の犠牲者はいっしょくたんにはできない。震災そのもので亡くなった人と殺された人を同列に扱うのはおかしいからだ。しかし、小池都知事の決断に勢いを得た?右派はまず虐殺数を問題にし(都議)、ついに虐殺はなかったのだから小池都知事の判断は正しかったとする。美しい国の日本人が朝鮮人虐殺などに手を染めるわけがないというという安倍晋三首相を応援する歴史修正主義者の常套手段である。
本書で『なかった』論は破綻していること明らかだが、加藤の前著『九月、東京の路上で』を工藤の夫加藤は「いかにも韓国仕込みのプロパガンダ臭紛々とする左翼ヒステリー本」と決めつけたそうだが、本著にはどのようなレッテルを張るのだろうか。『なかった』が引用する新聞記事などの原典、関東大震災時の原資料にあたり、逐一検証する姿勢は彼らにはそもそもないのだろう。しかし言いっ放しで良いとする現政権の閣僚、近しい人々に対するカウンターは地道、細かな論証にかかる反撃でしか戦えない。『なかった』派の土俵に乗って非論理的な言説にかまけているわけにはいかないからだ。リベラル派もプロパガンダに頼るのもでなく、加藤直樹の仕事にそれこそ頭が下がっている場合ではないのだろう。